第150話 絶望の未来/諦めぬ少年の心
時は少し遡り、風早たち紋章高専の精鋭部隊がジェイル迎撃へ撃って出た頃。
避難所内では誰もが震え、互いに励まし合い、彼らの勝利を祈っていた。
今のオアフ島の状況は最悪だ。
身を護ってくれる存在がいるとはいえ、敵は強大で、絶対に命の保証をしてくれるだなんて言えない。
彼らがどれだけ強くても、これだけの数を護りきるなんて理想でしかなく、現実的ではないのだ。
その事実を誰よりも知る、いや、実感する一人の青年がいた。
パーカーにジーパンを履いたどこにでもいる大学生。
彼の紋章は偉人格幻想種:ラプラスの悪魔。
彼は世界でも稀な偉人格幻想種の紋章者でありながら、戦いを好まないその穏やかな性格から戦いの道を避けて教師としての道を志すような平凡な青年だった。
しかし、そんな穏やかな彼であろうと紋章の力に
ラプラスの悪魔とは、フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスが自著である『確率の解析的理論』にて提唱した超越的存在の架空概念。
その存在は“ある瞬間におけるすべての原子の位置と運動量を知り得る存在がいると仮定すると、物理法則にしたがってその後の状態をすべて計算し、未来を完全に予測することができる”というものだ。
当然、ラプラスが提唱した架空の存在であるため、あくまでも降霊術の一種である偉人格の紋章では本来存在し得ない存在だ。
しかし、ラプラスが自覚してか否かは定かでないが、彼が提唱した悪魔は神代の時代にて無名の悪魔として実在していた。
故に、無名の悪魔はラプラスの悪魔として名を授かり、偉人格幻想種の紋章という形を成した。
そんな悪魔の力を有する彼は周囲全てを原子レベルで知覚し、物理法則に則って未来の演算を可能とする紋章の力と、その情報を処理できるほどの天性の頭脳を持っていた。
自然、そんな力を持ちうる彼は少しでも誰かの助けになろうと、己が紋章術を用いる選択をした。
そして、彼はホテルの窓から戦いの様子を眺めることで周囲すべての情報を精査、統合し、これから起こる正確な未来を予測して——絶望した。
(そ、んな……。こんなの……ただの死刑宣告じゃないか……)
この日、青年は初めて己の紋章を恨んだ。
彼の眼には数ある未来の可能性が写っていた。
このまま護られていた場合——生存確率0%
一人で路地裏を隠れながら逃げ出した場合——生存確率0%
誰か連れ添って逃げた場合——生存確率0%
地下下水道へ逃げ込んだ場合——生存確率0%
大きな音で注意を逸らした場合——生存確率0%
特務課や
0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0% 0%0%
ありとあらゆる可能性を模索しても、僅か五分後の未来すべてが閉ざされていた。
死ぬしかない。
この先に道はない。
齢二十一歳でしかない青年はそんな絶対の死をまざまざと見せつけられて——
「……ふざけるな」
それでも絶望をはね除けてみせた。
彼の視線の先には、肩を寄せ合って不安を拭い合う子供たちの姿。
その目尻には涙が滲んでいるが、決して声をあげて泣いたりなどしなかった。
彼らは憧れの人達が護ってくれると信じているのだ。
だから、俯いて嘆いたりなどしない。
気丈に顔をあげて、この絶望へ懸命に抗っているのだ。
そんな彼らの姿を見たからこそ、彼は奮い立つことができた。
絶望に崩れ落ちそうになる膝を叩き直し、その足を動かすことができた。
(僕は、教師になるんだろう! 幼い子供たちを護り、導ける立派な教師に!! なら、こんなところで絶望してる暇なんてない!! 未来の全てが閉ざされているっていうなら、その未来を切り拓くだけだ!!)
“人間にはそれだけの力がある”、と青年は信じている。
根拠なんてない。
だけど、ここで諦めたらそれこそ未来は本当に閉ざされてしまうことだけは確かだ。
なにより、この状況下でも決して諦めない子供たちの未来を見殺しにすることなど、教師を目指す者としてできるはずがなかった。
青年は周囲へ視線を巡らす。
ラプラスの悪魔は周囲の情報を統合した結果として未来を予測する。
だからこそ、この状況を打開しうる可能性をその眼で捉えようとした。
(映すものは生存確率じゃなく、絶望の未来を打破できる可能性!!)
迷彩柄の筋肉質な男性、概念格:遮断の紋章者——0%
老年の男性、概念格:弾性の紋章者。——0%
赤色のシャツとピタッとした黒ズボンを履く
別室にて戦況をモニタリングしている特務課班員、概念格:色彩の紋章者——0%
(ダメだ! 少し先の未来を
探せ。
探せ!
探せ!!
この絶望を切り抜ける
(ック! 一般市民や特務課の中に該当者はいない! しかたない、高専生の中には——)
青年は可能ならば子供たちの力を借りることは避けたかった。
教師を目指す者として、彼らを護り導くべき大人として、彼らの力を借りることなく護りたかったのだ。
当然、今この瞬間も高専生に護られてしまっていることは理解している。
子供の力を借りたくないなど、単なるエゴでしかないことだって理解している。
だが、そんなものの為に救える命を見捨てるなど論外であることなど言うまでもない。
だからこそ、彼は己の矜持など踏み捨ててでも子供達へと救いの手を求めた。
紋章高専女子生徒、概念格:拡張の紋章者——0%
紋章高専男子生徒、動物格:タコの紋章者——0%
紋章高専男子生徒、動物格:イルカの紋章者——0%
紋章高専女子生徒、概念格:凪の紋章者——0%
しかし、それでも彼の眼は絶望しか映さなかった。
状況打破成功率0%。
絶望の未来だけが映し出され続ける。
0%0%0%0%0%0%0%0%…………………
……………………2%。
(見つけた!!!!)
青年の視線の先には紋章高専の制服を着用した、薄く青みを帯びた銀のショートヘアを揺らす小さな少女。
水上叶恵。
紋章高専一年生にして、全大会優勝者である柳生寿光をあと一歩のところまで追い込んだ動物格幻想種:スライムの紋章者である少女だ。
七夜覇闘祭でその存在を知っていた青年は僅かに見出した希望に
「水上さん、詳しく説明している暇はない! 今すぐ僕の言葉に従ってくれ!!」
「え、ハァ!? な、なんなんですかあなたは!? 気でも触れてしまったんですか!?」
「良いから早く!!!!」
◇
時は戻る。
振り返った
「あぁ?」
巨木の顎とジェイルの魔力回路は直結しており、食い殺したホテル内の人間の紋章画数はそのまま彼へと還元される。
しかし、僅かたりとも紋章画数が増える様子はなく、肉を噛み砕いた手応えもない。
そんな現状に違和感を抱いた次の瞬間——巨木の顎は内側から発生した莫大な水流によって弾け飛んだ。
否。
それは水流に似て非なるものだった。
プルプルとした独特の質感を持つそれはスライムと形容するのが正しいだろう。
そして、それは次第に形を獲得し、その威容を現す。
頭部は恐竜のようであり、眼に相当するであろう紅の宝玉のようなものは左右三対存在する。
身体の基本フォルムは恐竜。
両腕は太く、鋭い爪を持つが、半流動体故に硬度も鋭さもない。
けれど、その腕の一振りで地形を変化させるほどの破壊力を生み出せることを監獄にいたジェイルを除いたこの場にいる全ての人物が知っていた。
「まったく、不甲斐ない先輩方ですね」
先の七夜覇闘祭では不要だったが、此度は機動力を得る為、巨躯を支える強靭な脚が大地を踏み締める。
「叶恵ちゃん……!!」
「全く、頼もしすぎる後輩だよ」
絶望に染まっていた日向の表情に希望の華が咲く。
頼もしい後輩の出陣に心強さを感じる
しかし、彼の胸中にはそれと同時に危機感が渦巻いていた。
(ホテル警護を任せていた彼女が出ざるを得ない状況にまで追い詰められた上、避難所であるホテルは全壊)
もしも避難所であるホテルが使用不可な状況に陥った時を想定して、地下鉄の路線図とその中に隠された地下シェルターの場所は特務課、紋章高専の生徒全体で共有していた。
ホテルはあくまで仮の避難所であり、その地下シェルターこそが本命の避難所であったのだが、地下は脱獄犯が潜んでいる可能性が高く、民間人を引き連れて行くにはリスクが高過ぎたのだ。
しかし、仮の避難所であるホテルが全壊してしまった以上、そのようなことを言ってる場合ではない。
(水上のことだから巨体に視線を誘導し、その陰に隠して尻尾のように伸ばした水流を利用し、体内から地下へ民間人を避難させていることだろう)
染谷の視界に映る巨躯の中には特務課員、紋章高専生徒、民間人合わせて十数人程度が紛れていた。
だが、ホテル内には少なくとも数千人規模の人員がいたはずだ。
彼らは恐らく木々見えぬ足元におり、尻尾から地下へと避難を進めているのだろう。
(つまり、私たちの優先すべき事は——)
「足止めだな」
染谷の視線から意図を汲んだ柳生は鞘から刃を引き抜き、目にも止まらぬ速さで居合い切りを放ち、そのままジェイルとの交戦に入った。
「全く、相変わらず勘のいい奴だ」
頼もしい仲間の存在に口端を上げて笑みを浮かべる染谷もまた、柳生の加勢へと飛び出した。
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