第142話 世界システム

 



 コオラル山脈を起点とした大噴火によって舞上げられた火山灰が分厚く空を覆い、オアフ島全域を薄暗闇に包みこむ。

 オアフ島全域にさえ及ぶ曇天どんてんは光を遮るだけでなく、恵みの雨を降り注がせていた。


「これは……魔力が回復してやがんのか」


 猛獣が如き鋭い目つきの整った相貌の男、ジェイル・グランツは襟足えりあしの伸びた銀髪を雨露あまつゆに濡らしながら路地裏に身を潜めていた。

 そして、天より降り注ぐ雨がただ恵みを齎すだけのものでないことに気づいていた。

 

 どさり、と人が倒れるような音が路地の先、大通りの方から聞こえてくる。

 身を潜めながら、大通りの方を伺ってみると、避難所へ移動していたハワイの住民たちが一人、また一人と倒れ、うずくまっていたのだ。


「魔力酔いか」


 ジェイルは彼らの症状を即座に看破していた。

 通常、魔力が溢れることなどない。

 魔力は生きていれば一定の消費と生産が行われて正常なサイクルが形成される。

 紋章術を行使して魔力を消費したとしても、食事や睡眠を摂ることで失った魔力を補充し、乱れたサイクルを正常に戻すことができる。


 しかし、外部から過剰な魔力を注がれた場合は別だ。

 魔力を体外へ放出しなければ、体内に貯蔵しておける限界量を越えて車酔いのような症状を発症した後、身体の各部から出血し、やがて死に至る。


 そして、本当に恐ろしいのはこの知識が一般に知れ渡っていないことだ。

 戦場では相手に魔力を叩き込んで魔力過多を引き起こして殺すといった戦法を摂る使い手は稀にいる。

 医学業界においても魔力を流し込んで傷を癒す術式もあることからその存在は知れ渡っている。

 だが、普通に生活している者たちにはそのようなことを知る機会がない。

 一般的な知識ではないのだ。


 だからこそ、避難していた住民は倒れゆく周りの人々を見て、そして己自身も気分が悪くなっていく現状の理解ができずに混乱していた。

 

「うぇっ、なんだよこれ……」

「い、ったい……何が起こってるの?」

「ゲホッ……え? 血……?」

「い……や、気持ち悪い……、たす……けて……」


 気分の悪さから悲鳴を挙げることはできない。

 突如身体から血が噴き出し、喀血かっけつしてしまう現状を理解することさえできない。

 戦う術を知らぬ一般人たちは静かに死にゆくことしかできなかった。


「強者には恩恵を、弱者には天罰を……。随分と意地の悪い神もいたもんだな」


 大通りの惨劇を尻目にジェイルは身体強化をフル稼働させることで魔力過多を防止しつつ、己が目的を果たすべく動き出す。


 その時だった。


『オアフ島全域にいる人々へ通達する! 今すぐ屋内へ退避してください!! 雨にはできるだけ触れないように気をつけて!! もしも、雨に晒されたのならすぐに魔力を放出してください! それで症状は改善されます!!』


 オアフ島の至る箇所に魔法陣が浮かび上がり、そこから男性の声が響いた。

 血反吐を吐いてうずくまっていた民衆らは、その言葉に従って各々が過剰に溜まった魔力を紋章術という形にして空へ放つ。

 そして、幾分か気分がマシになった彼らは魔力を放出しながら屋内へと続々と避難していく。

 その様子を横目に見ながら、ジェイルは憐憫れんびん混じりの言葉を吐いた。

 

「ソロモンか。正義の味方は大変だな」


 魔法陣から響く声の調子からして、切羽詰まった状況であることが窺える。

 大方、敵と対峙しながら注意喚起しているのだろう。

 元凶の打破と民衆の保護、両方を完璧にこなさなければならない彼らへ同情の念を送るとともに、ジェイルはそんな彼らへ更なる苦難を与えようとする己に自嘲じちょうする。


「ザンドから逃れられねぇ以上、ヤツの撃破は必須。なら、栄養を蓄えるしかないよな?」


 ジェイルはそう独り言葉を紡ぎ、紋章高専生徒らが護る、彼らの宿泊地でもある緊急避難所を目指す。


 恵みの雨を利用すれば魔力の無限回復こそできるが、魔力上限は増大しないため根本的な戦力の増強は見込めない。

 だからこそ、避難所へ避難する数多の民衆、大勢の紋章高専生徒。

 彼らの紋章を喰らい、紋章画数魔力上限を増大させることでザンドに対抗しようと考えたのだ。

 

「食人の趣味はねぇが、盛大に喰らい尽くすとするか」


 強者を求めて戦場を流離う肉食獣はその鋭い眼を歪めて、餌場に集う彼らの抵抗を夢想して嗤う。



   ◇


 ハワイ大学マノア校。

 学生たちの死体で血に染め上げられた校舎は、降り注ぐ恵みの雨によって洗い流されていた。

 そして、浴び続ける限り、無限に魔力を与え続ける恵みの雨は当然、胸を貫かれて地に伏せる八神の身体にも降り注いでいた。


 しかし、幾ら浴びようとも傷は塞がらない。

 恵みの雨には魔力を与える力はあれど、傷を癒す力などない。

 降り注ぐ雨は彼女の血を洗い流し、その体温をいたずらに奪うばかりであった。


 その傍らには三人の男の姿。

 

 肩まで伸びた白髪が外側にカールし、顔にはピエロを彷彿とさせる白化粧。

 目元には血涙を流しているようにも見える赫い化粧。

 そして、純白のスーツを鮮血に染め上げて三日月のような笑みを浮かべる彼の名はジョーカー。

 

「フハハハハハハハッッッ!! これが運命を穿つ特異点!? 世界の更新を妨げる淀み!?」


 彼は傍らに佇む凍雲いてぐも風早かざはやと共に地に伏せる八神を見下し、嘲笑あざわらっていた。

 だが、その笑みは即座になりを潜める。


「笑わせるな!! この! 程度の! ゴミが!! 崇高なる! 世界システムの! 妨げになど!! なるか!!! ……侮辱も甚だしい!!!!!」


 突如として憤怒を露わにしたジョーカーは息絶えた八神の顔を踏みつけ続ける。

 降り頻る雨音に紛れ、肉を打つ鈍い音が断続的に響き続ける。


「奴も焼きが回ったなぁ!? 今回もまた失敗だ! フハハッッ! これで何度目だ!? 何万回目だ!? 貴様ら旧世界の人間がどれほどの抵抗を続けようと世界は巡り続けるんだ——!!!!」


 断続的に響き続けていた肉を打つ鈍い音が、この場にはいない世界の反逆者へ向けたジョーカーの言葉と共に鳴り止む。


 八神の顔を踏みつけ続けていた彼の足を、誰かの手が掴んでいた。


「…………は?」


 見ると、その手は他ならぬ八神自身の手であった。

 しかし、それはあり得ないはずだ。

 彼女は確実に息絶えた。

 心臓を貫かれ、呼吸が止まったのを確認した。

 降り注ぐ恵みの雨には魔力を回復する力はあれど、傷を癒す力はない。

 たとえ全能の権能を持つ怪物であろうと、死んでしまえばその力は発揮できない。

 …………はずなのだ。


「不敬だ。く失せろ」


 息絶えたはずの八神の瞳が開き、その眼光に睨まれたジョーカーは一瞬にして粒子レベルで分解されて消滅した。


「あり得ない。何故、生きている……!?」

「嘘だ……。だって、確かに八神さんは死んで……」


 ジョーカーの傍らに立っていた凍雲と風早も、息絶えた八神が立ち上がったことに目を見開く。


「いつまで我が主人の親しき友の姿を盗み取るつもりだ? この痴れ者が!!」


 八神、否、彼女の内に宿るルシファーの憤怒の声は辺り一面に響き渡り、それだけで凍雲、風早、二人の姿を取る偽物は灰燼かいじんへと帰した。


「なるほど、そうか。そういうことですか」


 周囲に幾多と倒れ伏す学生らの死体が起き上がり、ジョーカーの姿形へと変貌していく。

 それは一人二人ではなく、校庭や校舎に倒れ伏す全ての学生らが次々とジョーカーへ変貌していった。


「ルシフェルとしての側面は生者としての在り方を、ルシファーとしての側面は死者としての在り方を、その双方を内包するからこそ、死してなお紋章術を行使することができたということですか」


 ジョーカーは息絶えた八神が蘇生を果たした方法にあたりをつける。

 だが、八神の内に宿る天地を統べる覇王はそれを一部否定した。


「……いや、本当に死んでいたのならたとえ俺様であろうと力の行使は叶わん。そも、本来無限の存在格である俺様に死の概念などありはしないのだからな。……ひとえに、これは我が主人の特異性故よ」


 ルシファーにはジョーカーの言う通り、生と死の両側面を持つが故に生死の概念は存在しない。

 しかし、それはあくまでルシファー自身に言えることであり、八神紫姫という一人の少女に言えることではない。

 彼女は未だ無限の存在格を十全に振るうことはできず、それを行使できるのは僅か数秒。

 それも、意識的に行使する必要があるため、不意打ちには対応できない。

 故に、彼女が死んだとしてもルシファーの存在は消失しないが、“八神紫姫”という一個人の魂は肉体から解離し、司る紋章概念による恩恵繋がりも失われる。

 ……普通ならば。


 だが、八神紫姫という少女は特別だった。

 腐ってもアトランティス最高峰の頭脳によって開発され、救世主の力添えもあった彼女の肉体と魂にはある秘密が隠されていた。


「特異性……? なるほど、故の特異点。その所以ゆえんは彼女の在り方でもなく、その身に宿る貴方でもなかったと言うわけですか。いえ、むしろ貴方の存在など彼女の特異性を隠す為の隠れ蓑に過ぎなかったということですか……」

「その面で考察好きか? 生憎だが、その件に関しても半分外れだ」


 得意げに考察を披露するジョーカーだったが、ルシファーはそれを一笑に付した。


「ルシフェルの紋章者でも、デリットに開発された特別な存在だけでもない」


 全てを知る覇王は不敵な笑みを浮かべ、その手に生み出した漆黒の剣ヘスペロスをジョーカーへ突きつける。


「それら全てを内包して、己の人生を切り拓いていく八神紫姫という人間の輝きが、貴様らのシステムとやらを打ち砕くんだよ」

 

 その言葉を受け、無数にいるジョーカーは一様に表情を凍りつかせた。

 そして、次の瞬間、ハワイ大学全体から狂ったような笑い声が響き渡った。


「フ、フハハハハハハハ!!!!! なるほど! 確かに彼女の肉体には秘密がある。恐らくは魂にも鍵がある。紋章などそれらを包み隠す隠れ蓑でしかないのでしょうね」


 ルシファーの正面に立つジョーカーは嗤いを堪えきれず、顔を抑えて天を仰ぐ。


「だが、それらは彼女の特異性に過ぎず、特異点たる所以ゆえんは彼女の精神や在り方、これまで歩んできた、そしてこれから歩みゆく人生! それら全てを包括した彼女の存在そのものだと」


 正面の彼の言葉を引き継ぐように、背後をゆったりと歩むジョーカーがまるで演説するかのように語る。


「なんとも哲学的で、不愉快極まりない御高説をどうもありがとう」


 校舎入り口、階段の上にいるジョーカーが優雅なお辞儀ボウ&スクレイプと共に皮肉を返す。


「ですが、それなら特異点は未だ完全には成っていないということ。発展途上で破壊してしまえば脅威足らんということです」


 校庭に生えた樹木の枝に腰掛けて紅茶を傾けるジョーカーが真実の本質を突きつける。


「幸い、彼女の精神が死に体であることは疑うべからざる事実。ルシファー、貴方が表に出てきている事実が何よりの証明です」


 正面にて不敵な笑みを浮かべるジョーカーの言葉は真実だった。

 八神紫姫という輝ける魂は死して失われてはいない。

 しかし、一度死を経験したことで、現在は休眠状態、一種の仮死状態にあるが故に表に出てくることはできない。

 だからこそ、彼女の中に眠るルシファーが彼女の代わりに肉体を護るべくこうして表に出てこざるを得なかったのだ。


 だが、


「それがどうした? よもや、貴様如きが俺様に勝てると思い上がっているのではあるまいな?」


 ルシファーは威圧的な笑みと共にその神威かむいを解放する。

 魔力ともまた異なる、神格を持つものだけが扱える天の力。

 その異質であり、本能的な畏怖を抱かせる絶対的な力を浴びながらも、ジョーカーは三日月のような笑みを崩さなかった。


「何を恐れることがありますやら。わたしには世界が付いているのですよ?」


 ジョーカーもまた、その身から神威を解放する。

 世界のシステムより加護を受ける道化と天地を統べし覇王。

 両者の神威が激突することで空間は歪み、黒い稲光が周囲に迸る。

 

「虎の威を借る狐め」

さえずるなよ天界史の敗北者め」


 互いが互いを嘲笑する。

 そして、音など遥か彼方へ置き去りにし、道化と覇王は激突した。

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