第158話 大切な友を護るため
——ああ、寒いなぁ
ルミは地下道に伏せて、かつて駆け抜けた戦場、コッラー川の戦いを想い起こしていた。
——あの時も寒かった。ただでさえ四肢が凍りつくほど寒いのに、白く湯立つ呼気を隠すために口に雪を詰めてたんだから当然だけど……
その記憶はルミのものではなく、白い死神と呼ばれ恐れられた彼女に宿る伝説の狙撃手のものだった。
だが、脇腹を大きく抉られて致命傷を負った彼女には最早己自身と紋章に宿る偉人の記憶との区別さえついてはいなかった。
——だけど、私はあの時も諦めなかった。
敵国ソ連の兵力四〇〇〇人に対し、たったの三十二人で迎え撃つこととなったコッラー川の戦い。
史実では寒冷地での戦闘に慣れないソ連軍を白い外套を着て周囲に溶け込みながらの銃撃で撃退。
敵が戦車を出せば戦車長を射殺、死角の多い戦車に近距離からお手製の火炎瓶を投げ破壊。
その圧倒的なまでの強さによって終戦に至るまで大軍から護り続けたとされるが、事実はそんなに簡単なものではない。
確かに、結果だけ見れば有利な環境要因を活かした圧倒的な戦術・戦闘技能による余裕の勝利に見えるかもしれないが、そんなものであるはずがない。
戦場を襲うマイナス四十五度の極寒はソ連軍だけでなく、当然シモヘイヘらフィンランド軍にも平等に牙を剥く。
耐寒装備を着用しているとはいえ、長時間の戦闘は体温と共に手足の感覚を奪い去っていく。
シモヘイヘは外気温との温度差によって白く立ち上るため、口に雪を含んで呼気による位置情報の特定を防いでいたが故に、更なる体温低下を招き、凍傷だって耐えなかった。
たった一人で五〇〇名以上も討ち取ったといえど、無傷であったはずがない。
幾つもの傷を負い、終戦間際には左顎に銃撃を受ける重傷を負った。
だけど、それでも諦めなかった。
圧倒的な兵力差であろうと……
死と隣り合わせの環境であろうと……
いつまで続くかも分からぬ戦いであろうと……
彼らは決して諦めずに祖国を護る為戦い抜いた。
——そうだ。私が戦う理由はなに?
そうかもしれないけど、少し違う。
誰もがみんな良い人じゃないことは知ってるし、ムカつく奴のために命を賭けようと思うほど酔狂じゃない。
お金の為?
これも当てはまるけど、本質じゃない。
お金がないと大好きなお酒を買えないし、そもそも生きていくことができない。
だけど、お金なんて別に命を掛けなくても稼ぐ手段なんていくらでもある。
シモヘイヘの紋章者として、彼に恥じぬ生き方をするため?
絶対に違うと断言できる。
悪いけど、誇りや矜持の為に命を賭けるだなんて全く理解できない。
ぶっちゃけ英雄に憧れるだけの子供にさえ見える。
なら、仲間の為?
うん。これだね。
私は特務課第五班という居心地の良い居場所を護りたいんだ。
酒飲み仲間であり、一生一緒にふざけ合っていたいと思える一番の
——そうだ。私はみんなを、大切な親友を護りたい。
だけど今、そんな大切な親友をたった一人で戦わせてしまっている。
それも全て己の弱さが原因で。
十中八九、このまま戦えば静は敗北して死ぬ。
空気さえあれば無限に身体を再構築できる彼女であるが、紋章を扱う基点である脳を破壊されれば死ぬのだ。
そして、静の弟の体術をトレースし、ほぼ無尽蔵の紋章術も扱うジルニトラには彼女を殺す手段など幾らでもある。
——護る為に戦うんだ。その為なら私は……
ルミは冷たく震える身体から力を抜き、右眼に宿る紋章にだけ意識を集中させる。
彼の技能や功績が記された表層を抜け、彼の能力の本質が記された中層をも潜り抜ける。
深く……
もっと、深く……
己の精神が溶けるような感覚と共に意識を沈めていく。
そして、ルミは遂にシモヘイヘという伝説の狙撃手の記憶や人格……彼の全てが記された深層にさえ手を届かせた。
視界が開ける。
そこは雪が降り
背の高い針葉樹林が並ぶ白銀の世界。
その中にある一つの切り株。
そこに、真っ白なフード付きコートを着用し、ボルトアクション式小銃モシン・ナガンM28を抱える男が腰掛けていた。
男はルミの存在など、とうの昔に気づいていた。
紋章の深奥にまで到達した理由も理解していた。
その上で、男は彼女の覚悟を見定めるため何もせず、黙して彼女の歩みを待っていた。
——ハァ……ハァ……
まるで積雪に吸い込まれるかのようだった。
ただの一歩。
そのなんでもない一歩に全ての体力を持っていかれるかのような思いだった。
そしてそれは、眼前に腰掛ける男へ近づくにつれて倍に、そのまた倍にと歩みが重たくなる。
だが、それでも彼女は歩みを止めなかった。
大切な親友を助けるため。
また、共に笑い合うため。
ルミは歩み続けた。
だが、彼女を阻む壁は歩みを重くする積雪だけではない。
降り頻る白雪と積雪は彼女の身体から体温を奪い、凍傷と共に緩やかな死へと近づける。
もう、四肢の感覚などとうにない。
それでも彼女は身体を動かし続ける。
前へ……
前へと……
そして……
遂に、彼女は倒れ込んでしまった。
四肢は幾ら動かそうとしてもその役目を果たさない。
意識が朦朧として視界もぼやける。
しかし、その手には僅かに感じる温もりがあった。
そうだ。
彼女の意思は届いていた。
倒れ込んだ彼女の冷えきった手は、切り株に腰掛ける男が膝に置いた手を今にも解けそうな微かな力で包み込んでいたのだ。
——お願い。私だけじゃもうどうにもならない。私の大切な人を護りきれない。だから、私に力を貸してシモ・ヘイヘ。
男は彼女の覚悟は見届けた。
故に、彼の返答はただ一つ。
——承知した。
紋章の奥の奥、最奥にて眠る偉人の魂へと手を伸ばしたルミ。
死の淵にありながら、大切な仲間を護りたいという一心のみで紋章者としての最奥に到達した彼女へ、その瞳に宿る最強の狙撃手は端的な返答を以て最大限に応えてみせた。
彼女の内から発せられた白き光が全身を飲み込み、数瞬の後に晴れる。
そこに、ルミ・ラウタヴァーラの姿はなかった。
その場にあるは、一五二センチメートルの小柄な男性。
真っ白なフード付きコートを身に纏い、口元はネックウォーマーで覆い隠しているが故に顔のパーツで見えるのは右眼に刻まれた照準のような紋章が特徴のライトグリーンの瞳のみ。
フードから僅かに覗く前髪から黒髪であることも窺える。
そして、その身にはルミが負ったはずの脇腹の傷は影も形も見当たらなかった。
これは本来であれば、偉人格特有の紋章覚醒の失敗例とされるものだ。
だが、そうされる理由は紋章覚醒の際、自我による抑制が足らず、臨界者としての領域へ一息で行ってしまうが故に、身の丈に合わぬ力に呑まれて人格を乗っ取られてしまうためだった。
しかし、今回は違う。
ミカが己の全ての紋章画数を代償として己が内に眠る英雄へ全てを託してその身をミカエルへと変じたのと同様。
死の淵に立たされたルミは己が精神力のみで臨界者としての領域へと到達し、己では効かぬその制御をヘイヘに託したのだ。
彼こそがフィンランド軍最強の狙撃手にして、かつてたった三十二人で四〇〇〇人のソ連軍から祖国を守り抜いたコッラー川の奇跡の中心人物——シモヘイヘ。
「…………」
ヘイヘは静かに視線を落として、地下放水路にて近接格闘戦を繰り広げる静とジルニトラを視界に捉える。
「簡易侵食領域展開」
シモヘイヘには生前魔術師だったなどという知られざる事実は存在しない。
彼は歴史の影に隠された魔術の存在など知らなかったただの元猟師の軍人だ。
そんな彼であるが、魔術を知らぬままではなかった。
紋章を通じてルミが見る世界を見て、
己が力を頼りとする一人の少女の力となる為、彼は死してなおその牙を研ぎ続けることで最小限の魔力消費で発動できる簡易侵食領域をを習得していた。
「
ヘイヘが展開した簡易侵食領域に飲まれた静とジルニトラは一面の雪景色に立たされていた。
地平線の彼方まで見渡せる。
そんな氷雪吹き荒ぶ白銀の雪景色だった。
「新手か……?」
「なるほど……」
故に、両者の認識の違いが生まれた。
ジルニトラは第三者が現れたと捉え、静はルミが成した技であると捉えた。
この認識の違いは致命的な差である。
なぜなら、静は彼女の攻撃方法が銃撃によるものだと知っているが、ルミ以外の第三者の介入と捉えたジルニトラにはその予備知識が存在せず、攻撃方法が不明であるからだ。
ほんの些細な差が、致命的な一撃を刻み込んだ。
音も無く、雪に紛れた感知不可能の四発の魔弾がジルニトラの四肢の関節に撃ち込まれた。
「…………!!(なんだこれは? 着弾するまで観測できなかった?)」
ヘイヘが展開した簡易侵食領域に必中効果は付与されていない。
不完全な侵食領域であるからこそ、その効果はたった一つ。
ヘイヘが放つ弾丸の存在を吹き荒ぶ氷雪と同化させるだけ。
しかし、それをヘイヘほどの射手が扱えば、着弾するまで存在を感知できぬ防御不能にして必中の領域へと変貌するのである。
放たれた魔弾は降り注ぐ雪の中を転移することで不規則な弾道を描き、その音さえも紋章術によって消失する。
そして、着弾するまで周囲に舞い散る雪に存在そのものを紛れさせているがため、ジルニトラの機械眼でさえ雪との違いを識別できず、着弾してからその存在に漸く気づくことができた。
ジルニトラにとって、この程度の傷は瞬きの間に再構築できる些細な傷。
しかし、それは弾が貫通していればの話だ。
ヘイヘは射角を調整することでジルニトラの関節部に弾丸を残留させていた。
これにより、再構築するには弾丸の排泄というプロセスを挟まなければならず、再構築にかかる時間がほんの一秒伸びてしまった。
たったの一秒。
されど、一秒間四肢を動かせないというのは、武術の達人にして大気の覚醒紋章者の前で晒す隙としてはあまりに致命的だった。
「
静は周囲全てが真空となるほどの莫大な大気を右足に圧縮する。
物質に圧力をかければかけるほど、熱を発生させる。
これは、その究極型だ。
超高圧で空気を圧縮すると、大気はその状態を第四の形態へと変化させた。
即ち、プラズマへと。
蒼白い稲光のような形態へと変化した彼女の右足が振り下ろされる。
「任務失敗……か」
轟音が氷雪の銀世界へ鳴り響くと共に、ジルニトラは塵一つ残さず消失した。
◇
アトランティス第七区一号性能試験場。
強固な防壁に囲まれた無機質なドームの内にて、ジルニトラは己の端末の一つが消失したことを感じ取っていた。
「オアフ島に向かわせていた端末機が破壊されたか。……存外やるようだな。お前の師は」
ジルニトラは特に気にした様子もなく、足元に転がる傷だらけの男に語りかける。
「ハァ……ハァ……、当然だよ。姉さんがお前の端末機如きに負けるわけがない」
足元に転がる傷だらけの男の正体は静の義弟にして弟子である
彼はジルニトラが話していた通り生きており、その内に眠る五神龍の力を十全に引き出す為、ジルニトラによって死の淵まで追い込まれては治療して、というサイクルを繰り返していたのだ。
「幾らでも量産できる端末機相手に圧勝できぬようでは底は見えているがな」
そう吐き捨ててジルニトラは床に転がる
そう、彼が言う通りこの場にいるジルニトラこそが本体であり、オアフ島にいたジルニトラなど、彼から生み出されたオリジナルの数パーセント程度の戦闘能力しか持たない端末機に過ぎなかった。
ジルニトラ。
その正体はアトランティスの首領であるバルトロメウ・ディアスが“惑星の最強種”をコンセプトに開発した、
アトランティスの切り札として知られるオリュンポス十二機神を隠れ蓑としたアトランティスの真なる切り札にして、科学によって魔術を淘汰せんとする象徴だった。
「オアフ島における任務は失敗したようだが、アレスを投下するのなら問題あるまい」
ジルニトラはアレスの性能——ひいては内部構造を想起する。
「奴の中に眠る機神はこの俺と同種の性質を持つのだからな」
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