第107話 雪解けの雨



 八体の厄災が一つ、餓者髑髏がしゃどくろ

 彼が蘆屋道満あしやどうまんと出会ったのは昭和末期のことであった。

 餓者髑髏は狡猾こうかつあやかしであると同時、臆病な妖でもあった。

 だからこそ、派手な動きはつつしみ、世の影に潜み隠れていた。


 平安時代。

 憎き陰陽師は時代の流れと共に消え失せた。


 江戸時代。

 永き太平の世が戦国の武士修羅から牙を削ぎ落とした。


 明治維新。

 これを境に、世は近代化の波に飲まれ、悪鬼羅刹あっきらせつを葬る武者はその姿を消した。


 それでも餓者髑髏は決して油断も慢心もしなかった。

 おおやけにその姿を現すことはなく、あくまでおそれを絶やさぬように存在をほのめかす程度に留めていた。


 彼は知っていたのだ。

 己が存在を脅かす強者は時代の影に隠れただけであると。

 世を統治する政府機関は未だ、現代に残るか細い神秘の光を絶やしてなどいないことを。

 

 そして、二〇一二年。

 フォトンベルトによって、魔術の素養を秘めたる者たちの力が目覚めた。

 この時、餓者髑髏は予感していた。

 これは、始まりに過ぎないと。


 彼の予想通り、二〇三五年。

 謎の光が全世界を包み込んだ。

 それは生物には知覚できぬ刹那にも満たない変化だった。

 だからこそ、観測できたのは餓者髑髏を初めとする極小数の強者たちのみ。

 何者かが放った謎の現象によって世界中の人間の魔術的素養が目覚めることとなった。


——ああ、恐ろしい。また、ワタシを脅かす存在が溢れる世となってしまうのか。


 餓者髑髏はおそれた。

 彼は知っていたからだ。

 どれだけ強大な力を持っていようとも、それを容易に捩じ伏せる存在は必ずいるということを。


 だから、彼は雨が降るその夜もただ、墓地のある廃教会で星の記憶アカシックレコードへと追いやられた古き神々へ届かぬ祈りを捧げていた。

 白髭を蓄えた老神父へと化けていた餓者髑髏はいつものように誰も来ることのない廃教会で届かぬ祈りを捧げた後、椅子に腰掛け、息を潜めるように小説を読んで時を過ごしていた。


 そんな時、これまで鳴ったことのない教会の扉をノックする音が木霊こだました。

 そして、返事を聞く間も無く入ってきたのは黒い狩衣かりぎぬに身を包んだ一人の人物。

 黒と白の入り混じる腰まで届く艶髪は雨に濡れたのか、シトシトと雫を垂らして床に染みを広げていた。

 細いまなじりから覗くは紅蓮の螺旋模様を描き、中心部たる瞳孔を黄金に輝かせる漆黒の瞳。


 彼を視界に入れた瞬間、餓者髑髏は逃走も抵抗も諦めて、ただこうべを垂れた。


 この者に抗するなど、愚者の蛮行以外のなにものでもない。

 この者に背を向けるなど、自殺行為に他ならない。

 

 彼の眼を見ただけで、彼我ひがの絶望的なまでの格の違いを見せつけられた餓者髑髏は己の運命をの者の温情にゆだねる他になかった。


 餓者髑髏はただ、平穏無事に生きたかった。

 それは、平安時代から今の今までついぞ叶うことのなかった願い。

 いつの時代も自身を脅かす強者に怯え潜み、心休まる時など一時ひとときも存在しなかった。


 ただ、静かな場所で本を読み、紅茶とケーキをたしなむ。

 そんな人間なら当たり前の一時ひとときが、妖怪であるというだけで彼には得難えがたいものとなったのだ。

 

 何も悪いことなどしていないというのに、妖怪であるというだけで見つかれば通報され、己を脅かす強者が群れをなして襲いかかってくる。


 だから、抵抗も逃走も諦めたのは、そんな日々に疲れたからというのもあったのかもしれない。


 そうして、こうべを垂れる餓者髑髏のあたまに、ふと温もりが触れる。

 雨と外気で冷えきった手は氷のように冷たかった。

 だが、頭を優しく撫でるその手からは今までに感じたことのない温もりがこれ以上にないほど伝わった。

 己でも気づかぬうちに溢れ出した心の雪解け水が床に新たなシミを広げていた。


——儂と共に来たらええ。世界がお前をはいそうとも、儂がお前の居場所になったる。


 短く告げられたその言葉に、一体どれほど救われたか。

 初めて感じた温もりに、どれだけ心を溶かされたか。


 我が主人は、罪なお方だ。



    ◇



 バトルドーム北部。

 鍛錬施設やだだっ広いだけの演習場が広がる地域。

 そこにある広大なグラウンドには幾つものクレーターが刻まれ、管理棟は瓦礫の山と化していた。


 激闘を繰り広げるは、戦場で数多の紋章を喰らった紋章喰いクレストイーターにして、偉人格幻想種:クー・フーリンの紋章者、ウォルター・ホーリーウッド。

 アロハシャツを着こなし、首から金のネックレスを提げる姿は海の男を想起させる。

 短く整えられた深海の神秘を湛える深蒼ディープブルーの髪を鮮血に染めながらも、牙を剥くような獰猛な笑みで深紅の槍を振るう。


 それを受けるは、蘆屋道満の忠臣、餓者髑髏。

 その身は主人より与えられた神格によって変貌を遂げていた。

 巨大な体躯たいくはなりを潜め、その身は常人ほどの大きさのむくろ

 神父服に身を包み、首からは主人よりたまわった十字架ロザリオげている。

 

 餓者髑髏は上段より振るわれた真紅の槍を自身の骨で創り出した二振りのショートソードを両手に持ち受け止める。


 受け止めた衝撃で地面が割れるが、餓者髑髏には一切のダメージはない。

 そして、槍撃を受け止めると同時に、割れた地面から幾千もの骨の槍を突き出す。


「おっと、危ねぇ!」


 後ろへ跳ねるように回避したウォルターを追いかけるように無数の骨槍が地面を突き破って次々と襲い掛かる。

 それを彼は、槍を地面に突き刺してまるで車輪のような動きで後方へ回避し続ける。


 そして、無言のままに攻撃を仕掛ける餓者髑髏の背後に潜む影が一つ。

 救援に駆けつけていた北原きたはら鈴音りんねが灰色の髪の間から覗く犬耳を揺らし、その拳を無防備な背に叩き込む。


「うへぇ!? なんで!?」


 気配を断ち切った完全なる不意打ち。

 だというのに、餓者髑髏はまるでその攻撃がくると分かっていたかのように、背部の神父服を突き破って肋骨のような骨を突き出し、拳を絡めとっていた。


「ワタシに不意打ちを行うのは不可能ですよ」


 餓者髑髏は誰よりも臆病で平和を愛するあやかしだ。

 だからこそ、誰よりも気配に敏感であり、彼に不意打ちを行うなど主人である蘆屋道満でさえも難しいほどだ。


 背後から奇襲を仕掛けてきた愚か者を排除するべく、餓者髑髏は拳を絡めとったまま、背部に骨で銃身を形成する。


「わぁ!? 誰か助けてぇ!!」


 退避しようにも拳が絡め取られており抜け出せない。

 そして、駆けつけようにもウォルターも今まさに地面を突き破って襲いくる骨槍の対処で間に合わない。


「だからいつも油断しちゃダメだって言ってるだろ?」

 

 だが、この場にはもう一人の人物がいた。

 遥か遠方に霞むオフィスビルの屋上で弓を構えるは、偉人格:アーラシュ・カマンガーの紋章者である久貝明星くがいあかしだ。

 

 彼が放った一条の矢が正確に北原の腕を絡みとる骨を撃ち砕く。

 その数瞬の後、餓者髑髏の背部に形成された銃身から莫大な魔力が放たれる。

 極大の魔力レーザーはバトルドームを囲む結界に衝突するまで止まることはなく、射線上にあるもの全てを容赦なく焼き尽くした。


「ふぃ〜、危なかった〜」


 間一髪難を逃れた北原はひたいの汗を拭う。

 動物格幻想種:フェンリルの紋章者である彼女の強靭な四肢であれば、数瞬の時で射線から逃れるなど容易であった。

 とはいえ、あと少しでも遅れていれば死んでいたのだから冷や汗もかくというものだ。


「おら! こっちがおろそかになってるぜ!!」

 

 北原と久貝によってほんの僅かに気が逸れ、攻勢が緩んだ隙をついてウォルターはルーン魔術を発動する。


——Kenasケナーズ Ansuzアンサズ


 松明を象徴するKenasを神を象徴するAnsuzで修飾することで神性を獲得した白焔が餓者髑髏に襲いかかる。


「いいえ、想定内です」


 餓者髑髏はただ静かに首から提げるロザリオを握りしめる。

 まるで敬虔な信徒を想わせる髑髏の神父から莫大な魔力が噴き出し、その余波だけで白焔は掻き消されてしまった。


「術式展開: 彷徨未葬随骨ほうこうみそうずいこつ


 眼球の収まっていないうつろな眼孔がウォルターを一瞥いちべつする。

 

 瞬間。


「ゴハァッッ!!?」


 ウォルターの肋骨が内側から身体を突き破って開かれた。


「ウォルター!!」

「今すぐ高速移動しろ!! こいつに観測されんじゃねぇぞ!!!!」


 ウォルターは血反吐を吐きながらも、思わず駆け寄ろうとする北原を言葉で制す。

 そして、自身に世界樹ユグドラシルを象徴するEhwazエイワスかばの木を象徴するBerkanaベルカナ、双方共に再生の意を孕むルーンを刻んで、開いた肋骨と傷口を即座に再生した。


 北原もウォルターの気勢から敵の危険性を理解し、彼の指示通り観測不能な速度による高速移動を開始する。

 北原の速度は覚醒した風早にこそ及ばないが、それでもレート7の怪物の知覚能力を上回る神速であった。


 餓者髑髏には眼球がなく、目視ではなく魔力感知によって外界を観測している。

 だが、レート7相当の彼による魔力感知ですら速すぎて捉えきれない。

 姿を捉えた瞬間には、踏み込んだ衝撃で地面が砕けるよりも速く別の地点に移動しているのだ。

 

「ほう、ワタシの術式を即座に看破するとは慧眼けいがんをお持ちですね。対応策も実に見事。これほどの速度ではワタシの知覚能力で観測するきとはできませんね」


 カシャ、カシャ、カシャ、と餓者髑髏が拍手を打ち鳴らす度に乾いた骨がぶつかる音が辺りに響く。


「バカが、テメェみてぇな初見殺し野郎は戦場じゃ珍しくもねぇんだよ。だいたい察しもつくし、対策も浮かぶってんだ」

(大方、観測した相手の骨を操る術式だろう。レート7相当の怪物が目視だの触れた相手だのなんていう生温い発動条件な訳がねぇからな)


 レート7とはたった一人で世界に大打撃を与えられる怪物なのだ。

 初見殺しの即死技でも発動条件が困難などという分かりやすい弱点は存在しない。

 その程度の温いレベルではないのだ。


「なるほど。歴戦の戦士ならではの観察眼という訳ですか」

 

——ですが、些かワタシを過小評価し過ぎでは?


 ウォルターは嫌な予感がして即座に餓者髑髏に全力の突きを放った。

 本能で危機を感知した北原もほぼ同時に餓者髑髏へ全力の拳を叩き込んだ。

 

 彼らの直感による行動は功を奏し、二人の攻撃によって僅かに集中を乱された餓者髑髏は僅かに狙いを外した。

 

 だが、それでもその攻撃は確かに届いた。

 餓者髑髏の魔力感知は、遥か遠方に霞む久貝の姿を捉えていた。


 オフィスビルの屋上にいた久貝の左胸から左の手先にかけての骨全てが砕け、内側から身体を食い破るように突き出した。


「——ッッ!! ……悪い、後は頼んだぜ」


 久貝明星くがいあかしは、ただで終わるような男ではなかった。

 彼は左半身の骨を砕かれる直前、戦線離脱を覚悟した渾身の一矢を放っていた。

 

 それは呪術の発動、そしてウォルターと北原二人の攻撃によって僅かな隙を作っていた餓者髑髏の右腕を粉々に吹き飛ばした。


「ふむ、最後に一矢報いるとは戦士のかがみですね」


 “少々不便ですが、戦闘に支障はないでしょう”、と左腕に骨で創り出したショートソードを持ち、おもむろに身体を反転させて右方を斬り裂く。


「……え? な……んで……?」


 餓者髑髏の右方から攻撃を仕掛けようとしていた北原が斬り裂かれて地に伏す。


「考えが安直です。貴女なら即座に弱点を突いてくるだろうことは想像にかたくなかった。ならば、どれだけ速かろうと攻撃を当てることはそう難しくはありません」


 餓者髑髏はこの短時間の戦いで相手の性格を理解し、思考を完全に読み切るに至っていた。


 それは彼の呪術によるものではない。

 およそ千年という永き時を陰に隠れて生き抜く中で身につけた処世術というやつだった。

 人に化けて正体を隠し、言葉巧みに相手を懐柔かいじゅうし、時に騙くらかすことで己の存在を隠し続けていた彼が身につけた生き抜くための術であった。


「北原……!!」


 ウォルターは即座に北原を回収し、その身にEhwazエイワスBerkanaベルカナのルーンを刻んで傷を癒す。

 腹に刻まれた横一閃の傷は内臓にまで至る重傷ではあるが、綺麗な太刀筋であったことが幸いして治療は難しくない。

 しかし、癒えたはずの傷がひとりでに開き出し、再び血を流し始める。


「クソッ! 不治の呪いか!!」


 それは神代ではなんら珍しくもないありふれた呪いだった。

 ウォルターが持つゲイ・ボルグとて同じ呪いを持つ。

 だからこそ、その正体にはすぐに行き当たったが、解呪できるかといえば話は別だ。

 クリスならば解呪も可能だろうが、今この場においては方法はただ一つしかない。


「ちっとばかし待ってろ。すぐに戻る」


 持続的な治癒効果をもたらすルーンを刻んだ札を貼って、応急処置を施した上で結界を張り保護する。

 そして、彼女が眠る結界を背に、ウォルターは真紅の槍を携えて一人災厄に立ち向かう。


「一人でも立ち向かいますか」

「当たり前だ。女が死にかけてんだ。命を賭けるには十分すぎる理由だろう」


 真紅の槍を向けるウォルターに、先までの戦いを愉しむ獰猛な獣のような笑みは存在しない。

 

 そこには、ただ相手を殺す。

 

 その意思を感じさせる鋭い勇士の眼差しだけがあった。

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