第2話
老人から奪った眼ん球は薄い塩気がした。筋肉でパンパンに張っているためか、喉で強く清らかに抵抗していた。胃に落ちる数秒だけのことだったが。
食後の感想は、なんともないものだった。だがどうしたものか、あの老人がこの埃っぽくてほとんど何もない部屋で死んだ理由が分かった。
俺はあと一ヶ月で死ぬことが分かった。老人は、今日死ぬことが分かっていた。死因はたまたま伝染病にかかって、それが肺を病みつくして、この眼球の力も虚しく死ぬ。
そして死んだ俺から眼球を奪っていく人物も分かった。
一月後に眼球を奪っていく高野晴久の家は市の中心部からほど遠かったものの、まったく田舎であるというわけではなかった。家の外観は向こうに見えるものまでほとんど変わらない。しいていえば、彼の両親がほどよい趣味の菜園を築いているところくらいしか違いがない。
晴久は突然俺を呼ぶ。俺の晴久は異常なほど淫らに硬くなった男根の先端を俺の目の前に突きつけた。お願い、と涙ぐんだ声で懇願するから、俺はいつものように彼の柔らかい太ももと尻をかき抱いて、口内に彼のそれを受け入れた。舌を動かしながら彼の肛門の襞を撫であげる。年下の、俺の、晴久はリコーダーを鳴らすように喘ぐ。
俺は、俺からいずれ眼球を奪っていく男の精液を啜った。老人の眼球よりも塩気が強かった。
晴久は17歳だった。17歳でこれほどキレイなのだから、いずれ彼とキスしたくなる人間なんて砂糖に群がる蟻のように現れるだろう。俺は、そんな晴久をこよなく愛していた。
「なんともならないんだ」
「なにが」
「智尋には分からないよ」
「俺は、要領を得ないのが嫌いなんだ」
「ごめん」晴久は涙を流しはじめた。
彼は寝台から降りて学習机から封筒を取り出した。二流大学のそれから取り出したのは、不合格通知だった。
「全部落ちた」
俺の唾液で湿っている萎れた股関が彼の嗚咽のたびに上下した。
「両親には?」
「明日まで帰らない」
「今日は一人になりたいだろ、帰るよ。二日後に電話するよ」
「帰らないで」彼は俺の腕を掴んだ。そこに爪をたてていた。
俺は老人から奪った眼球で未来をみた。彼はその眼球であらゆる孤独な人々の魂、言うなれば狂った霊魂を支配し、指導し、服従していた。
彼に膝まずく男女の群れに彼は美しい顔を見せないでこう言う。
「お前らにはキリストの僕がついています。キリストの僕を守っていれば、お前らも守られるに違いないんです」
すると彼は上から多くの人を見下ろした。俺は、ついこの前まで童貞だった晴久が、これほどの男女と肉体関係を結んでいることに驚いた。
就職に失敗して人生を順調に歩めない者や兄に借金をしたあげくその兄を殴り倒して植物状態にした男や自己と社会の軋轢に耐えかねた中途半端に頭のいい者や彼の見た目に惚れた女や男や無責任な男に見捨てられネグレクト寸前になった女とその子供などの顔が見えた。
「電話なんかいらない」晴久は俺の首に腕をまわした。彼の薄い胸板が背中に張り付いた。
「今日はずっとここにいてほしい。今日は帰らないでずっと話していてほしいんだ」晴久の涙が背中を伝った。「智尋の綺麗な眼を見て夜を潰すんだ」
「どれだけ話しても、俺も晴久もお互いのことなんて一部分も分かんないよ」
「智尋が僕より頭が良いのは知ってるよ。さっき大学名で笑おうとしてたでしょ」
「してないよ」
「してたよ。ねぇ見てよ、今日の夜を。なんて陰気な夜なんだろうね。あの月もあの雲もそれに風も。夜に僕は殺されるよ」
「俺は今日、人を殺したよ。その人が邪魔だったからさ」
「下手な嘘だね」
「何故かな。そうする風に決まっていたような気がする。晴久もそういう日が来るかもな」
俺はまた、晴久の未来が見えた。日本でさ迷う行き場のない人々の魂を束ねる彼の管理的手腕を。
「キリストこと僕にも愛する人がいました。その人はすでにこの世にはいません。彼は僕のことが好きで、彼も僕のことが好きでした」会場はどよめく。「しかし」と晴久が一喝した。「彼は僕の瞳の中で生き続けています。彼がいなければキリストこと僕はこの世に生まれ出ることはなかったのです」今から20年と一ヶ月後の俺の命日の様子だった。
万物を見通す晴久は野獣のような魂の持ち主たちに微笑をうかべる。その眼はダイヤモンドのように輝いている。
俺は晴久の家を出た。晴久が指を指していた雲から雨が降り始めた。
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