第149話 ただ、手を伸ばすことしかできず……



 魔力をもたらす恵みの雨が降りしき鬱蒼うっそうとしたな森林。

 人工物らしきコンクリートの建物も見受けられるが、そのどれもが木々に侵食されており、時の流れを感じさせる。

 湿り気を帯びた風が頬を撫で、鼻腔びこうくすぐる土や木々の香りがこれは現実であるとささやく。

 

 しかし、ここは森林地帯などではなかった。

 ほんの数瞬前まではコンクリートの建物に囲まれた市街地の路地でしかなかった。

 それが、目の前に佇む者によって瞬く間に森林地帯へと塗り替えられたのだ。

 周囲の空間を区切り、瞬く間に森林地帯へと塗り替えた張本人、ジェイル・グランツの手によって……。


「クッ……。有毒の侵食領域……か?」

「そうじゃねぇことくらい気づいてるんだろう? これはお前たちが知る結界術じゃねぇ。現代ではとっくに断絶した古の結界術さ」


 周囲の景色が塗り替わると同時、気分の悪さを覚えた柳生やぎゅうは一瞬、有毒な環境特性を有する侵食領域かと考えたが、己の本能が違和感を唱えた。


 そして、その違和感は正しかった。

 これは侵食領域とは異なる、古代に生きた上位妖精種ハイエルフだけに伝わる秘術。


「侵食領域は心象風景によって世界を己の色に塗り潰す結界術だ。それに対し、この回帰領域かいきりょういきは結界で区切った領域内を星の記憶アカシックレコードより呼び起こした神代の風景で塗り潰す結界術だ」


 ジェイルはそう解説しながら、いつの間にか傍にいたペガサスを撫でていた。


「侵食領域のような必中効果こそ存在しねぇが、この領域に本来満ちていた真エーテルを回帰させ、幻想種さえを連れて来れるわけだ」


 突如、悪寒が走った柳生と染谷そめやは即座に背後へ振り返り……、一閃。


 二人のすぐ側に迫っていた透明な蜘蛛が血飛沫をあげて両断された。


「みんな気をつけろ! 敵は奴だけじゃない!!」

「おう、そうだ。だけどな、回帰領域の真髄はそこじゃねぇぜ」


 染谷は即座に全員へ注意を呼びかけるが、その隙をジェイルは逃さない。

 周囲の木々がうねり、槍となって四方八方から染谷へ襲いかかる。


——柳生一刀流“山茶花”さざんか


「神代に生きる貴様にとって、神代の高濃度魔力真エーテルで満ちたこの空間はより生きやすい空間であり、私たち現代の人間には有毒な空間というわけか」


 染谷へ襲いかかった木々を細切れにした柳生はそのままの勢いでジェイルへと斬り掛かる。

 その斬撃をジェイルは正面から拳で受けて立つ。


 恵みの雨に加えて、神代の空間に満ちた高純度の魔力はジェイルの肉体強化魔術を更に一段階上のものへと昇華し、ただの拳にも関わらず柳生の剣と競り合っていた。


「そういうこった。過ぎたるは及ばざるが如し。恵みの雨は魔力を放出すりゃどうとでもなるが、そもそも身体が適応していない神代の高濃度魔力真エーテルは身体が受け付けねぇだろう?」

「私はな」


 初めに覚えたのは脇腹の喪失感。


 続いて、轟音が遅れて響いた。


 そして、それに続いて槍が如き衝撃波がジェイルを吹き飛ばす。


 つたに侵食された住居跡を瓦礫がれきの山へと変える形で吹き飛ばされたジェイルは身を起こし、そこで初めて己に何が起こったのかを理解した。


「なるほど。テメェも俺と同じ神代の住人。いや、その覚醒紋章者か」


 ジェイルの脇腹はゴッソリと消し飛んでいた。

 そして、彼の視線の先には一人の戦士。

 銀色のメッシュが入り混じった緑のソフトモヒカン。

 神性を表す金色混じりの茶色の瞳。

 身体の各部を覆う黄金の軽鎧。

 

 風早颯かざはやはやて

 彼に宿る大英雄アキレウスは神代に生きた存在であり、数多の英雄が存在したその時代において尚、あの大英雄ヘラクレスと並んで最強の一角に数えられた程の戦士。

 神性を帯びぬ攻撃の一切を無力化する無敵の肉体と蘆屋道満あしやどうまんさえ見切れぬ究極の速さを誇る彼の力はこの回帰領域内において更なる力を取り戻していた。


「魔術師相手に時間は与えない!!」


 風早は八神やがみの内に宿るミカとの修行の折、自然と魔術師相手の戦いにも触れていた。

 だからこそ、対処法も理解している。


 魔術を行使する際、術式構築のプロセスは大きく分けて二つ。

 呪文を詠唱するか、魔法陣を描くこと。

 どちらにせよ、発動にはある程度の時間を要するということだ。


 ならば話は簡単。

 そんな時間など与える間もなく畳み掛ければいいのだ。


「時間ならもう充分貰ったぜ」


 真正面からジェイルが反応さえできぬ速度で突き立てられた風早の刺突は狙いを外し、彼の顔のすぐ横を抉り飛ばし、そのまま勢い余って瓦礫の山へと突っ込んでいった。


「なんだ……これ……」


 瓦礫の山を背に、風早は脳震盪のうしんとうに陥ったかのような前後不覚な感覚に見舞われていた。


「魔女の秘薬だ」

 

 風早の疑問に答えたのはジェイル。

 彼は抉り飛ばされた脇腹に手を触れると、即座にその傷を跡形もなく再生してみせた。


「血液や脂、そこに薬草を混ぜて膏薬こうやくを作れば、呪文だの魔法陣だの描かずとも術式は構築できる。正確には即席の魔術霊装ってところだがな」


 言うだけならば簡単だが、それを戦闘中に実践するのは神業としかいいようがない。

 回帰領域によって、神代——それも上位妖精種ハイエルフが住処とした古代の森——へと姿を変えたこの場であれば、薬草の類など何処にでも自生している。


 しかし、本来魔女の膏薬こうやくとは一グラム単位の精密な調合が要求され、少しでも不純物が混入すればその効力を発揮しなくなる。 

 故に、不純物の入らぬ場で行うのがセオリーなのだ。

 だというのに、彼は土や埃などの不純物が入りやすい戦闘中のどさくさに紛れて一瞬でその精密作業を行い、完璧な調合を行なってみせたのだ。

 

 これこそが彼がレート7の怪物たる所以ゆえん

 見た目のゴツさ故のパワーや上位妖精種ハイエルフ故の高魔力に目が行きがちではあるが、彼の真髄はその精密さにこそあるのだ。


「どうだ? 外部からの攻撃には耐性があろうと、身体の内部から侵食する攻撃は効くだろう」

(ダメだ。身体に力が入らない……!! 考えろ。この術式の本質は、今己の身体に起こっている現象はなんなのかを!!)


 風早は吐き気を堪え、力さえ入らぬ身体を無理矢理動かして周囲を把握する。

 彼以外も同様の術式に苦しめられているようで、皆一様にうずくまっていた。


 ただ、一人を除いて。


「術式だかなんだか知らないけど、本質はただの酸欠!! なら、私には通じないんだから!!」


 日向ひゅうがは自然格:火炎の紋章者。

 常に炎を扱う紋章者故に、酸欠に対する耐性を自然と獲得していたのだ。

 だからこそ、術式にハマってなお唯一動くことができた。


 彼女は奇襲用に地下の一転へ溜めていた己の力を回帰領域全体へ伸ばし、地上へ向けて一気に開放した。


——紅蓮散華ロータス・ブレイズ!!


 大地から噴き出した紅蓮の炎は回帰領域全域の地盤を崩壊させると共に、彼が戦闘中に刻んでいた術式群、膏薬こうやくたぐいなど一切を破壊し尽くした。


「どう? せこせこ築いた努力が一瞬で瓦解する気分は」


 先の膏薬からジェイルの工作を察し、その全て瓦解させた日向夏目ひゅうがなつめはニヤリと笑みを浮かべる。


 だが、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると思っていたジェイルの相貌には——笑みが浮かんでいた。

 

「想定通りに事が進んで気分爽快だとも」

「——あ」


 ジェイルの目的は避難所にいる多くの人々を喰らい、紋章画数を得ること。

 そして、彼が向ける視線の先は彼の術式群や膏薬を破壊し尽くした日向でも、周囲にいる危険分子たる染谷達にも向けられてはいなかった。

 

 ジェイルの視線の先は、紅蓮の業火に包まれた回帰領域の外。

 背後に聳え立つ、避難所となっているホテル。

 それを巨大な樹木のアギトが獲物を丸呑みするように大口を開けて構えて——


「——やめ……!!」


 その場で唯一動くことができた日向は、振り返ってその光景に手を伸ばすことしかできなかった。


 誰もが見てることしかできぬ中、ジェイルは無慈悲に掌を握り潰す。


 その動きに連動し、巨木のアギトはまるで彼女らに見せつけるように……


 彼女たちの護るべきものをその牙で噛み砕いた。

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