第123話 おっぱい枕と新たな戦いの兆し
薬品特有の鼻にツンとくる匂いに包まれた一室。
ターゲットである長い金糸の髪を髪紐で一つに縛ったその女性は、柔らかな布団に包まれて安らかな寝息を立てていた。
彼女は先の戦いにおいて深手を追っていた上に、刹那とはいえ未だ馴染みきらぬ無限の存在格としての全能性を解放してしまった反動で暫く昏睡状態に陥っていた。
とはいえ、あの事件から早数日経過しており、現在は意識も取り戻して療養の為に寝入っているのであった。
そんな彼女へ忍び寄る一つの影。
そろり、そろりと、全神経を集中させ、己が持ち得る神域にさえ到達した技量の全てを用いてその影は女性の元へ忍び寄る。
そして、その者は遂に辿り着いた。
ベッドにて眠る彼女は特に気づく素振りもなく、寝息を立てたままだ。
「…………」
にやり、と笑みを浮かべたその者は、そっと布団を捲り上げて彼女のベッドへと忍び込む。
だが、まだ目的は達成できていない。
むしろ、ここからが本番なのだ。
身体を一度大気へと変換し、流動体となった身体をベストポジションにて再構築する。
「…………ッッ!!」
“ここがエリュシオンかッッ!!!!”、そう叫びそうになった口をなんとか抑えて、後頭部に感じる双丘の柔らかさを心ゆくまで堪能する。
頭をコロコロと動かして後頭部で柔らかさを堪能したり、両手で挟み込んでパフパフと楽しむ。
病院着故に下着という胸部装甲が取り外されているためか、双丘が持ち得る本来の戦闘能力をとくと味わうことができた。
しかし、そんなことをしていれば流石に気づくというもの……。
「なにしてんの?
胸元で胸を枕にして恍惚の表情を浮かべる包帯だらけの同僚を見下ろしながら、被害者たる八神はジトっとした視線を送る。
「今回は私頑張ったからさ、ご褒美があっても良いと思うの!」
自身の所業がバレてしまった静は寝返りをうち、彼女の胸に顔の半分を埋めながら開き直った発言をかます。
「あ、そう。遺言はそれだけ?」
八神は静の後頭部を抱き抱えると、ぎゅーっと自身の胸へ彼女の顔面を抑えつける。
八神の巨乳に埋もれて息が出来なくなった静は離れようともがくだろう。
てっきりそう思っていたのだが、些か考えが甘かった。
スゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……
静は離れようともがくどころか、逆に抱きついて八神の胸に顔を
「きしょいッッッ!!?」
これには流石にドン引きした八神は反射的に静を天井まで蹴り上げた。
ベシッ、ベタンッ、と天井でワンバウンドした静は床に打ちつけられるが、その表情は満足気であった。
「……めっちゃいい匂いしたぁ〜」
「そろそろ真剣に訴えようかと思うんだけど……」
寝込みを襲われる形でセクハラされた八神は当然の権利を行使してかつての友を牢獄にぶち込んでやろうか、と思案を巡らせる。
「何してんだお前?」
そんな混沌とした渦中を目撃していた人物がいた。
白雪のような白髪をベースに赤、青、緑、紫と虹のメッシュが入った髪を腰まで伸ばした彼女の名は
琥珀色の瞳を紅色のアイシャドウで引き立てた、ビジュアル系バンドロッカーのような印象を与える彼女は可哀想なものを見る眼で床に這いつくばる静を見下していた。
「ふふ、エリュシオンの扉を開いたのさ……」
「テメェ本当に重傷患者なんだろうな?」
一切悪びれる素振りもなく、ドヤ顔を披露する静に浅井はこめかみに血管を浮き上がらせる。
「八神、この人なら信頼できるから一度相談してみてもいいかも」
いつの間にか八神のベッド傍まで来ていたルミがその手に持つ名刺を手渡していた。
そこには、『法律相談事務所』という決定的な文言が確かに記されていた。
「ごめんなさい。マジもん訴訟はどうかご勘弁を」
静は即座に土下座を披露した。
あまりの早業に浅井は呆気に取られるが、いつものことだと慣れているルミは静の後頭部に座って座椅子代わりにする。
「じゃあ、今度何か美味しいもの奢ってくれたら今回の分は手打ちにしてあげるよ」
「いや、座椅子代わりにされてることはスルーするのかよ」
現在進行形で座椅子と化している静には一切触れない八神に浅井はツッコミを入れる。
しかし、この程度は第五班では日常なので今更触れるほどのことでもないのだ。
「まぁいいや。にしてもお前、あの状況からどうやって生き残ったんだ? てっきり死んだもんだと思ってたけど」
しかし、いつの間に回収されたのか、今は治療も施されて全身包帯塗れといえど、こうして元気が有り余ってさえいる様子だ。
「あぁ、それは簡単な話でね。
それは自然格の紋章者だからこそできる回避方法であり、
動物格の紋章者であり、希少な自然格の紋章者ともほとんど交戦経験のない浅井では思いつかなかったが、聞けば合点がいったようで“なるほどね”と呟いていた。
「まぁ、なんにせよ。全員無事で良かったな」
「晴明以外は殺さないように手加減されてたからこその結果っていうのが口惜しいけどね」
浅井は誰一人死ぬことなく事件が終息して満足のいく結果であったが、八神にとってはそうではなかった。
友として、全力でぶつかった末に勝利を納めたかったというのが彼女の本音であった。
「……まだまだ、強くならないとね」
力が無ければ大切な者は守れない。
己が意志を貫き通すことはできない。
それを実感しているからこそ、彼女は己を見つめ直し、その上でどこまでも上を目指すのだ。
「あ、ちなみに今回の騒動で紋章覚醒したっぴ⭐︎」
てへぺりんこ♪、と舌を出して目元でピースしながら、静は爆弾発言を投下するのであった。
「「「え?」」」
強き力とは、当人の気質を問わず、真面目な者にも不真面目な者にも不平等に降り注ぐものなのだ。
◇
七夜覇闘祭から始まり、蘆屋道満という稀代の陰陽師が引き起こした大事件。
その一部始終を暗き
「七夜覇闘祭は一連の騒動によって中止。加えて、本事件を契機に軍事予算の追加が決定……か。まぁ、順当な結果だな」
科学の街を統べる王たる男はゲーミングチェアに腰掛けて、手元の端末に表示された情報を確認していた。
男の名はバルトロメウ・ディアス。
蒼銀の髪を後頭部で括った彼は白衣を纏った科学者然とした男だった。
しかし、その相貌はただの人間のそれではなかった。
右眼は見る角度によって色彩を千変万化させる瞳。
左眼は虹彩が蒼白に輝く人工物を想わせる機械的な義眼であった。
「残念そうだな。それほど祭りが中止に終わったことが残念だったか?」
そう言葉を発したのは、同じく白衣を着た偉丈夫。
短く整えた金混じりの白髪に、冷徹さを感じさせる蒼い瞳、左耳には金のピアスをつけている。
名を
八神を生み出したProject Lの中核を担っていた狂気に染まった白衣の科学者は彼のクローン体であった。
クローン体は自身の魂をデータ化して幾つもの身体を乗り換えていたが為に、魂魄強度が劣化して人格に多大な影響を及ぼしていたのだ。
しかし、オリジナルである彼は肉体の乗り換えなどしていないためそのような影響もない。
冷静沈着な態度でバルトロメウのデスクに腰掛けて問い掛けた。
「それもあるが、もう少し君のクローンが開発した研究成果を観察していたかったと思ってな」
「私のクローンが開発したのではありません。私のクローンが開発させられたのですよ。業腹なことにね」
バルトロメウの言葉に柳木は不服そうに返す。
「私のクローンはクローンとも呼べないゴミへと成り下がっていた。頭脳が同じでもそれを扱う理性を欠いていたからこそ、救世主などに利用されたのだからな」
Project Lには神がかった奇跡が幾つも重なった末に成功を収めた。
何故、八神を救うべく派遣された特務課職員が覚醒したルシファーを封印する技術を持つ土御門であったのか。
何故、逃亡する八神を追撃した研究員のすぐ近くに都合よく紋章抽出装置があったのか。
何故、
何故、八神の紋章を移植したミカに偶然
それら全ては、救世主メサイアが引き起こした作為的な奇跡によるもの。
人の身にて天上へと至る者を目指したデリットとはまた別の目的を持って、彼もまた八神の出生に関わっていたのだ。
「おや、あの実験に介入していた存在について君に教えたつもりはなかったが?」
「あの実験に携わったアレはゴミに成り下がったとはいえ、私のクローンだ。獲得した情報の一方的な搾取くらいできる」
「そうか、愚問だったな」
クローン体から電気信号を介して情報を搾取する、謂わば生命体に対するハッキング技術。
それはこの科学が発展した街においても普遍的ではない常軌を逸した科学技術だ。
だが、そんなものでさえ彼ら二人にとってありふれた技術の一つでしかなかった。
「彼女はこの街へ来るのだろう?」
手元で意味もなく弄っていた端末をデスクに置くと、バルトロメウはイスを回転させて背後の一面ガラス張りの壁面から超科学都市アトランティスが誇る未来的な街並みを一望する。
「私のシナリオ通りに進めばそうなる」
「ならば研究成果の確認はその時に思う存分すればいい。ただし、私も彼女には興味があるのでな。好きにさせてもらうぞ」
そう言い残して、柳木は白衣を翻して部屋を後にした。
そして、バルトロメウは彼の後ろ姿を横目で見ながら言葉を溢す。
「自由にすればいいとも。君が何をしようと、私のシナリオが崩れることなどないのだから」
◇
世界の何処かにある革命軍本拠地。
海賊の隠れ家を想わせる、洞窟を改装して造られた空間には三人の人物が存在した。
一人は、革命軍首領であるテュール・リード。
朝陽にやられて満身創痍だった彼は仲間の治療を受けて、現在はベッドにて横になっていた。
「あら珍しい。随分なやられようですこと」
そんな彼の姿を見て驚きの表情を浮かべるのは、革命軍最高幹部の一人であるマリア・ルーツ。
彼女はアメジストのように艶やかな紫髪を腰まで伸ばした、真紅の瞳を宿す貴族然とした女性だった。
豪奢な黒のドレスに身を包み、白魚が如き柔肌を包み隠すように黒を基調として紫の彩りが加えられたロングレースグローブを装着するその姿にはまるで悪役令嬢かのような怪しげな美が備わっていた。
「それで、収穫の程はどうだったっスか?」
ズタボロなテュールの心配など欠片もせず、彼の独断専行によって得られたものに関心を寄せるのは、革命軍最高幹部の一人であるエリック・ハーロット
シルバーブロンドの艶やかなロングストレートを三つ編みのハーフアップに纏めた少女だ。
彼女は貴族子女のような気品ある容姿とは裏腹に、ストリート系の服装を好むなんともチグハグな印象を与える人物であった。
「満足のいく結果でしたよ」
そう言ってテュールが懐から取り出したものは二枚の式札であった。
「彼が右腕として重宝した妖と彼が持ち得る手札でも最上位に位置する神です」
それは、朝陽昇陽の足止めをした報酬として蘆屋道満より受け取っていたものだった。
共にレート7でも上位に位置する、ましてや後者に至っては最上位にすら匹敵する怪物だ。
報酬としては破格と言っても良いだろう。
「あら、いつの間にそんなものを受け取っていたんですの?」
数万キロメートルと離れた遠方より見ていたマリアだったが、彼がそんなものを受け取る隙などなかったように見えた。
だと言うのに、いつ彼はそんなものを受け取ったと言うのだろうか……。
「朝陽昇陽から逃げて、ワームホールを移動している時です。突然懐に現れて、言霊を脳内に直接叩き込まれた時は流石に驚きましたよ」
蘆屋道満は日本各地で起こる全ての事象を観測していた。
だからこそ、テュールが朝陽昇陽の足止めを買ってでたことも把握しており、特務課に捕縛される直前に報酬を叩きつけるように寄越したのだ。
「あら怖い。座標の概念なんてあってないようなワームホール内にいてもマーキング無しで干渉できるなんて……。使い方を違えば、いつどこにいても呪殺できるってことかしらね」
「うっわぁ、マジで敵じゃなくて良かったっスね。というかそんな化け物を退けた特務課マジヤバいっス」
常軌を逸した蘆屋道満の技術に恐れ慄く二人だったが、エリックには納得いかないことが一つあった。
「でも、あの朝陽昇陽を足止めしたにしては釣り合いが取れてなくないっスか?」
今回の件で得た報酬はレート7クラスの式神が二体。
内一体は最上位にすら匹敵し得る怪物だ。
しかし、それでも尚あの朝陽昇陽を足止めした報酬としては全く足りていない。
人類史上最強の紋章者とは、それほど安い称号ではないのだ。
「いいえ、釣り合いは取れていますよ。なにせ、これはただの前金ですから」
「「え?」」
レート7クラスの怪物二体がただの前金だと聞いて二人は己が耳を疑う。
そんな二人に構うことなく、テュールは言葉を続ける。
「本当の報酬は『我々が真に必要とした時、ただ一度だけ彼自身がその力を貸す』というものです」
“ね、釣り合いは取れているでしょう?”、とテュールは和かな笑みを浮かべる。
その言葉を聞いた二人は同時に息を呑んだ。
『蘆屋道満が力を貸す』。
その一言は、どのような宝にも勝る最上の報酬であったからだ。
彼はたった一人で世界最強の戦力を誇る日本を相手取ってみせたのだ。
そんな化け物の力を借りれるなど、破格の報酬以外のなにものでもない。
「いえ、お待ちください。道満は特務課に敗北し、何処ぞと知れぬ異界に幽閉されているのではなくて? どのようにしてその約束を果たされるというのでしょうか?」
「何処ぞって……、マリアでも分からないの?」
エリックの問いかけにマリアは静かに首を振る。
過去、現在、未来におけるこの世全ての叡智を掌握するとある大悪魔の力を支配する彼女であれば、蘆屋道満の居場所など知っていて然るべきだ。
しかし、それでも分からないという事実にエリックは首を傾げる。
「マリアに宿る悪魔の権能は
「えー……と、あの世ってことっスか?」
エリックは必死に頭を振り絞って考えるが、的を射た答えは出せそうもなかった。
しかし、彼女の考察は当たらずとも遠からずであった。
「厳密な答えは私も知り得ませんが、恐らくはそういった、この世とは時間軸が異なる異界にて幽閉されているのでしょう」
天国や地獄、ヴァルハラといった神話などで語り継がれる異界。
それらは確かに実在するもので、この世とは異なる時間軸に存在する世界だ。
その多くは今や
蘆屋道満はその残存世界とでも呼べる異界に幽閉されているからこそ、この世全ての叡智を持つマリアでさえ居場所を突き止めることはできなかったのだろう。
「ですが、それなら尚のこと約束を履行することは困難でなくて?」
「今すぐにという話ならば不可能でしょうね」
かの陰陽師がどれほどの奇才天才であろうと、神々の力を封印された状態上で異なる世界に幽閉されてはそう易々と抜け出すことはできない。
「それはつまり、時間さえかければ可能ってことっスか?」
エリックはテュールの言葉の裏を読み解く。
そして、その答えは是であった。
「はい。彼は数多の神々を喰らった怪物ですが、真に恐ろしい点はただの人間が純粋な呪術の技量のみで
ソロモン王とアレイスター・クロウリーがいる。
しかし、前者は神によって叡智を授かり、
後者はエイワスと呼称される高次元知的存在より授かった知識を元に
いずれにせよ、単独の力で至れてはいないのだ。
その前人未到の偉業を成した人物こそが蘆屋道満だ。
そんな彼であれば、彼を縛る封印を破ることも異界から脱獄することも、時間さえかければ容易なことであるとテュールは踏んでいた。
「とはいえ、彼自身が今は贖罪の時を望んでいるでしょうからどのみち先の話ではありますがね」
長らく話したことで口が乾いたテュールは、そばに置いてあった桃の切り身を爪楊枝で刺して頬張る。
瑞々しい果汁が上品な甘味と共に口内の水分を充填していく。
鼻から抜ける甘い余韻を楽しむと、彼はこれからの方針を告げる。
「まずは前哨戦です。ハワイにて、アトランティスによる凶行を何としてでも阻止しましょう」
大きな戦いを終えたのも束の間。
誰もが夢見るリゾート地を舞台とした戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。
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