第141話 魔と神の境界に立つ者たち

 



 大噴火を巻き起こしたコオラウ山脈。

 溶岩の大部分はソロモンによって凍結され、溶岩流によってオアフ島が飲み込まれるといった事態は免れた。

 上空に舞った火山灰にしても、魔術で曇天ごと吹き飛ばしてしまえば解決できるだろう。

 問題は、それを許してくれる状況ではないということだ。


「肉体の破棄、そして大噴火。その真意は悪魔の真体としての受肉にあったという訳だね」


 対処しきれていない火山灰は上空に留まり、オアフ島全域を覆う雷雲となって大粒の雨と雷を地上へと降り注がせていた。

 

 そんな雷雨降り注ぐ中、天まで昇る巨大な凍結したマグマの麓にてソロモンは異形の人影と対峙していた。


「ええ、まぁ。潜入の為に人間の肉体を依代としていましたが、その必要がなくなった今、わざわざ脆弱な肉体を保持する必要もありませんから」


 眼前に佇む者は紫紺の髪に見方によっては黄金にも色彩を変える真紅の瞳を持つ美少年であった。

 しかし、その本質は人のそれにあらず。


 頭上には王冠を想わせる光り輝く天輪を戴き、背部には地獄の業火を想わせる黒炎の翼を背負う。

 右腕を中心とした広範囲には最高位悪魔の力の象徴である緋色の紋章が刻まれている。

 身体にはまるで力を拘束するように鎖が巻かれ、パンクロッカーを想わせる服装でもあった。


「今まで気づかず恥ずかしい限りだよ。魔を統べる王たる僕がこんな大物を見逃し続けていたなんて……ねぇ、ベルゼビュート」


 アトランティス謹製のダイナマイトで自爆したシュメルマン。

 その正体こそは、ハエの王とも呼ばれる地獄界を統べる三柱の悪魔のうちの一柱、ベルゼビュートであった。


はたから見ていて愉快極まりなかったですよ。こんなにも堂々といるのに気づく気配もないその節穴にはね」


 上品に笑みを浮かべるベルゼビュートだったが、その眼は嘲笑に歪んでいた。


「言ってくれるね。だけど、僕との相性の悪さは熟知しているだろう? 君がどれほど強力な悪魔であろうと、悪魔を統べる王である僕には敵わない——」

「ハッ——アッハハハハハハハッッ!!」


 ソロモンの言葉を遮るように、ベルゼビュートは堰を切ったように腹を抱えて嘲笑う。


「アッハハ!! ホントに節穴ですなぁ君は! この私がただのベルゼビュートとして君の前に立つわけがないでしょうに!!」

「どういう……、いや、まさか——ッッ!?」


 ベルゼビュートの真意は悪魔としての受肉。

 ソロモンはそう思っていた。


 だが、……違った。

 ただ、悪魔として受肉するだけならば、もっとやりようはある。

 それこそ、民間人を大量虐殺して、一つ所に負の情念を集積させれば悪魔の真体として受肉することだってできたはずだ。

 それをわざわざこんな何年も掛けた大掛かりな仕掛けを施して行ったのは何故だ?

 きっとそれには意味があるはずだ……。


「…………!!」

「思い至ったかね?」

「……ベルゼビュートは元を辿ればカナン人が崇拝していた至高の神“バアル・ゼブル”。の神が司るものは“嵐”と“慈雨”。メソポタミア神話の天候神アダドやエジプト神話の嵐の神セトと同一視されることさえある。つまり、君は大噴火によって巻き起こった嵐を触媒として、君の大元であるバアル・ゼブルとしての側面を強調した形で受肉したという訳だ」


 バアル信仰を嫌ったヘブライ人によって、蝿の王ベルゼブブ(又はベルゼビュート)として悪魔に堕とされた彼であったが、その元は至高の王とも称される絶大な力を持った神であった。

 悪魔として堕とされた今、元来の至高の王へ完全に戻ることこそ敵わないが、バアル・ゼブルの象徴である“嵐”を触媒とすれば、神としての側面を一際強調した姿で受肉が叶うという訳だ。

 そして、ソロモンは悪魔を統べる王であり、その絶対的な権能は神にまでは至らない。

 故に、今の彼を指輪の力で従えることは不可能と言えるのだ。


Exactlyその通り、そして、神であるからこそ、元来神の力であるその指輪を使うことだってできるのだよ」

「狙いは僕の指輪だったのか」

「その指輪があれば八神紫姫を容易に手に入れられますからね」

「紫姫くんを……?」


 ベルゼビュート——否、バアル・ゼブル——が何故八神紫姫を狙うのか、その狙いを考察するソロモンだったが、思い当たるものはない。


 神としての側面を持って受肉した今、同等であるルシファーの世界を滅ぼす程の絶大な力を求めているとも思えない。

 

 ならば……彼女にはそれ以上の何かがあるというのか……?


「理由を知りたければ思考を止めないことです。これまでの全てを振り返れば、そこに答えのしるべは残されているでしょう」


 バアル・ゼブルにはその真意を答える気はないようだ。

 その意思を表すかのように、バアル・ゼブルは両手を広げて権能を行使する。


慈悲の嵐をここにルハマ・スィアラー


 変化は即座に訪れた。

 大空を覆い隠す火山灰混じりの曇天は瞬く間に雷を孕んだ雷雲へと変化し、大粒の雨を地上へと降り注がせ始めた。

 しかし、彼の行いの本質は嵐を巻き起こすことにあらず。


「これは、魔力が回復している……のか?」

「ええ、この雨は触れた者へ平等に魔力を与える恵みの雨。対象の差別なく無限に与え続ける公平なる恵みですよ」

「無限に……ッッ!!」


 一見魔力を与えるだけの雨。

 しかし、その本質が孕む危険性を理解したソロモンはオアフ島全域に声を届かせるべく拡声術式を描く。


「無粋な真似はやめましょうよ」


 バアル・ゼブルはソロモンの行いを阻害しようと、手のひらから権能による極炎を放つ。


「マルバス!! エリゴス!!」


 しかし、ソロモンも邪魔をされることなど承知の上。

 拡声術式を宙に描きながら、同時に二柱の魔神を召喚する。


 馬上槍と旗を携え、首には蛇を巻いた端正な顔立ちの騎士、エリゴスは旗を掲げて結界を展開することでバアル・ゼブルの極炎を防ぎきってみせる。

 

 次いで、ライオン頭の強壮な戦士が大斧を掲げてバアル・ゼブルに攻撃を仕掛ける。


「対象:バアル・ゼブル。病状:天然痘」

「慈悲の恵みも司る最高神にその程度の厄災が通用するとでも?」


 マルバスの権能によってバアル・ゼブルは天然痘を発症し、全身を高熱と水脹れの症状が襲うが、天から降り注ぐ恵みの雨がその病を即座に癒す。

 天然痘の熱によってできた隙を突こうと考えていたマルバスだったが、恵みの雨によって隙は作れず、彼の大斧は易々と掴み取られてしまう。


「対象:バアル・ゼブル。病状:黒死病」

「健気なものですね」


 マルバスは権能によって黒死病を与える。

 ほんの僅かな間発症した病はバアル・ゼブルを苦しめるが、恵みの雨によってコンマ数秒と経たずに完治してしまう。

 だが、彼にはこのコンマ数秒こそが必要だったのだ。

 彼は背後でソロモンが拡声術式によってオアフ島全域に注意勧告を行う声を尻目に、その胸を手刀で貫かれた。


「よくやった。貴公の献身、必ずや報いよう」


 光の粒子となって消え去るマルバス。

 その粒子に紛れて、エリゴスは地面を這うように接近し、死角から馬上槍によって顎を突き上げる。


 だが、その一撃が届くことはなかった。


「私は神としての側面に寄っただけであり、悪魔としての私も介在することをお忘れなく」


 バアル・ゼブルの身体を拘束するように巻かれていた鎖の一部が、いつのまにかエリゴスの足元に蛇のように這い寄り縛っていた。


「力が……抜ける……!?」

狼王ろうおうフェンリルさえ縛る、力を貪り喰らう鎖です。非力な貴方では満足に動くことさえままならないでしょう?」


 彼を縛る鎖は北欧神話に名高い狼王フェンリルを拘束したグレイプニールと同一の効能を持つものであり、拘束した対象の力を貪り食らう。

 ウガリット神話の最高神バアル・ゼブルにして、かの天魔ルシファーにさえ並ぶ最高位の悪魔ベルゼビュートでもある彼だからこそ、過剰な力を制限するに留まっていたが、上位悪魔程度では全ての力を奪われてしまうほどの効力をその鎖は秘めていた。


 そして、健闘虚しくエリゴスは頭を握り潰され、光の粒子となって消え去った。


「マルバス……、エリゴス……、よく頑張った……」

「ええ、ええ、数秒とはいえ時間を稼がれるとは、流石は上位悪魔といったところでしょうか」


 拡声術式によって伝えるべき言葉を全て伝え終えたソロモンは眼前に佇む神を降すべく、全霊を解放する。


「紫姫くんのことや、僕でさえ見通せない未来のこと……、聴きたいことは山とある」


 周囲に数多の召喚陣が出現し、数えるのもバカバカしくなる程の悪魔がその姿を現す。

 それは七十二柱の魔神だけではなく、彼らが従える悪魔や異教の悪魔の姿さえそこにはあった。


「全て、詳らかに答えてもらおうか」


 ソロモンの瞳が常の黄金から真紅が入り混じったものへと変化する。

 圧倒的なまでの神威と魔力を立ち昇らせるソロモンに、それでも尚バアル・ゼブルは紳士的な笑みを浮かべる。


「では、私が勝った暁にはその悪趣味な指輪を頂きましょうか」


 空間が歪むほどの莫大な力を解放し、最高神にして最高位の悪魔であるバアル・ゼブルと召喚王にして魔術王であるソロモンの苛烈な術比べが幕を開けた。

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