第153話 人の身にて至天に至る者



 雨露あまつゆに身を濡らす神父服の後ろ姿。

 骸骨という人間とはかけ離れた姿。

 その姿を直接見たことのある者はこの場にはいない。

 けれど、あの時の苛烈な戦いの全ては糸魚川いといがわとパトリックの手によって動画投稿サイトに挙げられており、当事者である高専生たちは当然視聴していた。

 

 だからこそ、その後ろ姿は誰もが知っていた。

 その理不尽なまでの強さを誰もが知っていた。

 そして、決して全幅の信頼を寄せられる味方ではないことを誰もが知っていた。


「どうして貴方がここに……」


 ジェイルへの恐怖でへたり込んだまま、日向ひゅうがは呆然とその後ろ姿へ語りかける。

 彼がいるということは、その主人である最強の陰陽師も来ているのでは……、とそんな想いをよぎらせながら。


「残念ながら、我が主人はこの場にはいませんよ」


 餓者髑髏がしゃどくろはその考えを見抜いた上で答える。


「それと、事情をクドクドと貴方方に教えるつもりもありません。そんなことより、今はこの場を離れることが先決では?」


 その言葉に日向はハッとする。

 彼女らの目的はあくまで避難民の安全確保であって、ジェイルを打倒ないし捕縛することではない。

 ジェイルという脅威を抑えられるというのなら、態々戦闘を続行する理由もないのだ。


(あの時の映像を見た限り、彼は主人である芦屋あしやくんに絶対の忠誠を誓っていた。そんな彼が敬愛する主人の名まで出して学友……つまり私たちを護ると言っているんだから、そこだけは間違いない真実だと思っていい……はず)


 当然、学友である風早らを護ることだけが餓者髑髏の目的ではないだろう。

 それと並行してどんな企みを抱いているのかなど想像もつかない。

 しかし、そんな邪推じゃすいをしてジェイルに匹敵あるいは凌駕しうる怪物をむざむざ敵に回すなど愚の骨頂である。


 故に、日向は一瞬の思考の後に即決した。


「そうだね。ドクロさん、ここは任せるね! でも、悪いことはしちゃダメだからね!!」


 そう言って、彼女は周囲の高専生らと共に水上が開けた穴から地下道へと潜り、避難民を誘導しながら退避していった。


「ドクロさん……ですか…………フフフ、なんとも新鮮な呼び名ですね」

「チッ! 逃すかよ!!」


 呼び慣れぬ愛称に餓者髑髏はクスリと笑みを溢す。

 その隙にジェイルは彼の背後で退避を進めていた紋章高専生らを喰らうべく、一〇〇を越える樹木の龍を殺到させる。


 だが、その全ては地面から突き出した無数の骨によって宙に縫い留められてしまう。

 その隙に周囲にいた高専生は水上みずかみらと共に地下道へと退避を完了させた。


「あ〜あ、獲物を逃しちまうとはなぁ……」


その様を見てジェイルは舌打ちを漏らすと共に標的を切り替える。


——まぁ、いい。

 

 遊びながらでも食える兎狩りは終わり。

 強者が強者を喰らう獅子狩りもまた一興だ、と。


「それに、悪いことはしちゃダメ……と」


 そんなジェイルの様子など眼中にない餓者髑髏は先の彼女の言葉を思い出して笑みを深め、何も宿さぬ空虚な眼孔に青白い死の焔を灯らせる。


「さて、大切な者を護るために血の雨を降らせることは……」


——果たして悪と呼ばれるのでしょうか?



    ◇



 場所は移り変わり、コオラウ山脈。

 彼の地で繰り広げられるソロモンとバアル・ゼブルの戦いは後者が優勢であった。


「おやおや、先ほどから防戦一方のようですが、一体何を狙っているので?」


 バアル・ゼブルは触れるだけで死に至る即死の呪詛を無数に振り撒く。

 それに対してソロモンは魔力障壁で防ぎ、間隙かんげきを見て複数の術式を同時行使して炎や雷をもって反撃するが、その程度では牽制程度にしかなっていなかった。


「別に、僕は僕が成せる最善を尽くしてるだけだよ」


 余裕綽々よゆうしゃくしゃくといった態度でソロモンの魔術を回避するバアル・ゼブル。

 その彼の背後の空間が突如として砕ける。

 

「——ッ!」


 砕けた空間内部からソロモンが召喚した異界の触手生物がバアル・ゼブルを拘束しようとするが、彼は振り返ることもなく魔力の刃でその触腕を全て塵芥となるまで斬り刻んだ。


 しかし、攻勢はそれでは留まらない。

 立て続けに不可視の腕がバアル・ゼブルを掴み取る。

 そして、もう一対生み出した不可視の腕が身動きが取れなくなった彼へと容赦なくアームハンマーを振り下ろし、地面へと叩きつけた。


「この程度が最善なはずがないでしょうに……」


 山肌を抉り飛ばし、地形さえ変わるほどの一撃を喰らいながらも、バアル・ゼブルにはダメージを負ったような様子はなかった。


 インパクトの瞬間。

 衝撃の全てを魔術によって大地へ逃すことでその威力の大部分を受け流してみせたのだ。

 

 そして、山肌が崩れ、その土埃によってソロモンの視界から外れたバアル・ゼブルは束の間の思考にふける。

 

(彼は己が従える七十二柱の魔神の大半を世界各地で発生している黒いもやの監視と封印に回している。故に、全力を出すことは叶わない)


 当然、それを差し引いたとしてもソロモンの強さは特務課班長に足るだけのものだ。

 魔力ではなく、神威真エーテルを用いた神代術式でなければ完全無効化されるどころか逆にその支配権を奪われる。

 扱う魔術に関しても、その一つ一つが地形を変えるほどの威力を持ち、枠にハマらぬ異質な術式を数多く持ち合わせる。


 とはいえ、至高の神であるバアル・ゼブルとしての側面を強調し、魔界を統べる暴食の大悪魔ベルゼビュートとしての力も併せ持ったこの受肉体であれば倒せない敵ではない。

 

 現に、戦況はバアル・ゼブルの優勢。

 ソロモンは余裕を装っているが、その身には少なくない傷が刻まれ、疲労も溜まっている。

 このまま戦闘を続ければ、数分後には己が勝利するであろう。


 だが、彼はそんな己の予想を否定する。


(大方、そうして劣勢を演じることで私に優越感を抱かせて、油断、慢心による戦闘の長期化を狙っているのでしょう)


 それは、何のために?

 

 時間稼ぎをするメリットとは?


 奴は一体何を待っている?


(Non.待っているのではない。彼が時間を稼ぐ理由はこれですね)


 ソロモンの狙いに気づいたバアル・ゼブルは天を仰ぐ。

 視線の先には曇天。

 つまり、彼自身が生み出した恵み災厄の雨の長期化こそがソロモンの狙い。


(慈悲の嵐ルハマ・スィアラーは弱者を淘汰とうたし、強者には戦場の苛烈化を強制する権能)


 無限の魔力をもたらす雨にさらされれば、魔力容量の少ない弱者は数分と持たず死に至る。

 魔力容量が多く、雨を己のかてとすることができる強者にしても、魔力不足を気にしなくていいことによって気持ちが大きくなり、自然と大技を使いがちとなり戦場の苛烈さを加速させる。


 彼がもたらした雨とはそういった、戦場の悪辣さを加速させる類の呪いとも呼べるものだった。


 だが、ソロモンはそれにこそ光明を見出した。


(無限の魔力によって戦場はより苛烈なものとなりますが、同時に民間人を護るための力も大きくなる)


 当然、味方の力と共に敵の力も増すが故にそれに民間人が巻き込まれる可能性は高くなる。

 しかし、それを踏まえて尚、味方の力が増す方がより良い未来となる。

 なにより、各地に散らばる護るべき対象逃げ遅れた民間人へ戦力を行き渡らせられる。


(大方、そんな未来が見えているのでしょう)


 ソロモンは過去と未来を見通す千里眼魔眼を有している。

 その眼でどのような未来を見たのか、その先に希望などあったのか、絶望の未来しか見えないながらも一縷いちるの望みを捨てないだけなのか。

 それはソロモンのみぞ知ることだが、彼の狙いに当たりがついた以上、その可能性があるものは排除するに限る。


「解」


 バアル・ゼブルは二本の指を揃えて短く唱える。

 それだけで、天を覆い尽くしていた曇天は瞬く間に晴れ、陰りだした夕空がその姿を露とした。


「おや、もうお終いなのかい?」


 土埃を破り、対面へと姿を現したバアル・ゼブルへソロモンは穏やかな笑みを浮かべる。

 そんな彼にバアル・ゼブルは瞳を閉じて静かに語る。


「元より、脱獄囚たちの闘争心を加速させてオアフ島各地で戦闘行動を起こさせ、特務課側の戦力を散らすことが目的」


 その狙いは既に果たされた。

 地下監獄施設の魔力接収によって魔力不足に陥っていた脱獄囚らには充分な魔力を与えられた。

 レート7クラスの脱獄囚の多くはザンドの手によって始末されたが、生き残った者たちがそれぞれの狙いの下、バアル・ゼブルが描く絵図通りに動いて特務課戦力を散らした。


「ですが、それがあなた方の戦力が民間人や戦力の不足箇所へ充足する助けとなるのならば逆効果でしかありませんので」

「まぁ、流石に気取られるよね」


 自身の狙いを悟られたと察したソロモンは肩をすくめて苦笑する。


「それじゃ、もうダラダラと長引かせる必要もないし、終わりにしようか」


 ソロモンの内から莫大な魔力が滲み出す。

 その圧は異次元のもので、滲み出す莫大な魔力だけで周囲の空間を歪めるほどであった。


「ほう? その気になればすぐにでも終わらせられたとでも? 人間風情が神を侮るとは……」


 バアル・ゼブルは身を裂くほどの魔力圧を真正面から受けながらも優雅な笑みを浮かべる。

 しかし、


「その不敬、……万死に値するものと知れ」


 その内に秘めたるは激情。

 眉間に血管を浮かび上がらせたバアル・ゼブルは己の神威の全てを解放する。


 神としての側面を象徴する白く輝く神威。

 悪魔としての側面を象徴するドス黒い魔力。

 

 双方の莫大なエネルギーによって紫紺の髪はゆらゆらと揺蕩い、見方によっては黄金にも色彩を変える真紅の瞳はその輝きを増す。


 頭上に光り輝く王冠を想わせる天輪もまた輝き、背部に背負う地獄の業火を想わせる黒炎の翼が猛り燃え上がる。

 

 至高の王と讃えられしウガリット神話の最高神にして、キリスト教圏においてかのルシファーと並ぶほどの大悪魔として恐れられた怪物。


 そんな彼の全霊を前にして尚、ソロモンは余裕を崩さず、静かに言霊を紡いだ。


「七十二柱の魔神よ。この身に集え。その威を、その魔を、その叡智を習合し、今ここに全知全能へと至らん」


——至天昇華術式“其は、全ての魔を以てテウルギア至天へ至る者・ゲーティア


「…………は?」


 ソロモンが発した呪文を聞いたバアル・ゼブルはそんな間の抜けた声を出すしかなかった。

 

 ありえない。


 そんなバカな。


 七十二柱の魔神の大半は黒い靄の監視と封印に回されているはず。


 そんな目の前の光景を否定したい言葉が脳裏を過るのとは裏腹に、現実は非情なまでに残酷な事実を刻み続ける。


「僕としてもこの選択は相当リスキーではあるけれど、認めるよ」


 ソロモンの影から七十二柱全ての魔神が黒い影として現れ、彼の身を包み込む。

 そうして、次に現れた彼の姿だが、大した違いは見受けられなかった。


 真紅が入り混じった黄金の瞳。

 アッシュグレーのゆるふわロングヘアー。

 浅黒い肌には真紅の魔術回路が眼に見えるレベルで励起しているが、その程度の変化でしかない。

 

 だが、バアル・ゼブルの眼には違って見えた。

 それは、かつて彼自身が座していた至高の頂。

 あらゆる神々の権能をその身一つに集約し、掌握していたかつての姿をその身をもって知っているからこそ理解できた変化だった。


「どうやら君を倒すにはこの道しかないみたいだからね」


 ソロモンの眼には覚悟が宿っていた。

 ほんの僅かな間とはいえ、正体不明の黒い靄から目を離す。

 それが一体どのような結果を齎すのかなど彼自身にも検討がつかない。

 しかし、バアル・ゼブルという至高の神にして大悪魔を葬り去るにはこれ以外に方法がないのもまた事実であった。


 故に、ソロモンは自身に一つの誓約を課した。


 一分。


 勝敗の是非を問わず、一分後にはこの術式は強制解除されて、全ての魔神が元の監視へと戻る。


「ありえない。……ありえない!! なぜ、人の身であるままで全知全能の座へ至れるのです!? 人間風情の脆弱な肉体でその座へ至れるはずが……!!」

「そうだね。天の位階なんて、ましてや全知全能の至天になんて本来人の身で到達できるものじゃない」


 ソロモンが一歩歩みを進める。

 それだけで踏みしめられた大地からは草花が芽吹き、暖かな春風がそよぐ。


「だけど、僕は人の王としてあり続けると決めているから、その枠から逸脱するような真似はしたくなかった」


 ソロモンが右腕を一薙ぎする。

 それだけで先の戦闘で荒れ果て、崩れた山肌は元のあるべき姿を取り戻した。


「だから、魔神を直接この身に取り込むことで肉体的強度と魂魄こんぱく強度の双方を強化したのさ」

「……なるほど。蘆屋道満あしやどうまんが行った方法論と似通ったことを行ったということですか」


 バアル・ゼブルの言う通り、それはしくも蘆屋道満が行った方法と同一の理論であった。

彼が神々や幻想種の血肉を喰らって肉体を強化し、その魂を喰らって魂魄を強化したように、ソロモンはそれと同一のことを己が従える七十二柱の魔神で行ったに過ぎない。


(とはいえ、彼と違って喰らった訳じゃなく、あくまで力を貸してもらってるだけだから長くは保たないって欠点はあるわけだけど……まぁ今は関係ないことだね)


 蘆屋道満と同一の理論ではあるが、その手段は少々異なっていた。

 彼は血肉と魂を暴食の紋章にて喰らい尽くしたが、ソロモンは魔神を従え、自発的に力を借りて一時的に血肉となってもらったにすぎない。

 だからこそ、その在り方は不安定であり、長くその状態を保つことは難しいのだ。


(どのみち短期決戦で勝負をつけなくちゃいけないんだ……)


 ソロモンが全治全能の至天へ至ったとしても、対するバアル・ゼブルとてかつての力を完全に取り戻した訳ではないとはいえ、至天に近しい力を持つ存在だ。


(とはいえ、一筋縄ではいきそうもないけど……)


 相手も至天に近しい力を解き放った為か、ソロモンの過去と未来を見通す千里眼を持ってしても勝利の未来は見えなかった。

 恐らくは知性体として高過ぎるその位階が未来を確固たるものとせず、常に揺らぎを生んでいるのだろう。


「でもまぁ、その無理を通さなきゃいけないのが上司としての責務なんだよね!」

「どこまでも不敬極まりないですねぇ。この愚王が」


 お気楽な調子で気合を入れるソロモン。

 対するバアル・ゼブルはこめかみに浮かんだ血管を切れそうにさせながらも、長く続くこの戦いに終止符を打つべく動き出す。


 だが、バアル・ゼブルがその一歩を踏み出すことは叶わなかった。


 バアル・ゼブルの心臓を一振りの鈍く光る聖剣が貫いていた。


 全知全能たる至天の座へと至ったソロモンでさえその未来は見えなかった。


 至高の王にして天魔ルシファーとも並ぶ大悪魔としての側面も併せ持つバアル・ゼブルでさえ知覚できなかった。


「未来は見えず、知覚できないのも無理はない」

 

 バアル・ゼブルを背後から突き刺した下手人の顔を覆っていたフードが風によってあばかれる。

 

 フードの下より現れたその顔は見慣れぬ端正な顔立ちの青年。

 

 癖のある金髪を左眼にかかる程度に伸ばし、右目側の前髪は後ろへ流している。

 何より特徴的なのはその瞳。

 黒き星を宿すその瞳はまるで星の影かのように思えた。


「なぜなら、“未来ではなく、今この瞬間を生きて、未来を切り拓く者”」


 彼は突き刺した聖剣を引き抜き、バアル・ゼブルが振り返り様に放たんとした反撃を許す間も無く肩から脇腹へかけて切り裂いた。


「それが勇者というものらしいからな」




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