第138話 されど、深淵には届かず




 ザンドはエリスの最期を見届ける素振りさえなく、最後の攻撃を介して奪い取った彼女の影を飲み込むと、逃げ出した他の囚人を捉えるべく紋章術を発動する。


「侵食指定領域:黄昏たそがれ

 

 地下大監獄から逃げ出した囚人たちから奪い取った魔力。

 そこには当然、紋章画数も含まれる。

 彼は手に入れた莫大な画数の内一つを消費し、半径一〇キロメートルに渡って魔力波を解き放った。


 しかし、範囲内にいた多くの人々に変化はない。

 なぜならば、これは対象を指定した侵食領域だからだ。

  

 故に、範囲内の全てを領域内へ取り込むのではなく、彼が招待した者だけが彼の異界へと招かれる。

 魔力波を浴びた影は領域に飲み込まれ、それに引きずられる形で影の主人である実体さえも領域内へ取り込まれる。

 彼の色に染め上げられた異界に招かれるは、彼が悪と定めた者のみ。



    ◇



 夕焼けが照らし出す世界。

 天からは影の雨がポツポツと降り注ぎ、漆黒の無機質な大地をジワリと湿らせる。

 その空間には、レート7収容区画にてザンドから逃げ出したリチャードとディーン、そして影の簒奪者シャドウズ・プランドラを免れた運の良いレート6以下の囚人たちが数十名存在した。


「…………終わりか」


 ディーン・ラックは己がいる領域を自覚した時点で死を覚悟した。

 逸早く状況を理解し、覚悟を決めたからこそ、彼はその場にいる誰よりも速く行動を起こした。


魂ヲ刈リ取ル者デス・サイズ

「これは不味いねッッ!!」


 ディーンはその手に半透明の大鎌を現出させ、目にも止まらぬ速さで同じ囚人たちを両断する。

 リチャードは身を屈めることでなんとかその一撃を回避できた。

 できたからこそ、彼が何をしたのか正しく理解することができた。


「おいおい、魂を喰らってるのかい!?」


 ディーンは刈り取ったレート6以下の囚人たちの魂を食らっていた。

 それはしくも、ザンドが行った影の簒奪さんだつと同系統の効果を持つ技であった。

 故に、彼の紋章画数もまた莫大な増大を見せる。

 その画数、実に二四六246画。

 

「紋章絶技:死者ノ嘆キソウル・ハウル


 二四六246画全ての紋章を捧げたディーンは、紋章災害へと成り果てた。

 されど、それはかつて紋章災害となって猛威を振るったムカデなどとは比較にもならない。

 彼が一都市を壊滅させうる脅威だとするならば、この怪物は世界すら崩壊させうる脅威なのだから。


 白い髪を無造作に伸ばした不気味な青年はその相貌を溶かし、人としての在り方から逸脱していく。

 そして、現れたのは全長五メートルはある半透明の巨体にして、目深いフードで骸骨の相貌を隠した死神。

 その手に持つ大鎌からは死者の嘆きが響き渡り、聞く者全てに恐怖を与え、死を滲ませる。

 

「もうどっちを応援すればいいのか分からないねこれは……」


 リチャードは気を保つだけで精一杯であった。

 それもそのはずだ。

 この場にいるのがもしも彼のようなレート7クラスの怪物でなければ、大鎌から放たれる死者の嘆きを耳にした時点で魂が剥離してしまっていたところなのだから。

 彼が大監獄の最奥部に収監されるほどの実力者であったからこそ、死者の嘆きを超克することを可能とし、かの死神と同じ地平に立つことを許されているのだ。


 だが、そんなリチャードと比較してもザンドは格が違った。

 冷や汗一つかくことなく、悠然とした佇まいでザンドはダボついた袖の奥に覗く手のひらを死神へと向ける。

 

「影狼」


 目視不可能な速度で放たれた影の狼が死神を抉り喰らう。

 しかし、


「この程度の魔力では捻じ曲げられないか」


 影狼は死神が有する幽体という概念を超克しきれず、その役目を果たすことなく透過してしまった。


 今のディーンは莫大な紋章画数を消費した紋章災害だ。

 故に、その身は強力な概念を有しており、生半可な超克ではそれを捩じ伏せることは叶わない。

 少量の水ならば蒸発させられるが、莫大な量ともなればそれが叶わないように、超克も技量以前に、魔力量によっても左右されるのだ。


「cisjkfsidji&@-¥,82@9.”ketchup-j/?js」


 理解不能な言葉を発して、死神はその手に持つ大鎌を振るう。

 傍目から見ていたリチャードにはいつ大鎌が振られたのかさえ認識できなかった。

 レート7でも上位に位置する実力者でさえ目視不可能な速度の斬撃。


 しかし、ザンドはその刃の上に乗り、死神の背後を取っていた。


「紋章絶技:黒閃」


 二十五画分という馬鹿げた量の紋章画数を消費し、その全てを刹那に収束させた影の一閃は死神の首を今度こそ断ち切った。

 

 だが、二四六画分の紋章災害がこの程度で終わるはずもない。


「ゔskfkxskxk?ぞおbl↑dk!ぉz」


 侵食領域全体を揺さぶる断末魔を挙げ、死神は切断面を中心に収束を始めた。


「最期が自爆とはなんとも芸がない」


 二四六画分の紋章災害の自爆。

 それはハワイ諸島全域どころか、世界を丸ごと消し飛ばしてあまりある破壊力を持つであろう。

 しかし、それでもザンドは至極冷静に彼の蛮行を処理する。


「侵食領域、指定収束」


 ザンドは侵食領域を解除するのではなく、死神を起点として、彼を閉じ込める形で領域を収束させた。

 そして、それに伴って外界へと戻ってきたリチャードは驚くべき光景を目にする。


「ハハ、嘘だろう……」


 二四六画分の紋章災害の自爆を閉じ込めた侵食領域はビー玉サイズにまで収縮し、それを手のひらで飲み込んでしまったのだ。

 それだけでなく、肌で感じるザンドの魔力が大きく膨れ上がった。

 つまり、死神を構成していた全魔力さえも己のものとして領域ごと取り込んでみせたのだ。


「次は……お前だ」


 ペストマスクで隠された視線がリチャードを確実に捉える。

 途端、注ぎ込まれた莫大な殺気によって、全身から噴き出す汗が増し、心臓はその動きを弱める。


 本能が告げるのだ。

 『あんな怪物と戦うくらいならここで心臓を止めてしまった方がまだマシだ』と。


 だが、リチャードは己の胸部を殴打し、勝手に弱音を吐いて諦める心臓を鼓舞する。


「それはエレガントじゃないね。まだまだこれからではないか。私の晴れ舞台は……ッッ!!」


 弱音を吐く身体は紳士の矜持で捩じ伏せた。

 ならば、後は死力を尽くして己が花道はなみちを築き上げるのみ。

 

 リチャードは己の紋章術を解放する。

 全身が硬質な甲殻に覆われていき、彼の全身を覆い尽くしていく。

 臀部からは大きく平たい甲殻に覆われた尾が一つ。

 腕部からは虫の顎を想わせるブレードが二対につい

 背部には触手のような硬く鋭い触腕が無数に蠢く。

 頑強な鎧に包み隠された相貌の奥から覗く視線が静かにザンドを射抜く。

 

 これこそが彼が誇る紋章術の真髄。

 今より約三億年前に生息した、ヤスデの祖先ともされる存在。

 動物格古代種: アースロプレウラの紋章。


「紋章よ輝け。命を燃やし、今この瞬間に我が生涯の全てを賭けようではないか」


 リチャードは甲殻の鎧の奥に隠された口角を上げて笑う。

 彼に勝ち目などない。

 されど、圧倒的な強者を前に絶望する程度の者が成り上がれるほどレート7の位階は安くない。

 絶望的だからこそ、彼らは困難を前にして尚笑うのだ。


「紋章を持続消費したブーストか。くだらない」


 ザンドは彼の覚悟を一笑に付すことさえしない。

 何の興味も感慨もなく、彼はダボついた袖から影の狼を疾走させる。


「影狼」

 

 影の狼が迫る中、リチャードは回避行動を取ることもなく真正面から立ち向かう。


「——ッッ!?」


 この行動にはさしものザンドも僅かに驚きを見せた。

 影狼は寸分違わずリチャードの硬質な胸部装甲を噛み砕き、左脇腹から胸部にかけてゴッソリと抉り取った。

 しかし、それでも彼の動きが止まることは一切なかったのだ。


 心臓は抉られ、もはやその役目を果たしてはいない。

 それでも、己の全てを懸けて一矢報いると覚悟を決めた彼の意志が温もりを失っていく肉体を突き動かす。


 ザンドが驚愕で僅かに身を固めてしまった一瞬の隙に、リチャードはザンドへと肉薄し、背部から生えた無数の触腕で彼我の身体をしっかりと固定した。


「言っただろう? この瞬間に我が生涯の全てを賭けると」


 彼の言葉はこの戦闘に全てを賭けるという意味だとザンドは受け取っていた。

 だが、真意は違った。

 彼はこの一撃、この刹那に己が生涯全てを賭けていたのだ。


「さぁ、受け取れ! 影の王よ!!」


 文字通り、彼の生命全てを賭けた一撃とも呼べる拳打がザンドの懐に叩き込まれる。

 

 そして、


「ああ、確かに受け取った」


 その上で尚、ザンドはペストマスク越しに彼の眼を見据えた。

 攻撃を受け流せた訳でも、通じなかった訳でもない。

 彼の一撃はザンドへ確かな傷を刻み込み、ペストマスクに隠された口角からは鮮血が溢れる。

 同時に、ザンドは彼の一撃に乗せられた想いも受け取っていたのだ。


「だが、その上で断じる。お前の生涯は無価値だ」


 だからこそ、ザンドは一切の容赦をすることなく、最大の一撃をもって悪を断罪する。


——無影むえい


 ザンドはリチャードの失われた胸部にそっと手をかざす。

 次の瞬間、放たれた漆黒の影はダイヤモンド・ヘッドのおよそ四割と共にリチャードを跡形もなく消し去った。


「悪の矜持などくだらない。如何に高尚な矜持を持とうが、悪は等しく悪だ」


 ザンドはどのような形であれ、断じて悪は認めない。

 彼を赦すつもりはなく、これは正統なる裁きだ。

 故に、最後まで紳士らしく抗おうとした彼の矜持も、生涯を賭けた一撃も、その胸に響くことはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る