第155話 かつてあった義姉弟の一幕



 


 西暦二〇四〇年。

 現在から五年前のことだ。

 富山県、飛騨山脈の山中。

 そこに二人の天才武術家姉弟がいた。

 姉の名を蕭静シャオジン、弟の名を飛龍フェイロンと言った。

 

 彼らは血のつながりのある姉弟ではなかった。

 ある日、静は気分転換にと山を降りて浜辺を訪れた。

 その時、波打ち際で打ち上げられていた十二歳頃の少年——飛龍フェイロン——を彼女が見つけて介抱したことが始まりだった。


——記憶がない? 自分の名前しか分からないかぁ。こりゃまた難儀だねぇ〜。


 ムムム〜どうしたのものか、と首を捻って悩む静。 

 そんな彼女を見て、迷惑をかける訳にはいかない、と考えた彼は震える足に手をついて布団から無理矢理立ちあがろうとして……


——こらこら、怪我人が無理しなさんな。


 静がそっと手を添えただけで全身の力が抜けてまた優しく布団へと寝かされた。

 何が起きたのか分からず、目を白黒とさせる彼の額を優しく撫でつけ、


——大方、迷惑になるだとか考えてるんだろうけどね、君はまだ子供なんだから、まずはお姉さんに甘えることから覚えなさいな。


 そう、笑みを浮かべて撫でる手はとても温かく、放れ難かった。


 だけど、命の恩人である彼女に迷惑をかけたくないという思いもある。

 浜辺に打ち上げられた記憶喪失の子供など厄ネタでしかないことは記憶がなくてもなんとなく察せるのだ。


——ん? トラブルを呼び込むかもしれないって? アッハハハハ!! そんなこと子供が気にする必要ないわよ。


 そう言って彼女は安心させるように、布団で横になる少年の手をその手で優しく包み込む。


——子供ってのは周りにたっくさん迷惑をかけて、たっくさん頼って、そうして少しずつ成長していくものなのよ。……だから、大丈夫。たとえ何があっても、私が護ってあげる。私が導いてあげる。私が安心させてあげるから。


 記憶を失い、行くべき道さえ分からぬ中差し出されたその手は、思わず涙が溢れだす程に安心感を与えてくれた。


 この温もりだけは決して忘れない。

 この人だけは、何があろうと守り抜く。

 

 飛龍フェイロンという名だけを持つ少年は誰に明かすでもなく心の内で誓い、それを己が決してたがえることのない信念とすることを決めた。



 そして、二年後……。



 姉弟の契りを結んだ彼らは互いに支え合い、ジンから武術の教えを受けた飛龍フェイロンはその才覚を発揮してメキメキと実力を伸ばしていき、師である静に並ぶほどとなっていた。

 あっという間に追いつかれた事実に静は悔しいと地団駄を踏んだ時もあったが、……何より誇らしかった。

 己が手塩にかけて育てた自慢の弟なのだ。

 強く立派に育ってくれて嬉しくないはずがない。

 

 だがそんな中、かつて少年が危惧した事態は起こった。


 いつも通り、飛龍フェイロンは洗濯物を干しながら狩りに出て行った静の帰りを待っていた。

 

 鼻歌を唄いながら、何気ないこの幸せなひとときを噛み締めていた彼のもとへ地響きと轟音が響き渡ってきた。


 警戒したのも束の間。 

 木々の合間から見知った影が凄まじい速度で吹き飛ばされてきた。


 飛龍フェイロンは即座に動き、吹き飛んできた彼女を受け止める。

 それは血に塗れてボロボロになった静だった。

 右足と左腕は折れてあらぬ方向を向いており、口端から血を溢れさせる彼女の息は浅い。

 恐らくは内臓も複数箇所損傷しているだろう。

 死に瀕した彼女を見て、飛龍フェイロンの胸中には怒りや悲しみが湧くと共に、それらを覆い尽くすほどの後悔の念が埋め尽くしていた。


——姉さん! 姉さん!!


——ご、……めん……。そんな顔……させたく、なかったんだけどね……。


 静は血に塗れた手で、己を抱き上げる最愛の弟の頬を撫でる。


——逃げ……て。アイツの狙いは、……ロン、あなたの中に宿る……その力よ。


 大気の紋章者であり、武術の達人でもある彼女は飛龍フェイロンを義弟として受け入れたあの日、彼の纏う空気感からその内に何かしらの凄まじい力が眠っていることをなんとなく察していた。

 

 そして、いつかその力を狙う何者かがこうして襲撃を仕掛けてくることも。

 

 だからこそ、彼女はその時に備えてより一層の鍛錬を積んでいた。

 

 己の身を護れるように飛龍フェイロンに武術を教えて鍛え上げた。


 だが、それでも運命は彼女の努力を嘲笑う。


 飛龍フェイロンの力を狙う襲撃者は世界でも有数の強者。

 レート7に相当するような正真正銘の怪物であった。


 彼らを襲った襲撃者は木々の合間から姿を現す。

 周囲に紫電を撒き散らす、フードを目深に被った彼の顔は窺えない。

 静と戦闘を繰り広げた後のはずにも関わらず、その服にさえ一切の傷はなかった。


 静は決して弱くはない。

 武術の腕前は既に神域に到達しており、紋章者としても十二分の強さを持っている。

 だけど、そんな彼女でさえ全く歯が立たない絶望がゆったりとした歩調で歩みを進めてくる。


——ロン。あなたに会えて、……共に過ごせた、この二年間は……、私の生涯で、……最も輝かしい瞬間だった。


 息も絶え絶えに、血反吐さえ吐きながら静は最愛の義弟を護るべく立ち上がる。

 折れた手足は竜巻状にすることで代用し、血が足りなくて朦朧とする意識は義弟を護り抜くという何よりも強い意志で鮮明に保つ。

 

——ロン。……あなたのこと、……心から愛してるわ。


 静は最期の力を振り絞って後方へ竜巻を巻き起こし、飛龍フェイロンを遠くへ、追っ手の手が届かぬほど遠くへ逃がそうとする。


 だが、大切に想う気持ちは一方通行なものではない。

 己の命よりも大切に想うその気持ちは飛龍フェイロンとて同様だった。


——な……んで……。


 飛龍フェイロンは静が逃す為に放った竜巻を回避し、彼女の前へ飛び出すと、その身をもって襲撃者の魔の手を受け止めていた。

 

 レート7の怪物が殺す気で放った貫手。

 武術の天才といえど防げるものではない。

 だからこそ、彼はその命を捨てることで最愛の義姉を護り抜く決意を固めたのだ。


——何を……、してるのよ!! バカロン!!


 襲撃者の腕は飛龍フェイロンの心臓部を貫いていた。

 誰が見ても明らかな致命傷だ。

 最早助かる道はない。


 だが、だからこそ、飛龍フェイロンは何よりも大切な者を護り抜くことに専念できることに安堵さえした。


——ハハ、まるでマカロンみたいな罵倒でちょっとかわいいなぁ。……姉さん、姉さんが僕を大切に想ってくれてるように、僕だって姉さんのことが大切なんだ。


 記憶を失い、行くべき道も、帰るべき場所も見失って、一人ぼっちの迷子だった己の手を優しく包み込んで、これまで護りぬいてくれた最愛の義姉。


 彼女の為に生きて死ぬ。

 

 飛龍フェイロンはあの頃から、その為に鍛錬を重ねてきたのだ。


——本当はもっと姉さんと共に生きたかった。この幸せな夢を見続けたかった。だけど、弱い僕にはそれだけの力はなかった。……だから、ごめんね。


 最愛の義姉と共に生きるという夢はもう見れない。

 だから、今の己が抱ける最大の理想を実現すべく、その身に残された全てを捧げる。


——ロン!! ロォォォォオオオオオオオオオオオオオンッッ!!!!


 己が身に宿る力の正体も、正しい使い方も分からない。

 だが、彼ら・・は宿主の想いに応えた。

 最愛の義姉を逃すべく、空間を捻じ曲げて、彼女を安全な場所へと飛ばすべく、秘められたその力を振るう。


——僕も愛してるよ。姉さん。


 その間際、大切な言葉色褪せることのない絆を添えて……。





 

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