第121話 手引きした者



 京都府嵐山。

 天にはそよそよと風に揺れる竹林が、吊り天井のように逆立っていた。

 地にはどこまでも続く夕焼け空が広がり、重力によって引き込まれるように落ちゆく。

 天逆毎あまのざこがそこに存在するだけで侵食した領域において、あべこべなのはそれだけでない。

 前後左右上下の方向、威力の強弱、硬さ柔らかさ、感情の起伏、速度、気温、色彩に至るまで何もかもが正反対となった異次元。

 

 レート7でも上位に位置する実力者でさえ適応できず、瞬時に撃滅されるであろう魔境にて、柳洞寺紫燕りゅうどうじしえんは無傷とこそいかないまでも、重傷を負うことなく天逆毎あまのざこと切り結び続けていた。


「あぁぁあああああああッッ!!! 腹立たしい!! さっさとついえろ羽虫がぁッッ!!」


 天逆毎あまのざこは怒りを感じさせる声色とは裏腹に、歓喜の笑みを浮かべながら柳洞寺へ大剣を振り下ろす。

 

其方そなたも難儀な性質だ。己が感情も素直に出せぬとは」


 天逆毎あまのざこが持つ大剣は彼女自身の骨で作られた牙を想わせるもの。

 ソードブレイカーのような大剣だ。

 真正面から受け止めては得物である長刀を即座にへし折られることは必至。

 しかし、だからこそ柳洞寺はあえて正面から受け止めた。

 

「あぁ……どうして貴様はこうも容易くこの環境に適応できるのだ……」


 天逆毎は完璧にあべこべな環境法則を理解して適応する柳洞寺に涙を流しながら笑みを浮かべる。

 

 この異次元においては全てがあべこべとなる。

 故に、悪手である正面から受け止めるという手段こそが最適解となるのだ。

 あの場で側面を撫でるように受け流してなどいれば、彼の長刀は世界の法則によって即座に砕け散っていたことだろう。


「確かに、私以外であれば苦戦を強いられたであろうな」


 眼前に補足していた柳洞寺が忽然こつぜんと姿を消す。

 ずっと見ていたにも関わらず、その姿を見失った天逆毎は落胆驚愕の面持ちで周囲を注意深く探知する。

 

「だからこそ、お前の相手が私で良かったと、……心底そう思うとも」


 究極とも呼べる技量の縮地によって、神の視界からさえ外れてみせた柳洞寺は彼女の背後にて刀を構えていた。


「——ッ!!」


 気づいた時にはもう遅い。

 

 超克によって全ての法則を捩じ伏せた柳洞寺は振り返った天逆毎あまのざこへすれ違い様に一閃。

 天逆毎あまのざこは脇腹から肩にかけて大きく引き裂かれ、血飛沫が舞う。


「ッチ。なるほど。貴様の才は我が領域さえも斬り伏せるか……」


 天逆毎あまのざこは袈裟斬りに裂かれた傷跡をなぞり、その手に付着した多量の鮮血に瞠目し、舌打ちを鳴らす。


「容易く……と言えれば良かったのだがな。生憎と、全力を出さねば断ち切れぬ故、隙をうかがっていたのさ」


 柳洞寺が侵食領域内の法則を始めから超克で斬り伏せなかったのは、それを成すだけの魔力が膨大であったからだ。

 それこそ、もしも失敗して攻撃を防がれれば大きな隙を晒してしまうほどに……。

 だからこそ、侵食領域の法則に従って戦い、ここぞという隙をうかがい続けていたのだ。


「そうか……。我は貴様の本気を垣間見ることができたか……」


 そう噛み締めるような笑みを浮かべる彼女にあべこべな様子は感じられない。

 あまりに強い歓喜という感情に魔力が応え、無意識下で己があべこべの権能さえ超克してみせたのだろう。


 「……我も貴様が相手で良かった。これほどの愛を注ぎ、これほどの愛を受けたのは久方ぶりだ」


 天逆毎あまのざこの傷はあまりに深い。

 肉だけでなく臓器にまで傷は至り、背骨と背部の肉で辛うじて肉体が繋がっている状態であった。

 にも関わらず、彼女はなんでもないかのように平然と笑みを浮かべる。

 

 彼女にとっては生死さえもあべこべ。

 生存していれば死に、死ねば蘇生する。

 絶えずそのサイクルを繰り返している彼女には最早生死の概念などないに等しいのだ。

 

「だからこそ、残念に思う。此度こたびの遊戯はここまでのようだ」


 天逆毎あまのざこがそう呟くと、その身は端の方から光の粒子となって空気へ溶け出し始めた。

 あべこべな侵食領域もそれに倣うように、天蓋てんがいから崩れ出して元の涼やかな林道が顔を見せ始める。


 終わりを悟った彼女は静かに眼を伏せて、その白魚が如き指でスッと傷口をなぞる。

 すると、まるで最初から傷など無かったかのように元通りとなった。


「ほう、決着が着いたのか?」


 柳洞寺に遠方の様子をうかがい知れるような能力はない。

 だが、彼女の様子からおおよその事態を掴んでみせた。


「ああ、我々の敗北という形でな」


 彼女は蘆屋道満の式神として、彼と魔力的な経路パスが繋がっているため、彼が敗れたことを即座に察知した。

 とはいえ、彼女にとってそんなことは瑣末な問題だった。


「道満めの執着にも、その結末にも興味はなかったが……、貴様との戦いがこれで終わりかと思うと未練が残るな」


 彼女にとっては蘆屋道満の千年に渡る執着などよりも、この侍と演じる瞬きが如き享楽こそがなにより大切であった。

 人の身でありながら、神殺しの神である己さえも斬り伏せてみせるこの侍との甘美なる一時を……、もう暫し味わっていたいと心底から思っていた。

 

「未練が残るなら上等。満足の先にお前の望む未来などなかろうて」


 満足してしまえば、そこでお終いだ。

 その先はなく、ただ現状に甘んじて消え去るのみ。

 だが、未練が残るなら先がある。

 再戦を望み、努力を積み重ねた末に勝ち取れるかもしれない未来がある。


 蘆屋道満はこれから監獄の最奥に封印されるように収監されるだろう。

 彼の式神である彼女も同様に外へ出ることは叶わないことだろう。

 

 それでも、諦めなければ切り拓ける未来はある。

 努力に、人も神も、善も悪も関係ない。

 絶えず想いを貫いた努力は、そういった分け隔てなく道を切り拓く力を授けるものだ。


「それに、其方そなたは本気は出していても、全力は出せておらんだろう? ……次に合間見える時は、全霊の其方と手合わせ願いたいものだ」


 天逆毎は蘆屋道満によって殺害を禁じられていた。

 故に、あまりに殺傷力の高い彼女の手札は制限されてしまっていた。

 本来ならば、柳洞寺に刻まれた傷だって対象を柳洞寺自身と入れ替えることだってできたはずだ。

 それをしなかった時点で、柳洞寺は彼女の底がまだここではないと確信していた。


「国家の守護者が吐く言葉ではないな」


 天逆毎あまのざこは敵に助言を授け、再戦の時さえ期待する彼の言葉に呆れの表情を見せる。


「だが、貴様との戦いは我も望むところだ。次は、我が全霊をもって貴様と合間見えると約束しよう」


 フッと笑みを浮かべたのを最後に、天逆毎は光の粒子となって、虚空へと溶けるように消え去った。



   ◇



 栃木県那須なす町。

 戦闘の余波によって時空が捻じ曲がり、糸魚川いといがわ方舟はこぶねによる観測さえ不可能となった公然の機密空間。


 そんな特異な場で、シルクハットにモノクル片眼鏡を掛け、瀟洒しょうしゃなスーツ姿は英国紳士と称するに相応しい初老の男性——特務課第三班班員シュメルマン——は岩場に腰掛け、優雅なティータイムと洒落込んでいた。

 

「つまらん見せ物じゃったな」


 白い口髭を風になびかせ、口腔からホゥっと温かな吐息を漏らす。

 その場に、彼が対峙していた九尾の狐の姿はどこにも見えなかった。

 否、とうの昔に討ち滅ぼされていたのだ。

 誰よりも速く、誰よりも凄惨な破壊によって厄災を討ち払った彼は機密空間と化した那須の地から、あらかじめ忍ばせておいた使い魔によって大舞台の様子を観覧していたのだ。


「あれだけ場を掻き乱してやったというのに、死者の一人も出ないとは」


 彼が見ていたのは、方舟内部にて繰り広げられたクラウンによるパンデミック。

 当初は上手い具合に内部へ潜り込んで、順当に感染が広がっていた。

 しかし、調子に乗ったクラウンのお遊びと紋章高専生徒による想定以上の抵抗によって死者を出すことはできなかった。

 

 そして、最も想定外だったのはこれだけのことをしでかしていながら、未だ陰陽師としての矜持を捨て去っていなかった蘆屋道満によるクラウンの撃滅だ。


「前座とはいえ、及第点さえやれない出来とは嘆かわしい」


——やはり、始めから私が出るべきだったかな?


 三日月が如き笑みを浮かべたシュメルマンはその手を静かに大地へとつける。

 事件が完全に終息した今、警戒こそしているだろうが、無意識下で一息ついてしまっているこの時に、日本全土を突き崩すほどの大地震を引き起こせば一体どれほどの死者が出ることだろうか。


 血と涙に溢れた惨劇を夢想したシュメルマンは、狂った三日月のような笑みを更に深めて、最後の一手を……、


「おや、お気づきになられましたか」


 シュメルマンは背後にて佇む気配に振り返らない。

 振り返るまでもなく、その人物には心当たりがあったからだ。


「流石は、我らが班長殿ですな」


 背後に立つ人物こそ、特務課第三班班長にして、自然格:大地の紋章者であるクラウス・バゼットであった。


「お前が狂嗤う道化クレセント・クラウンの一柱として、内部に潜り込んでいたことなど始めから分かっていたことだ。だからこそ、お前には常に糸魚川いといがわの監視をつけていた」


 先の戦いによって、その姿は痛ましい程に傷だらけだ。

 上半身に巻かれた包帯の内側からは、大嶽丸おおたけまるによって付けられた傷口が開いて血が滲んでさえいる。

 されど、そこに弱々しさなど欠片もない。

 怖気さえ走る覇気に満ちた強者の姿がそこにはあった。

 

「なるほど。そして、時空が歪んだ事で監視できなくなったが故に貴方が直接出向いてきた、と」


 彼がこの場に現れた理由は理解できた。

 しかし、一つ解せないことがシュメルマンにはあった。


動機why dunitは理解できました。ですが、この場へどうやってきたかhow dunitが解せません。糸魚川の方舟ではこの時空が歪んだ場へは至れない筈ですが?」


 空間を越える彼の方舟では、時空が歪んだこの場へは至れない。

 空間という航路は存在しても、そこは渦潮と岩礁だらけでとても航行などできないからだ。

 八神の空間転移ならば点と点を繋ぐが故に可能だが、彼女は蘆屋道満にかかりきりだ。

 魔術王たるソロモンでも同様の方法で可能だが、彼は蘆屋道満によって封印され、封印が解け次第現場へ急行したが故にこちらへ気を配る余裕などない。


 ならば、一体どうやって?


「お前には意図して伝えていなかった方法でだ」

「なるほど。応える気はないと」


 問答はそこまでだった。


 シュメルマンは振り向き様に漆黒の炎を放つが、クラウスはそれを地震エネルギーが込められた拳にて真正面からシュメルマン諸共に粉砕する。


 那須の大地を揺るがす一撃はシュメルマンの抵抗さえ許さず、跡形もなく粉砕してみせた。


 常に警戒していたからこそ、確実に殺せる一手を用意していたのだ。

 肉を吹き飛ばし、骨を砕き去る感触がその手にはしっかりと残っていた。


 しかし、クラウスには始末できなかったという確かな感覚が残っていた。


 それを証明するかの如く、脳内へ声が響く。


『手負いとはいえ、本気の貴方を相手にしてはこれからの計画に支障をきたしてしまいますから、……此度はここまで。次のショーでまたお会いしましょう』


 紅茶の残り香を残してシュメルマンは消え去った。

 残されたクラウスは取り逃してしまった事実に拘泥こうでいせず、即座に次の手を打つべく特務課課長である時透ときとうへと連絡を入れるのであった。

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