第39話 青春時代を取り戻すように



「第六十七問! 気体の捕集法の一つである上方置換が用いられる気体の名称を一つと、上方置換が用いられる理由を述べよ」

「アンモニア! 水に溶けやすくて空気よりも軽い性質を持つから!」

「正解! 第六十八問!」


 これは決して座学ではない。

 風早が高速駆動時でも瞬時に判断を下せる訓練である。

 彼が制御可能な限界ギリギリの速度域で高速駆動しながら、八神が出す問題を解く。

 そうすることで身体を動かしながら別のことに意識を割けるようにする訓練を行っているのである。


「同温・同圧のもとで同じ体積の気体には、気体の種類によらず同じ数の分子が含まれている。この法則の名は?」

「え、えっと……アボガドロの法そッーー!!」

「思考が遅い!」


 問題自体は事前に筆記テストを行い彼が問題なく解けたものしか出していない。

 つまり、即答できないということは身体の制御に意識が持っていかれているということだ。

 故に、言い淀む度に八神から光の鞭が飛ぶ。

 

 スパァァンッッ!!


 空気が爆ぜる音を響かせて鞭が振われる。

 不規則な軌道を描く鞭をなんとか避けて見せるが、そこで足をもつれさせてしまう。

 その隙を見逃すほど彼女は甘くない。

 躊躇なく振われた鞭は今度こそ風早を正確に捉える。


 だが、


「……へぇ、やるね」


 風早は崩れた体勢をあえてそのままにして、地面に手をついて身体を捻ることで鞭をかわす。

 そして、そのまま体勢を立て直し、元の速度域へと戻る。


「まだいける?」

「ハァ……ハァ……、いけます!!」


 滝のような汗を流して、息も絶え絶えであるがその眼はまだ爛々と輝いている。

 やる気に満ちたその眼に八神も応える。

 しかし、いくら彼にやる気があろうとこれ以上続けるとオーバーワークである。

 それも分かっている彼女は最後に相応しい超高難易度の技を繰り出す。


「これを避けられたらご褒美をあげるよ」



 輝ける波濤コルソ・ブリッラーレ



 超高速で振われた鞭は複雑怪奇な軌道を描き、光の波濤が如く空間を抉り取る。

 無数の軌道が荒れ狂う波濤が如く空間を削る絶技を前に逃れられるものはいない。

 八神自身、避けさせる気など全くない。

 越えるべき壁を提示するつもりで繰り出した技だたった。


「……嘘でしょう」


 しかし、彼はその全てを避け続ける。

 超高速で地を、時に空を駆ける。

 トネリコの槍で捌き、アキレウスの盾を顕現させて防ぐ。

 体勢を崩してもカポエイラのような身のこなしで避けながら体勢を整える。

 普段の彼ならばこのような芸当ができるはずもない。

 ポテンシャルは持っていようが、それを実現するだけの経験、判断力がないからだ。

 しかし今、彼はスポーツ界においてゾーンと称される状態に入ったのだ。

 究極的な集中力は彼のポテンシャルを遺憾なく発揮し、空間を遍く抉り取る絶技を完全に凌いで見せたのだ。


 この好機を逃すわけにはいかない。

 ゾーンとはいわば無念無想の前段階とも言える境地。

 そうそう容易く入れるものではないが故に、今のうちにできる限りの経験を積ませなくてはいけない。

 そう考えた八神はさらに追い討ちをかけるべく、白翼を展開して周囲一帯に羽をばら撒く。


 空中でチャフのように停滞した無数の羽根は、反射板のように機能して空間を埋め尽くす。

 舞い散る羽根は光の鞭を反射し、その軌道をさらに複雑怪奇なものへと変貌させる。

 

 はずだった。


 空中にばら撒かれた羽根の役目を察したのかどうかは定かでないが、何かしらの攻撃であると判断したのだろう。

 光の鞭を躱しながら羽根一枚一枚を神速の槍撃によって撃ち落とす。


「——ッ!!!」


 学生とは思えない絶技を前に思わず口角が釣り上がる。

 このままさらに追い込んで無念無想へ至らせよう。

 そう考えていた直後。

 彼は疲れからかその足を縺れさせて倒れ込む。

 その未来を見た彼女はすぐさま光の鞭による攻撃を中止して、彼の身体を支える。


「お疲れ様」

「ハァ、ハァ……、へへ、やりました。ご褒美、……期待……してます、ね」


 滝のような汗を流し、息を荒げていた風早はその言葉を皮切りに意識を手放した。


「…………ご褒美、あげるつもりはなかったんだけどなぁ」


 訓練を終わらせるために提示した、できるはずのない芸当をこなされてしまった。

 それ故に、ご褒美の内容など考えていなかった。 

 しかし、ここまでの意地と結果を見せられてしまった以上、何かしらの褒美をあげないわけにはいかないだろう。


「男の子が喜ぶものってなんなんだろう?」


 長い研究所暮らしの時代。

 デリットにインストールされた知識にも、男の子の喜ぶものなどという知識は皆無であった。

 青春時代など経験していない彼女に“男の子の喜ぶもの”というものは些か難易度が高かった。

 一先ず、風早を抱き上げて寮へと運びながら、最も仲の良い同僚である静を頼るべく、後で電話して相談しようと決めたのであった。



    ◇



 ホテルの一室のような空間。

 室内にはシングルベッドが間隔を空けて二つ並べられている。

 その向かいにはパソコンが置かれたデスクと四十二インチの薄型TV。

 そのシングルベッドの上に風早は寝かされ、傍には携帯を弄る一人の少年の姿があった。


「……ん、んん〜。あれ、芦屋? ってことはここ寮?」

「せやで。金髪の綺麗な姉ちゃんがここまで運んできてくれとったわ。ホンマ羨ましいやっちゃな〜。いつのまにあんな別嬪な彼女作ったんや? 雨戸ちゃん言うもんがありながら贅沢なやっちゃで」


 ニヤニヤと細い眼を歪めて笑う、白と黒が入り混じったショートヘアと関西弁が特徴である彼の名は芦屋あしや道永みちなが

 風早と同室のクラスメイトである。

 “彼女”という言葉に一瞬にして熟れた林檎のようになった風早はどもりながらも弁明する。


「ち、ちが、違うよ! あの人はそんなじゃなくて!! えっと、憧れというか……尊敬してる人というか……。……そ、それに梨花もそう言うんじゃなくてただの幼馴染だから!」

「あぁあぁそんな乙女みたいな反応すんな気色悪い。お前如きがあんな別嬪さんと付き合えるなんて露ほども思っとらんわ。アレやろ。教育担当者言うやつやろ。トーナメントの」


 苦虫を噛み潰したような顔で、親しき仲だからこその悪態を吐く芦屋は彼女の正体を言い当てる。

 “にしても雨戸ちゃんも気の毒やのう”と風早に聞こえぬ小さな声を漏らして、幼き頃から淡い想いを抱き続けている少女を憐れに想う。


「わ、分かってるなら揶揄わないでよ。それで、八神さんは?」

「金髪の姉ちゃんなら帰ったで。もうええ時間やし帰らなあかん時間やったんちゃう。ほら、一応部外者やから入校許可証ある言うても夜遅うまでおんのもあかんやろうしな」

「そ、そっか。八神さんとは何か話したの?」 

「何や気になるんか? 悪いけど何も話してへんよ。あの姉ちゃんが帰る後ろ姿を部屋の前で見ただけやし」

「へぇ、意外。八神さん綺麗な人だからてっきり見かけたら声掛けるものだと思ったけど」


 芦屋道永という少年は風早の中ではチャラいという認識だった。

 故に、見かけたなら声ぐらい掛けるものだとばかり思っていた。

 けれど、実際はそうではなかったことに驚いたのだ。


「人を下半身直結厨みたいに言うな」

「違うの?」

「まぁめっちゃ直結厨なんやけどな。……まぁ、アレや、あんまりにも美人過ぎたからちょっと尻込みしてもうたんや」

「あぁ、分かるよ。八神さん美人過ぎてちょっと緊張しちゃうよね」

「そういうこっちゃ。それよりも汗臭いからさっさと風呂入ってこい」

「汗臭いって、酷いなぁ」


 そう言いつつも汗臭いとは自分でも思っていたので、素直に従ってお風呂場へ向かったのであった。



    ◇



 ルシファー監修の下、幾分かマシになったミカの訓練を受ける風早。

 その様子を、ルシファーは豪奢な椅子に腰掛けてワインを傾けながら見守っていた。


「……気づいたか?」

「え、どうしました?」


 何かの気配を感じ取ったルシファーはミカにそう尋ねる。

 しかし、彼女は何も感じなかったようで首を傾げている。


「あの紋章高専とやら、何か良からぬものが潜んでいる。ともすれば、俺様にすら匹敵する何かが」

「また世界崩壊の危機ですか?」

「僅かな気配だ。確証はない」

「ルシファーさんが感じたならもう絶対いるようなものじゃないですか。私の方から紫姫に伝えておきますね」

「…………ああ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る