第10話 侵食領域



 ウゾウゾと蠢く地面から一〇メートルを超える巨大百足が襲いくる。

 対する八神は全力の光エネルギーの塊をぶつける事で焼き尽くす。

 だが、次の瞬間には攻撃の隙を突いた、ムカデの黒光りする甲殻に覆われた腕が八神の腹にめり込んだ。


「——グゥッ!」


 彼女は吐き気と腹部からの痛みを堪えてムカデの腕を掴んで固定し、全力で殴り返す。

 ムカデはキリ揉み回転しながら吹き飛び、蠢く百足の群れでできた地面に激突した。


 八神は背に顕現した両翼で滞空しながら、追撃を行うべく、超高密度の光エネルギーで光の槍を構築する。

 身体を捻り、全身の筋繊維が軋みを上げるほどの力で投擲する。


 ズオォォォォンッッ!!


 ムカデに直撃した光槍はその余波で地を薙ぎ払う。

 直後、槍は天を衝く極光の光となって空を埋め尽くす百足すら焼き払う。


「……ハァ、……ハァ、……ゲホッエホッ! うぇ……!」


 八神の額には大粒の汗が見られた。

 大技を使ったから、……だけではない。

 本来ならこの程度、まだまだ余裕はある。

 しかし、どうやらムカデの侵食領域“黒百蠢動辺獄”こくびゃくしゅんどうへんごくの空間内には神経毒のガスが充満しているようだ。


 百足の毒によって起きる症状は主に激しい痛みや痒み、痺れなどで、患部が腫れあがる。

 また、痺れが患部を中心に全体に広がったり、悪寒や発熱、発疹や嘔吐なども起きる。


 空気中の神経毒ガスは簡易侵食領域“遍く世を照らす光輪アウレオラ・マグナ”を鎧のように局所的に展開することで中和している。


 侵食領域同士が衝突すると互いに打ち消し合う中和現象が起こる。

 これを利用することで——簡易故に侵食領域そのものを打ち消すことはできないが——侵食領域の環境効果を打ち消しているのだ。


 だが、彼女はこれまでの戦闘で既に幾度か攻撃を受けている。

 その時に神経毒を直接打ち込まれた彼女は全身を走る激しい痛みに発熱、嘔吐感、四肢の痺れといった症状に苦しめられているのだ。


(時間さえあれば解毒もできるけど……)


 爆煙の中から飛び出してきた無数の甲殻に覆われた尾が八神を強襲する。

 彼女はそれを右手に現出させた光の剣で切り刻むと、背後から奇襲を仕掛けてきた遠くに山のように見えていた巨大百足を光の壁で押し留め、


闇を照らす魁となれ、明星の剣フォスフォロス!!」


 光の壁ごと莫大な力を注ぎ込んで長大化させた光剣で一刀両断した。

 そのまま回転して遠心力をつけた一撃で、天が落ちるかのように襲いかかってきた大空を覆う百足の群れも薙ぎ払う。


「ああ、もう! 気持ち悪い!!」


 地面から、大空から、遠方の山から、近くを流れる川から、まばらに生える木々から。

 世界のすべてが彼女に牙を剥き、休む暇など一瞬たりとも与えない。


(侵食領域から脱出する方法は、相手を上回る侵食領域で塗り潰す、侵食領域を維持できないほど著しいダメージを与える、消費した紋章の魔力が切れるのを待つの三択)


 第一の選択肢。

 力量で言えば八神の方が遥かに上ではある。

 とはいえ、紋章を消費しない簡易侵食領域では出力不足で打ち消せない。

 仮に紋章を消費する侵食領域を発動すれば、確実に世界を更に上から塗り潰して勝利することができるだろう。

 だが、侵食領域を発動する以上、紋章の消費は免れない。

 そして、こちらには例の丸薬のようなチートもないので、文字通り生命と記憶を削る事になる。

 これはあまりにデメリットが大きい。


 第二の選択肢。

 一見有力な手段に見えるが、これもあまり良い選択肢とは言えない。

 なぜなら、先ほどから確実に致命傷を与える攻撃を与えているにもかかわらず手応えがないからだ。


 百足には脱皮することで再生する能力がある。

 おそらくはこの力を用いて変わり身の術のように脱皮で上手く致命傷を避けて再生しているのか、もしくは致命傷すらも再生しているのだろう。

 通常ならそれほど驚異的な再生力は百足の紋章では不可能だろうが、侵食領域には術者自身に作用するタイプの環境効果を持つ場合がある。

 それによって侵食領域内においては致命傷すら再生することを可能としているのかもしれない。


 第三の選択肢。

 相手の術中で長期戦を行わなければならないが、

一番リスクが低く比較的マシな選択肢ではある。

 侵食領域に限らず、継続型の紋章絶技は絶大な効力を維持する為に発動時間が短いという弱点が存在する。

 逆に言えばその弱点があって尚、必殺と呼べるのが侵食領域。

 その中で領域が切れるまで持久戦をすることは、幾ら実力で遥かに上回っていようと無謀としか言えない。


「でも、やるしかないのが辛い所だよね」

「強いなァ。侵食領域の中に引き摺り込んでまだ仕留められねぇか……」


 首裏を指が抉り込む程の握力で抑えながら、首を曲げて骨を鳴らすムカデ。

 侵食領域を発動して尚、目的を果たせない現状に苛立ちは最高潮に達する。

 狂気を孕む彼の表面上は冷静に見える。

 けれど、その内には最早理性と呼べる概念は存在していなかった。


「よォし、決めた。殺そう。そうだよ。なンでオレが組織なンかの命令聞いてンだよ。生捕なんざしったこっちゃねぇよ。……でも、足らねェ。これじゃ足らねェ。我身可愛さで良い子良い子してちゃ殺せねェ。そンな甘くねぇわな。センパイだもンよォ。じゃァどうすればいい? 殺すには何が足りない? 何を足せばいい? どうやったら殺せる?」


 ブツブツと誰に聞かせるでもなく独り言を垂れ流す。

 首筋をガリガリと掻きむしり、甲殻が中の肉ごと抉れるが驚異的な速度で再生され、また抉れるというサイクルを繰り返す。


 普通なら致命傷とも呼べる自傷行為を繰り返す彼には痛覚がないのだろうか? 否、僅かに身体が痙攣しているのを見るに、痛覚はある。

 ただ、それを内に宿る狂気、殺意が遥かに凌駕しているだけだ。

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