凶刃狂想曲
田沼和真
第1話
序章 狂人
燃えていた。
海風に晒されたその家は炎に包まれ、闇を砕くほどに辺りを眩しく照らしていた。
悲しみも、哀れみも、怒りも、憎しみも、喪失感も、罪悪感も、俺の中には何も浮かんでこなかった。
ただ、石造りの家も、ここまで燃えるものなのか……と、そんなことを思った程度だ。同時に気付いた。二人のジジイに、一人のババア、ついでに俺の両親がその中にいるというのに俺が考えるのはそんなこと。
つまり、俺はそういう人間だということだ。
自分でいうのもなんだが、救いがたい。
「ゴォーーーーーーーール!」
絶叫気味な騒音がその部屋の中を埋め尽くす。
イタリア北部にあるその施設は、本来軍が所有しているはずのものであったが、軍服を着た人間はわずかで、主な利用者はその身分を公に出来ない者ばかりであった。
当然、その部屋にいる青年も自らの仕事を公にすることはない。少なくても、通常ならば……。
「リルケ、騒がしいんだけど……」
「観たか! 観ろよ! 魅せて観ろ! アーシア、今のゴールは何点だ!」
ハイテンションな青年は、長身で均整の取れた身体をしている。顔にはいくつかの傷が残されているが、その傷跡も彼の端正な顔に磨きをかけているといってもおかしくはない。
さほど大きくはない部屋には、テーブルと一対の椅子が置かれ、そこには青年よりもわずかに年上の女性が足を組みながら青年の凶行を無視するように勤めていた。
だが、さすがに発情期の猿のような声を上げられては無視もできない。
「あなたには幻でも見えているのかしら、リルケ・シュターナー。この部屋にはTVはないし、ここは個室。ラジオを聞いているようには見えないし、コーヒーを口に運んだ直後に、なぜにゴールなんて叫びが出てくるわけ?」
「今のゴールは三点だ!」
「……バスケットの話かしら?」
「嫌、野球だ!」
「よくは知らないけど、野球の単語にゴールなんて言葉はあったかしら」
「フライングだ!」
「いっている意味がまったくわからないわ」
長髪栗毛のアーシアは髪を撫でつつも、『あぁ、そうか』と、一つの結論に辿り着いた。
「理解したわ。なぜ、前任者が病気療養なんて不名誉な理由で職を辞したのか……。あなたについていくことができなかったわけね」
「あぁ、今日は素晴らしい天気だ。赤い空に、紫色の海、黄色の大地に、青い山! 生きていて残念だ!」
「青い空に、青い海、緑の大地に、緑の山……なら理解してあげるわ。ついでに、今日は厚い雲に覆われて、青い空なんて見えないけどね」
「さぁ、いこうじゃないか、アーシア! 世界一周の旅に!」
会話が成立しないために、アーシアはもう一度リルケの資料に目を通すことにした。いくらなんでもこのテンションを維持することはできないだろう。現に先ほどまでは静かだったのだ。リルケの気がすむまで放置しておくのが正解だろう。まともに取り合っていては、前任者の二の舞になりかねない。
彼女はそう結論を下した。
青年の名は、リルケ・シュターナー。年齢は二六歳。職業は政府直属の殺し屋だ。生まれも育ちもイタリア南部の廃れた村。両親及び祖父母は彼が五歳の頃に死亡。唯一生き残っていた母方の祖母も彼が一二歳の頃に死んでいる。
その後の経歴は南部の貧困層ではよくみるパターンだ。つまりは、裏世界、マフィアに属していたということになる。だが、その組織は跡目争いが激化した結果、弱体化。自然消滅的に壊滅してしまう。
そのときリルケ・シュターナーは一五歳だったわけだが、どういう経緯を辿ったのか、元イタリア陸軍大佐ダンテ・ディアスに認められ、彼の傭兵団に所属する。そのまま傭兵として生涯を過ごすことになるのかと思いきや、その傭兵団も戦場にて壊滅してしまう。リルケ・シュターナーが一八歳の時である。
マフィアに属し、傭兵団に属していたという奇抜な経路を辿ったリルケだったが、実際の話、それらは後に彼本人から語られたことであり、社会的には傷一つない身だった。だから可能だったのだろうが普通では考えられない。彼は傭兵団が壊滅した後、イタリア海軍に入隊したのだ。闇の底で生きてきたにも関わらず、終局点が正規軍なのだから呆れる。
しかし、リルケ・シュターナーという人間の人格は、おそらく子供の時に形成されていたのだろう。狂気的な性格を有した彼は、周りとの協調がまったくとれずに一年を待たずして除隊という不名誉極まりない結果に落ち着いた。
嫌、それは一面の事実ではあるが、別の真実もある。
彼は確かに特異な性格ではあったが、同時に、天才的な格闘センスの持ち主でもあった。それも一八歳の新兵でありながら、教官を負かせてしまうほどの強さ。本来ならば数年かけて身につける格闘戦術をたった数ヶ月で習得、重火器の扱いに関しても他の人間よりも遥かに上をいっていた。
傭兵団に所属していたから……と単純に片付けられるようなレベルではない。
『リルケ・シュターナーは確かに強い。軍内部を見渡しても彼に匹敵する人間は数人いるかどうか……。嫌、少なくても私は知らない。だが、それほどまでの人間が、あそこまで常軌を逸していれば、軍人として使い物にはならない』
公式ではないにせよ、人事部の責任者はリルケ・シュターナーに対してそういった評価を下した。結果、彼は軍人として不適格になったわけだが、軍としても、彼がマフィアや敵国に渡ってしまうことを恐れたのかもしれない。また、その天才的な強さを無視するわけにもいかず、彼は国に飼われた殺し屋となった。
ただ、殺しの依頼が大半だが、彼にしか達成不可能な作戦というものがある。八ヶ国語を操り、祖父母がそれぞれ異なる国籍だったためもあろうがその国籍不明的な容姿、その戦闘能力、何よりも重要だったのは、彼が死んでも構わないという上層部の判断だ。ある種、捨て駒的な扱いであり、あえて死地に送り込むような任務を与えたことは数々だったのだが、彼はそのたびに帰還してきている。
味方にしても、部下にしても、敵にしても、扱いに困るという珍しいタイプに位置しているということでもあるだろう。
「明日はピクニックにいこう……」
落ち着いてきたのか、リルケは椅子に座るとコーヒーを再び口に含んだ。
ただし、
「猿、きじ、犬を連れて」
と言葉は続く。
会話は成立しないし、意味不明なことを語りだす。咎めても、叱責しても、彼の心には波一つ漂わない。命令違反するわけではないが、違反ギリギリのことを平然とする。
常識で図れば、そういうことはしない。だから、わざわざ命令書に書くことも、口頭で注意することもしない。が、彼は常識がないのか、平然とそれをする。今の身分に落ち着いて三度目か四度目の仕事の際、対象の人間が囲っていた少女を何食わぬ顔で連れ帰ったという事実さえあるのだ。
「カナリア……だっけ?」
「昨日は明日と同じことをしよう」
「あなたが一九歳の時に引き取った女の子よね。今は……、一四歳になった……ということでいいのかしら」
資料にはそうある。が、その子が何者なのかはわかっていない。こちら側のある種の善意によって戸籍はあるが、学校に通っているわけでもない。どういった経緯で少女がリルケと出会い、どういった経緯でリルケと共に住んでいるのか。少なくてもリルケと共に住んでいるということになるのだが、その話題になると会話は必ず成立しない。リルケやアーシアの上司であり責任者たるマルチェロ少将から、それだけは伝えられている。
『リルケ・シュターナーは、カナリアという少女と共に暮らしているが彼はその少女をないものとして、空気として扱っている。故に、カナリアという少女に関してはこちら側もないものとして扱っている』
わけのわからない事実だ。
「カナリアという少女は元気でいるのかしら」
さすがに気になるのでその話題を持ってきたのだが、リルケはコーヒーを一息で飲み干すと言い放つ。
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。帰っていいのかなってさ。仕事の話しじゃなけりゃ、ここにいる理由もない」
カップがコースターに落ち着き、それを指で弾きながらリルケはアーシアを見詰める。
「……そうね、仕事の話しが先ね」
アーシアは悟る。目の前にいる人間はまともな人間ではないが、それ以上に殺人者であることを……。見えないはずの殺気が彼女の肌を突き刺していた。
「ドレファス製薬という会社を知っているかしら?」
アーシアは別の資料を手に取り、仕事の内容を語る。
「太陽は北から昇って、南に落ちるんだ。知っているだろ、そのぐらい」
「アメリカに拠点を置く製薬会社で、世界でも有数の企業よ。ただ、二ヶ月ほど前、創立者でもある会長、その息子の社長も事故にあって同時に死亡した。創立者である会長の相続人は、社長の一人娘であるリア・ドレファスただ一人。彼女は現在一六歳。若すぎるし、経営に興味を持っていたわけじゃないから、持ち株を会社に売り渡し、経営からは身を引くことになった」
「ハロウィンには、サンタの格好をしていこうと思うんだが、どう思う?」
「リア・ドレファスは、理由はわからないけど日本を訪れるらしいわ。それも一人で。今回の仕事は、そのリア・ドレファスの護衛よ」
リルケは決して馬鹿ではない。人の話を聞いていないようにはみえるが、おそらくは聞いているのだろう。故に、確認の返事は求めない。
「日本は比較的安全な国であるし、空港窓口のチェックは厳しい。ただ、現地でどうにか武器は手に入るでしょうから、その点は安心して頂戴。それと、これがチケット」
アーシアは、テーブルの上にあった封筒をリルケに差し出すが、それをするよりも先にその封筒の上にリルケの指が突き刺さる。
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。何のために? と。リア・ドレファスを護衛するだけのために俺が動くのか? 守る理由があるはずで、その理由は突き止めているはずだろ? イタリアの人間がアメリカのお嬢様の護衛を請け負うように手を回すのは生半可な苦労じゃないからな」
「馬鹿じゃないようね」
「馬鹿といっている人間が、天才なんだ」
「……信じる信じないはあなたの勝手よ。ただ、それを信じた上での今回の仕事であるのは確かな事実」
「ミケランジェロはいっていた。『お前は地面だ』ってな」
「歴史に名だたる芸術家の発言を勝手に捏造しないでくれる? とにかく、とある情報があるのよ。それは前々から噂として流れていたもの。そう、数十年も昔から。……ドレファス製薬が今の地位に上ることができたのは、リアの祖父、つまりドレファス製薬の創立者は、万能薬の生成方法を知っていたからだってね。同時に、それは人の永遠の夢、不老不死に繋がるものに違いない。いいえ、もしかしたら、彼はすでにそれを作っていた可能性もあるし、その生成方法を知っていた可能性もある。だけど、誰一人として、それを知ることはできなかった」
「あぁ、素晴らしき墓場。人は墓場から生まれて子宮に帰るんだ。嬉し悲しいことじゃないか」
「なんにせよ、リアの行動は不自然でしかない。祖父が戦後に日本を訪れていたという事実はあるけどリアには何の接点もない。にも関わらず、この時期に日本を訪れる。とすれば、万能薬の秘密は日本に眠っている可能性がある」
「リルケ・シュターナーは鼻で笑ってるぜ。つまり、護衛とは名ばかりで、いざとなったら、そのお嬢ちゃんを殺して万能薬の秘密を手に入れろってことだろってさ」
「あなたはただ、私の指示に従えばいいのよ。私も共にいくのだから……」
アーシアの眼光をリルケは口元を緩ませながら受け止めていた。
「きっとどこかで人は生まれて、地獄と天国をさまよって、いつかは空に埋められるのさ」
理解不能な言葉を口にしながら、リルケは資料とチケットを手に取ると立ち上がる。
「今日は嵐だ、雷だ。楽しいから、海辺でランチとしゃれ込もう」
からかうような、人の心を見透かすような瞳と行動。それにわずかに憤ったアーシアはそこから出て行こうとするリルケの背に向かって、もう一度尋ねる。
「カナリアは、元気?」
と。
だが、リルケは顔色一つ、態度も変えずに言い放つ。
「そんな奴は知らないね」
と。
第一章 意図せぬ出来事
父親よりも、死んだ母親よりも、義母よりも、あたしは誰よりも祖父が好きだった。だけど祖父は時折悲しそうな目をしていた。
一冊の本を手にするときは、決まってそんな表情を作るのだ。
「おじいちゃん、その本ってどんな本なの?」
あれはいつだったか……、七歳だったか、八歳だったか、あたしは祖父に尋ねたときがあった。祖父はあたしの頭を優しく撫でると、わずかに重くなった口を開く。
「遠い昔の冒険家の話だよ」
「どんな冒険?」
「桃源郷のお話しだ」
「桃源郷?」
「あぁ……」
祖父はそこで言葉を切る。あたしが何を質問しても、ただじっと本を眺めるだけだった。そして、いつしかその本は屋敷から姿を消してしまい、あたしは二度とその本と出合うことはなかった。
そして、あの日。
「リア……。頼まれてくれるかい?」
一二歳になったあたしの部屋に祖父は突然入室してきた。その表情は心痛なもので、あたしは不安になる。
「頼みって……何? おじいちゃん?」
「いつか日本にいってもらいたい。極東の島国だ。そこへいき、私の過去を清算して欲しいのだ。するべきではなかった。出会うべきではなかった。屈してはいけなかった。なかったことにすることはできない。それでも……」
おそらくアルコールが入っていたのだろう。歳のせいとアルコールと、祖父はきっと自制がきかなくなっていたのだと思う。
本来ならば自分がするべきとわかっていても、祖父はそれができなかったのだ。それを悟ってもあたしがそれを拒絶することなどない。
「リア……あぁ、すまない。こんな話を……するべきじゃ……ないのだ」
突然、我に返った祖父をあたしは引きとめた。
「いいの、おじいちゃん。だから、話して。あたしはあたしの意思で、それをするから。だから、話して。おじいちゃんのことを……」
祖父は思いつめたような表情をしながらも、それでもなお語る。あたしを愛してくれた祖父。物で愛情を表す両親の代わりにあたしの身近にいてくれた。それほどまであたしを大切にしてくれたのに、それを語ってしまう。
それだけ祖父にとってその過去は拭いきれない悪夢となって降り注いでいたのだ。それがわかるから、あたしはそれを成し遂げることを決めた。
祖父に代わって。
「確かに仕事の都合上、私はあなたと出国することはできなかった。現地で落ち合うことにして、現にこうして落ち合うことができた。だけど、どういうこと?」
空港ロビーにてアーシアが頭を抱えている。本来ならば大声で怒鳴りたい気分だったが、周囲の目が気になってそれができない。
ロビーの椅子に座っていたリルケ・シュターナーは、サングラスをしているので起きているのか寝ているのかわからないが、椅子に浅く座り足を伸ばしきっている。完全にだらけた人間の姿だ。
が、問題はそこではない。リルケの傍らには薄い金髪の少女が礼儀正しく座り、なにやら本を読んでいる。最初は誰だろうと思った。次に他人かと思った。次にはもしかしてリア本人なのかと思った。だが、違う。
「リルケ」
訝しがりながらもアーシアは声をかけ、リルケはそのままの体制でまたもや意味不明なことを語りだす。
「トレビの泉にハンカチを落とすと、不幸になるらしい。気をつけることにしよう」
「ここは日本で、トレビの泉なんてないわ。それはいいとして……」
傍らに座る少女をちらりと見る。もし他人であれば失礼にあたるし、そもそも目立つことは避けたい。
ので、言葉を濁していたのだが、返事はリルケではなく当の本人からなされた。
「あっ、アーシアさんですか? あたし、カナリアっていいます」
人見知りをするのか幾分緊張した物言いではあったが、礼儀正しい言葉遣いだ。しかも、言葉は全て日本語でなされている。
が、問題はそれではない。
「カナリア? えっ? カナリアって、リルケと一緒に暮らしている?」
「はいっ」
言葉が通じるのは嬉しい限りだが、アーシアはこの状況に多少パニックに陥っていた。
「えっ? ちょっと待って……。なんで……えっ?」
これは仕事だ。しかもリアは万能薬の秘密を握っている可能性もあるし、それは自分達だけが知っているわけではないかもしれない。他の国や組織もリアの動きに勘付いて行動を起こしているのかもしれないのだ。
それにリア本人を知らない以上何ともいえないが、リア本人を殺害してでも行動を阻止しなくてはいけない場合もある。そういう仕事なのだ。間違っても観光ではない。
「リルケ、これはどういうこと?」
カナリアはリルケを見るが、リルケはいまだに体制を崩さない。目を開けているのかさえわからない。
「リルケ・シュターナーはいっている。何のことだってな」
「なぜ、カナリアさんがここにいるの?」
カナリア自身は第一印象としては悪い子ではないと思える。なので、あまりカナリアの前で声を荒らげたくはない。
「リルケ・シュターナーは困ってるぜ。お前が何をいっているのか、わからないってな。ここには俺しかいない。三時間前に日本に付いて、ここでお前がくるのを一人で待っていたんだ……ってな」
「ここに一人でいた?」
さすがのアーシアも声に怒気が含まれつつある。
「五色沼って沼は、本当に沼なのか? 本当に五色なのか。赤、青、黄色、緑……オレンジ? なら綺麗だが、黒、灰色、茶色、鶯色、こげ茶……なんて五色だったら、困ると思わないか? そうか、もしかしたら、一〇色なのかもしれない。あぁ、素晴らしいコガネムシの国、日本」
「私が聞いているのは、これは仕事であって観光じゃないってことよ。なのに、なぜカナリアさんがここにいるの? あなたが連れてきたんじゃないの?」
「リルケ・シュターナーは不安で一杯だ。ここには俺しかいないのにお前はここに誰かがいるといっている。幽霊か、お化けか、それとも妖精か。白昼夢か幻か、それとも幻覚か。薬でもやっていたら余計厄介だ。お前と行動を共にすることに非常に不安を覚えている」
「あなたが大丈夫? ここにはカナリアさんがいるでしょう? ここにちゃんといるわ」
アーシアがカナリアの手を取り、リルケの前に引っ張り込む。
「ほら、ここにいるでしょう?」
「リルケ・シュターナーは頭を抱えている。俺の上司はヤク中なのか……と」
さすがのアーシアも忍耐力が切れ掛かる。そもそもこの仕事は彼女にとって重要なものなのだ。しかも、リルケと組んで始めての仕事でもある。私事として公事としても失敗は許されない。緊張するなというほうが難しい仕事であるにも関わらず、一歩を踏み出す前に難問が立ちふさがっているのだ。
「チケットは?」
言葉はカナリアに向けたもの。
そのカナリアはアーシアの態度にもリルケの態度にも私心を乱されることもなく、平然とした様子で持っていたハンドバックの中からチケットを取り出した。
「そう、やっぱりチケットは持っているのよね。チケットのない人間をこんな場所にいれるはずがないもの。ということは、このチケットは誰が買ったのかってことよ。そう思わない、リルケ」
「リルケ・シュターナーはため息をついた。さっきからアーシアは何をいっているのかと。俺の前にはお前しかいない。他には誰もいない。チケットとは何の話だ? 俺のチケットでもみせて欲しいのか?」
「あなたは仕事をまじめにする気があるわけ?」
「リルケ・シュターナーは呆れている。仕事を真面目にやるも何も仕事が失敗に終ったことはないはずだ。現に俺はこうして生きている」
「なら、なぜ、この子がここにいるの?」
「リルケ・シュターナーは飽きてしまった。意味不明なことをいう女に付き合ってはいられない。お前を置いて、リア・ドレファスを迎える準備をしよう……とな」
そこでリルケはさっさと立ち上がり、アーシアを置いてそこから去っていく。そして、彼女の目前で、先にいくリルケを追いかけ、服のすそを握るカナリアが映る。
「待ちなさい、リルケ。カナリアさんはここにおいていく。いいえ、イタリアに帰って」
さすがに同行は許可できない。
アーシアは強い言葉でそれを言おうとしたのだが、最後まで告げることができなかった。
ガン! という音が響き渡る。
リルケが傍らの椅子を蹴り上げたのだ。椅子が音だけでは足らず振動で揺れている。
周囲にいた人間がこちらを注視する中、リルケは振り返るとサングラスを外す。
「ここには誰もいないんだ。いると言い張るなら、貴様はさっさと帰ればいい。邪魔になるだけだ」
距離は数メートル。
それだけ放れているにも関わらず、リルケの眼光と低い言葉はアーシアを締め付ける。
「……わ、わかったわ……。いくわ、あなた達と一緒にね」
精一杯の抵抗を見せるが、それが限界。もはや諦めるしかない。そう判断したアーシアは再び歩み始めるリルケの後に従った。リルケ・シュターナーは狂人だ。狂人に何をいっても仕方ない。が、アーシアはわかっていない。狂人の行動というものを。
それから約六時間後。リア・ドレファスは日本の地を踏み、アーシア、リルケ、及びカナリアと合流を果たした。
アーシアはすでにリアの容姿を知っているので、すぐにリアに声をかける。写真でしか確認していなかったために、カナリアをもしかしたらリア本人かもしれないと思ったが、本物のリアは間違いなくリア本人だと簡単に確認できた。
「リア・ドレファスさんですね。私はアーシア・タルティーニ。すでにミゲルから連絡はいっていると思いますが……」
ミゲルとはリアから直接仕事を受けたイタリアの諜報員だ。無論、リア本人は知らないし、自分がそこまで狙われていることは知らない。なので、リアがミゲルという男に依頼したのは日本の地理に詳しいガイド……ということになっていた。
リアは胸ポケットから写真を取り出すと目の前のアーシアと見比べる。それはミゲルから預かったもので、アーシアの写真、さらに裏には携帯電話の番号まで書かれている代物だ。もっとも番号のほうは下二桁は書かれておらず、リア本人に覚えてもらっている。誰かに拾われれば面倒だからだ。
「えっと、アーシアさんでいいんですよね」
「ええ」
「あたし、リア・ドレファスといいます。日本のガイド、よろしくお願いしますね」
「お任せください」
要点を絞ったリアの言葉だが、それは省いたというよりもそれ以外の言葉を告げる必要性を感じていないだけだろう。人に頼るというよりも、奉仕させることが当然といった受け答えだ。とはいえ、言葉や仕草には礼節を守っている風があるので嫌味は感じない。
「今回のガイドは、私とそこにいる……二人がご一緒させていただきます」
カナリアのことは放っておこう。アーシアの結論としては、それしかない。それに同年代の人間がいたほうが、リアにとってもいいではないか……と彼女は自分を納得させる。
「あの子もですか?」
が、当然、ガイドと運転手の二人なら納得できても、そこに一人の少女が加われば誰でも不思議がる。リアも同様だ。
「彼女は……彼の身内でして、ガイドの見習いということでご同行させます。それに日本語も英語も堪能ですから……」
それ以外の言い訳の言葉がアーシアは思いつかない。
「そう……なんですか……」
リアは不信というよりも、そういうものなのだろうか? といった表情を作る。
そこでアーシアは二人を手招きして呼び寄せる。さすがのリルケも仕事が始まったという認識があるためか、素直に従った。
「彼の名前はリルケ、彼女の名前はカナリアです」
「よろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
リアとカナリアはごくごくフレンドリーな第一印象を築いたが、残る一人はわずかに口元を歪ませる。
「ようこそ日本に。ミス リア・ドレファス。君の護衛をすることになったリルケ・シュターナーです。もっとも、いざとなったら、君を殺して万能薬の情報を得るのが目的といえば、目的ですけどね」
沈黙。そして、数秒の間を置いてリアは逃げ出した。
「リルケ・シュターナー! あなたの脳みそはどこにあるの!」
声を荒らげるアーシアの視線の先には、逃げ出したリアの背中が映っていた……。
「どういうことかな、ローレ。対象が護衛らしき男達の元から逃げ出したぞ」
空港のロビーにて、アジア系らしき容姿をした男女が離れた場所から四人を見守っていた。背広やスーツをまとい、辺りに同化しながらも視線は彼等から離さない。
「さぁ、どういうことかしらね。もしかしたら、あのお嬢様は勘が優れているのかもしれないわ。どうせ、あの護衛達も狙いは同じでしょうからね」
「万能薬……か。くだらない。あの方はその先を求めているというのにな」
「先を求めようと求めまいと、万能薬の生成方法は手に入れるべきものだ」
「確かに。で、どうする? ここでリア・ドレファスを追うか?」
「Mからの命令では、当分は見張りを続けろということになっているわ。こっちは彼らと違って彼女を殺すのが目的ではないのだから」
ローレと呼ばれた黒髪長髪の女性は、慌しく行動している男達を横目で眺めている。それをしながらも彼女は立ち上がった。
「とりあえず、ベルニッケはMに報告を。あたしは後を追ってみるわ。彼女を捕らえようというよりは殺そうとしている連中もいるみたいだから、万が一に備える」
「物騒な話だ」
「お金持ちのお嬢様だからね。狙われてもおかしくはないわ。その点に関してもMに報告を。あの人ならそれも知っているかもしれないから」
「了解」
ベルニッケは携帯を取り出しながら自分も立ち、リアが逃げた方向とは逆の方向に歩み始める。そして、ローレは表情を消しながらリアの後を追った。
空港内部は立ち入り禁止区画がいたるところに存在する。それにリアとて生半可な覚悟でここにきたわけではない。ここで警察機関に逃げても行き着く場所は同じだ。一時的に安全が確保できても、日本に来た理由は明らかにすることはできず、警察機関とて動きようはない。
故にリアは空港から外に駆け出していく。閉ざされた場所にいるよりも、開け放たれた屋外のほうが逃げやすいと判断したためでもある。
どの選択が正しいのかなどわかるはずもないが、間違いのない事実は、リアは世間に疎いということだ。彼女が生まれた時にはすでにドレファス製薬は世界的な企業になり、何不自由のない生活を送ってきた。両親の愛を感じたことはなく、その愛情を受けることもなく母親が他界し、父の再婚相手が現れた。とはいえ、共に住んだことはなく、リアはすでに会長としてほぼ引退生活を送っていた祖父と共に過ごしてきたのだ。
祖父は多くのことを教えてくれた。それゆえに、自分がいかに恵まれているのかに気付くことができたが、それは気付いただけに過ぎず、知っているという言葉には届きようがない。一人で旅行をした経験などもなく、まして海外を訪れたこともない。祖父から話しを聞かされた時から、日本語などの勉強は続けてきたが、この国には始めてきたのだ。交通機関も、地理も、常識も知るはずがない。となれば、こうなるのも無理はなかった。
「……迷った?」
ただ走り、走り続ける。それを続けているうちに、リアは貨物専用の駐車場に迷い込んでしまっていた。辺りは巨大なトラックが立ち並ぶが、人の気配はほとんどしない。しかも、そのトラックのせいで見通しも悪い。
どこをどう進めば、道に出るのか。道に出たところで、どうすればいいのか。
空港を出てすぐのタクシー乗り場は行列ができていてすぐには乗れない。バスという手もあるかもしれないが、それとて待たねばならない。運良くバスがきてくれても、乗り方も料金の支払いもわからない。
そもそもリアはドルを持っていても換金していないのだ。使えぬ紙幣を持っていても役にはたたないし、そもそも、どこで何をすれば円に換えられるかもわかっていない。
『全ては現地にいるアーシアという女性に任せてくれればいい』。祖父とも付き合いの深いミゲルという初老の男性にそういわれ、それを信じた……。だが、やってきたのは、自分を狙う怪しい男。
裏切られた……という思いは、リアにとっては脅威だった。なぜなら、温室育ちの彼女はそういった経験がない。まして、子供の時から顔見知りだった男性が裏切るとは想像もしていなかったのだ。そこまで深い知り合いが裏切った。とすれば、誰を信じればいいのか。異国の地で知り合いもなく、信じる者がいないという脅威はリアには重たかった。
トラックの影に隠れ、息を整える。落ち着こうと思いながらも、思考を巡らせても妙案など出てくるはずもない。どうしよう。どうしたらいい。そんな言葉だけが脳裏を巡るが、新たな問題が彼女に突き刺さる。
「リア・ドレファスだな」
ふと視線を上げるとそこには数人の男達。黒服の男が二人に、私服姿の男が三人。皆、日本人ではないが、それよりも、なぜ名前を口にするのか。
「だ、誰ですか!」
「リア・ドレファスだな」
「……」
「沈黙は答えだ。まぁ、いい。写真の人間と瓜二つだ。もし違っていても、どうということはない」
黒服の男の一人が頷くと、私服の男が背負っていたリュックの中から銃を取り出す。
リアの思考はマヒする。
「……なん……で……?」
なぜ、殺されなければいけないのだろう。なぜ、こんなところで殺されなければならないのだろう。危険があるのはわかっていても、思い浮かぶのはそんな言葉。リアの思いなど無視するように、黒服がタバコに火をつけながら淡々と答える。
「なんで? あなたはどれだけ莫大な遺産を手に入れたとお思いで? それだけの金を背負っているんだ。狙われないはずがない。ここは日本で治安がいい。とはいえ、人一人殺すのはたやすい」
銃がリアに向けられる。
「……いや……いや……」
思考もマヒし、身体も動かない。男数人の合間をぬって逃げ出すことなど不可能でしかない。試してみる覚悟も気力も潰えている。祖父との約束も果たせず、何もなすこともできずにここで死ぬ。否定したい現実を前にリアは手を組み合わせて神に祈った。
だが、それに答えるのは神などではない。ただの狂人だ。
「遺産……いさんか……あぁ、そうか、わかったぞ、皆の衆。いさんというとあれだな、胃酸だな! そうか、胃酸が入ったということは、胃酸過多ということに違いない。知っているか、アマゾネス! 胃酸過多とは、月から送られている電波が原因だということを! はっはっは、そんなわけがあるわけがあるかもしれない!」
誰もが虚を付かれた……というよりも、驚いていた。言葉は通じていたが、言葉の意味などわからない。何をいっているんだという思いが先にたち、何者だという思いが後についてくる。トラックの上に一人の男が立っている。誰ではない。リルケ・シュターナーだ。
「鬼退治にきた金太郎が、ここにいない。鶴を助けた桃太郎は恩返しに竜宮城に連れて行ってもらって、かぐや姫と恋に落ちて、まさかり担いでクマ退治だ!」
わけがわからない。その場にいた全員がそう感じたに違いない。だが、リルケは身軽にそこから飛び降りて、男達の前に立つ。
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。お前らザコだな……ってな」
声質が変わった。それを感じた時には、すでに遅い。リルケは男達の認識よりも早く銃を構える男の懐に飛び込み、その手の平で男の顎を突き上げた。リルケもその男も、高身長であるにも関わらず、男は体が浮き上がり、血と共に歯を宙に舞わせる。
空港からリアを追ってきた男達だ。銃を懐に忍び込ませるほど無用心ではなく、結果、リルケが敵と認識できても格闘で挑まなくてはいけなかった。
相手はたったの一人。こちらはその数倍。数でいえば負けるはずなどなかったが、それは相手が一般人である場合だ。無論、男達も素人ではない。訓練も実践も潜り抜けてきた。
しかし、相手が悪かった。その動きは的確で早さもあり、攻撃箇所も的確で強烈。一つの動作が、次の動きに繋がるようなリルケに彼等は数の有利をいかすことなどできなかった。結果、一分もかかることなく男達は地面に崩れることになる。
「一寸法師の亀退治は、こうして幕を閉じることになるってことだな。そう思うだろ、リア・ドレファス! そうさ、その通り、俺がいっていることは、月がひっくり返っても、間違いばかりに決まっている!」
胸を張り、自分に向かって喋りかけてくるリルケをリアは呆然と見詰めるしかない。同時に、まったく緊張感のないことであると思いながらも、自分の日本語のヒアリングは正しいのだろうかと思わずにはいられない。先ほどから、リルケの言葉は間違いばかりのような気がするのだ。
日本語の勉強と共に、日本の文化なども勉強した。文法もことわざもできる限り勉強した。童話も有名どころは読んだ。
が、先ほどから、何かがおかしい。
「……一寸法師は……鬼退治をしたんじゃないんですか?」
リアは思わず、そう呟いた。
駐車場を見渡せる場所に、ローレとベルニッケが立っている。リアは彼らの予想を越えた速さで逃げ、さらにある種、暴走に近かったため、ローレは一旦リアを見失ったのだ。
「あの男、間に合ったということか」
「そのようね。あたしが見失ったお嬢様を簡単に見付け、あっけなく、あの男達を倒した。殺してはいないようだけどね……」
「いい動きには見えるな。だが、所詮はただの人間に過ぎない。障害にはなるまい。もっとも、多少は調べる必要はあるがな」
「顔写真は撮っているわ。後でMに送ることになるでしょうね。なんにせよ、今は彼に礼をいいましょう。リアが死なずにすんだのだから」
「あくまでも、今は……ということだな」
ベルニッケのい葉にローレは返答しない。ただ、そこに背を向け次の行動に移るだけだ。
「任務は監視。車を用意してくるわ」
「あぁ……」
筋肉質なベルニッケは小さく笑みを浮かべながら、その後に続いた。
リルケはあらぬ方向に目をやり、リアは必死で逃亡しようとしている。だが、リアの襟首は掴まれているために逃げることはできない。
「はな、放してください」
「リルケ・シュターナーは忠告するぜ。このまま逃げれば、また誰かに狙われる。こいつらもいっていただろう? あんたは金持ちお嬢様。狙われてもおかしくない。まぁ、この異国の地で、命の危険を顧みず、たった一人で金もない、知り合いもいない、交通機関の乗り方も知らない、ないないづくしでやり遂げる自信があれば、別に逃げてもいいんだけど……できるはずがないよな」
「あなたもこの人達と同じじゃないですか! どうせ、あたしを殺すに決まっている!」
「リルケ・シュターナーは嘆いているぜ。自分は部下に過ぎないってな。上司はアーシアで、俺はアーシアの命令に従うだけだ。今のところあいつはあんたを殺すつもりはない。だから、こうして護衛の任務をこなしてやった。だが、こいつらは有無をいわさずあんたを殺す。間違いなく、殺すことが目的だ。おそらくは金のためで万能薬とやらのためじゃない。一人でいれば、こいつらのような輩がまた襲ってくる。一人で逃げ切れるはずがない。とりあえずは俺のそばにいれば死なずにすむ」
「嘘つかないで!」
リルケは完全にといっていいほど、リアの不信を買っている。それがわかったのか、リルケは言葉を変えた。
「あぁ、今日は絶好の鬼退治日和だ。どこかに鬼でもいないか、探してみようじゃないか。きっとどこかに、亀がいる」
「鬼じゃないんですか? 亀を退治してどうするんです……」
「そうか、なら、鶴退治でもしてみよう。そうすりゃきっと、恩返しに月に連れていってもらえると思うぞ」
「月に空気はありません。死にますよ……」
「そうか、月には空気がないか。そうか、そうだな、そのとお……」
バチン! リルケの言葉は最後までは紡げない。息を切らしながら、その呼吸を整える前に、そこに現れたアーシアはリルケをありったけの力で引っぱたいたのだ。
リルケの頬が赤く染まる。
「観ろよ、アーシア! 星が飛んでいる!」
真実の言葉か、虚言か、判断がつかない。が、アーシアはリルケを無視した。
「リアさん、ご無事でしたか!」
「近寄らないで!」
アーシアの眼前には倒れた男達。尋常ではないことが起きたのはわかるし、同時に、リアの信頼を勝ち取ることに失敗したのもわかっている。まずは、信頼を取り戻さなければいけない。アーシアは、たった数分で失った信頼を取り戻さなければならなくなったわけだが、言葉をかけるよりも先に、リルケがアーシアの手を掴む。
「邪魔よ、リルケ!」
手を振りほどこうとしたアーシアだが、リルケの握力はそれを許さない。が、リルケはリアの手も取り、アーシアにそれを握らせる。
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。まずはここを放れること。ついでに、この手を放せば、お嬢様は逃げ出すから放すなよってな」
「え……、ちょ、リルケ……。あっ、リアさん……」
リルケは二人をそこに置いてどこぞへ向かい、襟首を解放されたリアは再び逃げようとする。顔はリルケに、体はリアに……。が、優先すべきはリアであり、結果、リルケの忠告どおりリアの逃亡を食い止めることに集中した。
「ま、待ってください。話を聞いて……」
「嫌です!」
アーシアはリルケの上司だが軍人としての訓練は受けていない。なので力には自信などない。なので、逃亡阻止は必死になるが、若さの違いか、リアのほうがわずかに上回る。
「ちょ、リルケ、こっちにきて手伝って……」
アーシアの嘆願にリルケはわずかに振り返り、ただそれを口にする。
「黙れ、静まれ、でなけりゃ殺すぞ」
ピタっと動きが止まる。リアだけでなく、アーシアもだ。日本語を深く学んでいた二人は、ほぼ同時に『ドスのきいた言葉』という言葉を思い浮かべる。リルケの言葉はまさにそれ。有限実行するのは間違いないし、それだけの威圧感もある。
「とりあえずこの場を放れてそこで話し合いましょう」
「……」
アーシアが優しくいうがリアはまだ不振がる。が、腕は掴まれているし、逃げれば本当に殺されかねない。
その思いがあるので行動には制限がつく。
そんな二人はほぼ同時にリルケがそこから去っていく様を目にするが、先ほどと同じような結果にはならなかった。いなくなったとしても、すぐに現れるかもしれない。という思いもあったが、何よりもリルケはどこにいったのだろうか……という思いが先にたつ。
が、リルケはすぐに戻ってきた。
そして、二人は気付く。
リルケの傍らには、リルケの服のすそを握り、息を切らしたカナリアがいることに……。
「リルケ……、あなたもしかしてカナリアさんを探しにいこうとしたわけ?」
「そんな奴はどこにもいない」
リルケは胸にしまったサングラスをかけ、アーシアと共にリアを連行することにした。
第二章 奇妙な一行
遅いか早いかの差でしかなかったに違いない。あの男がそこに現れようと現れまいと、結果は何も変わらない。時がどれだけ経とうとも、俺は俺のままで変化などせず、ただあいつを拒絶していただけだ。
「花梨が……死んだわ」
「……」
花のように笑う女だった。俺の姿を見かけると一目散に飛んできて、拒絶しても引き離しても俺の周りにまとわりついてきた。
拒絶した。俺は花梨を拒絶し続けた。だが、それでもあいつの笑顔は変わらなかった。どうすればよかったのか、今でもそれはわからない。
命は消え、取り戻すことは適わない。過去は過ぎ、やり直すことはできない。過去を隔てた今が目の前に横たわっている。ズタズタに切り裂かれた花梨。花のように笑う女はもういない。もう、いないのだ。
「緑華。お前は逃げろ。この村はもう駄目だ……」
「……」
長年の友といえる緑華は、言葉を返すこともなく立ち上がる。
「村の始末は、連中の始末は俺がつける」
「……」
いいたいことは多々あるだろう。恨みも憎しみも、その矛先は俺に向けられるべきものなのだ。それでも緑華は何も語らない。ただ、無残に切り裂かれた友人に手を合わせ、そのまま山を降りていく。それにかける言葉も俺にはない。
「どうすればよかったんだ、花梨。俺の傍らにいればお前は死んでいただろう。免れぬ死がそこにはあったはずだ。だから、俺は拒絶した。お前の笑顔を奪いたくはなかった。だから拒絶したのに、結果がこれか……」
残骸。それだけが辺りを埋め、草木の緑も全てが赤く染まっている。花梨だけではない。数多の仲間がそこに屍を晒しているが、彼等はそれでも足りなかったらしい。
声が、足音が、草木を掻き分ける音が徐々に近づいてくる。
「……鬼龍か」
「久しぶりだな」
現れたのは一人ではない。俺の名を呼ぶ男の背後からその仲間が大勢現れた。だが、俺の態度も口調も変わることなどない。そして、男は問うてくる。
「鬼龍。緑華はどこだ? 仲間はどこだ?」
「聞いてどうする。探してどうする」
「殺してやる。全員な」
「そうか」
二つの部族は手を取り合うように生きてきた。接触こそ極力避けてはきたが、だからといって敵対していたわけでもない。同じ泉の水を飲み、同じ時をすごし、同じ物を崇めてきた。だが、一人の男の存在でそれが歪み、決定的な亀裂を生んだ。こいつらの言葉を否定はできない。止める言葉は存在しない。同じことを、花梨がされたことと同じことを、花梨の仲間は彼らの仲間に対して繰り返したのだ。
双方共に同じことを、双方に対して行ってきた。同じ泉の水を飲み、同じ物を神と崇める。だが、それは神なんてものではない。
「鬼龍、まずは貴様から殺してやる!」
「そうか……。もう元に戻れないのならば、俺がそれを下そう」
「この数相手に何ができる!」
「できるさ。だから花梨はこんな死に様を迎えたのだからな」
手の平をかざす。それだけでいい。そこに表れるものが、彼らの死を意味するのだから。
「……宝玉?」
誰かが呟く。何もなかったはずの手の平から浮かび上がるように表れたものを見て、彼らの思考は停止する。それこそが、俺達が神と崇める象徴なのだから。触れることの適わぬはずのものが、俺の手のうちにある。
「なぜ……それをお前が持っている!」
「……持っているからこそ、それができたからこそ、俺が下す」
瞳を閉じ力を念じる。そして、それが再び開かれるとき、そこにはもう誰もいない。焼け野原となったその山肌には、もはや花梨の遺体はなく、同時に誰の姿も残されていなかった……。
「俺はセナに勝った男だ!」
「セナが生きていたときは、あなた何歳よ! 勝負できるわけがないでしょう!」
「そうか、ならば、シューマッハに勝った男だ!」
「そうか、ならばってどういうことよ! あんたみたいな男が会えるような存在じゃない!」
「そうか、ならば俺は光速で移動する光だ!」
「光だったら人間じゃないってことで運転はできないってことよね」
「そうか、ならば俺は人間だ!」
「わかってるわよ、そんなこと。だから、さっさと運転席から降りなさいよ、リルケ! あなたの運転じゃ安心できない!」
「知っているか、アーシア! 日本じゃ、俺が運転手だ!」
「意味がわからないわ!」
レンタカーを借りたはいいが、リルケがアーシアから鍵を奪い、そのまま運転席に乗り込んでしまった。もはやアーシアは遠慮しない。こんな男に運転をさせるわけにはいかないという認識が確立してしまっているので、どうにかしてリルケをそこから降ろそうとしているのだ。
が、言葉で何をいっても効果はなく、腕力で勝てるはずがない。とはいえ、リルケに命を預けるのも嫌だ。故に、アーシアは先ほどからリルケとやりあっており、その激しい応酬は周囲の目を引いている。
後方に控えるリアは、いまだにアーシアに手を握られているので逃亡はできない。また、冷静に考えた結果、今は共にいることを選んだ。少なくても、この国の情報を知るまでは逃げることを止めたのだ。一人で成すべき事を成せるだけの情報がそろうまでは……という条件付である。
さらにその後方にはカナリアがいるが、こちらは『ごめんなさい』『すみません』『ご迷惑をかけます』と周囲に頭を下げている。ついさっき空港から出てきた少年は携帯電話片手にその光景を眺めているが、ふとカナリアと目があってしまい、『ごめんなさい』と頭を下げられ、片手を挙げてそれに応じた。
ただ、うっとうしい連中だ。という印象は変わるはずがない。
「騒がしいな、鬼龍。お前、どこにいるんだ?」
電話口の相手まで、その騒音が鳴り響いており、さすがにそれを問う。
「今帰ってきたところで空港にいる。隣でわけのわからない外国人が騒いでいてな」
「人迷惑なことだな」
「ガキに謝罪までされたぜ。子供が周囲に迷惑をかけて、大人がそれを謝罪するのはわかるが、逆っていうのは珍しいな。もっとも、ガキといっても一四、一五ってぐらいだがな」
「で、容姿はどうだ?」
「お前は常にそれだな」
「髪結いは俺の趣味だからな。外国人ってことになると腕がなる」
「知り合いでもなんでもねぇ。ただの他人だ」
「声でもかけろ」
「ふざけるな。まぁ、計四人で、女が三人、うち二人はガキだが、俺の目からみても及第点だな」
鬼龍は相手の話に合わせるようにアーシア達を採点する。が、帰ってくる言葉には反応しない。
「なら、さらってこい」
「なんで、こんな場所でガキどもをさらわないといけねぇんだよ」
「俺の趣味のためだな」
「付き合っられるか。まぁ、いい。とにかくそっちで変わったことはあるか?」
自分の趣味に付き合うつもりがないことを悟ったのか、相手は口調を変える。
「お前はほとほと時間の感覚がおかしいな。お前が日本を出て故郷に足を延ばしたのは数年前だぞ。ほとんど連絡らしい連絡もよこさねぇで、変化があるか? はねぇだろうが。あるに決まっている」
「俺からすれば、変化がないに等しい場合が多いんでな」
「そうかい。なら、まぁ何もねぇよ。それよりも、久しぶりの故郷はどうだった?」
「変わり果てていたな……。今となってはどうでもいいことだし、結果的にそのほうがよかったのかもしれない」
「そうか……。お前がそう思うなら、俺が口出しすることじゃねぇな。そうだ、ついでだから土産でも買ってこい」
「俺がか?」
「今そこにいる奴に頼むのは道理だ。後でもう一度連絡する。何を買わせるか話し合うからよ」
「それまで帰れないってことか」
「そういうこった」
「まぁ、いい。たまには人ごみの中、散策するのもいいだろう……さ」
いまだにアーシアとリルケの言い合いは続いているが、どうやら、アーシアのほうが先に息切れしそうな感じだ。電話を切った鬼龍は、『まだやってるのか』と呆れたように彼らを見るが、そこで再びカナリアと目があってしまい、またもや謝罪される。
「まぁ、気にするな」
と、とりあえず口にするが、それが届いた保障はない。単に鬼龍の気持ちの問題でしかなく、そのまま片手を挙げ、その場から去っていく。
その後方では、諦めたアーシアが大人しく後部座席に入るところだった。
「どうした、ローレ」
リア・ドレファスの監視を行っているローレ及びベルニッケは、空港内から彼らを見張っていた。だが、先ほどからローレの様子がおかしい。
「ローレ」
「えっ、あぁ、なんでもないわ。それよりも本当に監視はしなくてもいいわけ?」
「Mからの指示だ。追跡はグリュンが担当する。奴のほうが日本の地理にも、言語にも精通しているからな」
「そう。なら、しばらくあたし達の出番はないかしらね」
「そうなるといいがな。なんにせよ、すぐに動けるように待機しているのが俺達の役目だ」
ベルニッケの視界には、ようやく車を発進させるリア一行の車が入り込んでくる。
「さて、いくかローレ」
「ええ」
そして、その空港から二人の姿は消えた。
車内。
「知っているか! 日本にはキリマンジャロという美しい山があるそうだ。いつかは、その山を青一色で染め上げようと思っているんだが、どう思う!」
「安全運転でお願いするわよ、リルケ」
「さぁ、ヘアピンカーブに差しかかるぞ、ここはノンブレーキで曲がるのが光速の光としては当然の結果だ」
「ホテルはこちらで手配していますので、ご安心ください」
「安心? あたしを殺そうとしているのに、どうして安心できるんですか?」
「ですから、それはこの男が」
「晴れ渡った海は白い沼で囲まれて、俺は気ままにロッククライミングでもしようと思う」
「見てください、聞いてください。この男の言葉にどれほどの価値があると? 信用なんてなさらないでください」
「でも、いっていることは本当のことなんでしょう? あなた達は、あたしのことを知っていた。あなた達はガイドなんかじゃない」
「それは……」
「あぁ、寂しい。寂しいライオンは、寂しさで殺されてしまうんだ」
アーシアはリアをどうにか説得しようと試みている。嫌、説得といえばいいのか、誤解を解くといえばいいのか、正しい言葉が見当たらない。ただ、間違いないのは、リルケが邪魔で邪魔で仕方がないということだ。二人で話し合いたいのに、リルケが合間合間で意味不明な言葉を告げてくる。
「どこまで知っているんです、あなた達は。万能薬のことを……」
「……それは……」
「それを語らないで信用しろといったところで、信用できるわけがないじゃないですか! 確かに、先ほどは助けられました。でも、最後にはあなた達はあたしを殺す。そうじゃないんですか?」
「ご、誤解です。私はそんなこと……」
リアにはリアでやるべきことがある。そして、それを明かすつもりがない。同時にアーシアはアーシアでやるべきことがある。そして、それを明かせない。
二人は互いに秘密を抱え、それを口外できる状況ではなく、そうである以上、そこに信頼関係を作ることなど困難でしかない。
言葉に詰まるアーシアに、アーシアを拒絶するリア。そして、意味不明なことしかいわないリルケ。ボロボロな関係の三人だが唯一カナリアだけは無関係を通している。とはいえ、そもそも、カナリアは初めから無関係で、本来いるはずのない人間なのだ。
アーシアの用意したホテルは空港近辺ではなく、都内の街中にあるホテルだ。リアがどこに向かおうとしているのかわからないために、移動がしやすい場所に決めたわけだが、日本の渋滞と人ごみはアーシアの予想以上だった。
ところどころで小まめな渋滞に巻き込まれ、車がなかなか前に進まない。
「人がいっぱいですね」
「そうね。東京は人が密集しているから……」
リアに対する説得の言葉が発見できず、アーシアもリアも気まずい沈黙の中にあるが、カナリアは平然とその沈黙を破る。
「あたしの住んでいる村って、あんまり人がいないからちょっと怖いぐらいです」
「……あなたはリルケと一緒に住んでいるのよね」
「はいっ」
カナリアはそういうが、リルケは完全にシカトだ。
「確か、人口二、三百人程度の村だったわよね……」
「そうですね、そのくらいだと思います。皆さんの名前、多分、全員いえますよ」
その程度の村。完全に近代化に立ち遅れ、過疎化した村のはずだ。リルケが今の立場になる頃にはハイウェイが建設されることになり、村は取り潰される予定だったが、いつしかその予定は立ち消えになり、いまだに村は村として存在している。
とはいえ、子供の数は極端に少ないために、いずれは自然消滅してしまうだろう場所であり、そんな場所にリルケとカナリアは暮らしている。
「……寂しくはない? あなたと同じ年頃の人はいないでしょう?」
「寂しくなんかないですよ。みんな親切だし、大切にしてもらってます。リルケさんだっていますもの」
そこでリルケの名前が出てくるのだが、やはりリルケは完全に無視だ。
「教育だって満足に受けているとは思えないし、同じ年頃の人と共同生活を送るのも大切だと思うけど。あなたがその気なら、街中に移ってもいいのよ。その程度はできるから」
「いいんです。あたしは今のままで。今のままがいいんです」
カナリアは笑む。しかし、アーシアは納得できない。どう考えても、リルケと共に暮らしているという現実はカナリアにとっていいこととは思えない。何しろ、リルケはカナリアを空気とみなして無視しているのだ。
「でも、この男は、あなたを無視しているようにしか見えないけど?」
「あたしはリルケさんにとって空気ですから」
なぜ、そこでカナリアは笑むのだろうか。笑顔を作ることができるのだろうか。その笑みは作り物ではないからこそ、余計不思議だ。そこまで聞いているとリアもさすがに興味がわいてくる。出会ったばかりでほとんど何もわからないが、リルケがカナリアに話しかけたことなど一度もなかったことは思い出せる。空気とはなんだろう。さすがに疑問に思う。だが、カナリアの興味は他に移った。ちょうど信号待ちで車が停車していたわけだが、歩道を歩く女子高生が手にしていたものに目を奪われた。
「あれ、なんですか?」
カナリアが歩道の女子高生を指さすと、アーシア、リアの視線もそちらに流れる。
「何って?」
「あの人達が食べてるものって、なんですかね?」
「あぁ、あれは多分、クレープじゃないかしら。カナリアさん食べたことないの?」
「ないです。美味しそうですね」
「そうね」
どんな食生活を送っているのだろう。
アーシアは思う。住んでいる場所を思えば、そういう物を食べたことがないのはわかる。だが、リルケと共同生活している中、二人は何を食べて生存しているのだろうか。リルケが何か作っているのだろうか……。
思考を巡らせている間に、再び車が走り出す。
が、車は急に道をそれ、地下駐車場に入ってしまう。
「ちょ、リルケ、どこに行くのよ」
「墓場」
端的な言葉は、リアを警戒させるのに十分だ。止まったら逃げる。そう結論を出すのも無理はない。地下駐車場に入った車は、そのまま空いているスペースに入る。
「ちょっと、リルケ!」
突然の意味不明な行動。意味不明な人間が意味不明な行動を取るとさすがに動揺する。命の危険があるリアならなおさらだ。車が止まったと同時に、リアはドアを開けて逃げようとするのだが、リルケの言葉が先だった。
「少し待ってろ」
いったと同時にリルケは車外に出て行く。
車内に運転手がいなくなる。運転手がいなければ車は動かない。なぜにこうなったのかアーシアにはわからない。誰にもわからない。
「あ、も、申し訳ありません、リアさん。どうしてこうなったのかはわからないんですが、すぐに帰ってくると思いますので、どうか、このまま車内に……」
「……」
リアとしても沈黙するしかない。
このまま逃げるといっても、車外にはリルケがいるかもしれないのだ。車内には危険人物らしい人間はいない。が、車外にはいる。とはいえ、このままここに留まるのも危険ではないのか……。選択枠は数多あると思いながらも、行動に移す選択枠が実はない。
「大丈夫ですよ。リルケさんは優しいから……」
助手席に座るカナリアは動揺の様など一切なく、優しい言葉で告げてくる。
「……何をしにいったのか、あなたにはわかる?」
「美味しければいいんですけどね」
カナリアの返答は、リルケ譲りらしい。
地下駐車場。通り過ぎるわけにもいかず、彼もまたそこにいた。
グリュン。ローレ、ベルニッケの仲間であり、リアの持つ万能薬を狙う者。日本人といわれても違和感はない容姿。故に、彼が追跡の任を任されたわけだが、対象は地下駐車場に入り、しかも、運転手の男だけが外に出て行き、残りは車内に残っている。
こういう状況になることは少ない。何しろ、ターゲットと護衛が完全に分離され、しかも、人気がない場所。襲う、攫うといった方策をとる場合は、まさに絶好のチャンスといえるだろう。
「なぜ、こんなところに入った? 尾行がばれたのだろうか。それとも、別の理由? 尾行がばれていないとすれば、あの男が消えたのはチャンスとみるべきだろうが、ここで行動しておくべきか……。それとも、男の後を追うほうが後々役に立つかもしれない」
突飛な行動を起こされると、相手側は混乱する。まさにこのときのグリュンはそれに当てはまるのだが、彼は冷静に判断する。つまりは、指示を仰ぐことである。
あくまで任務は追跡、監視。リアを確保することはそこに含まれていないのだ。
グリュンは携帯を取り出し、自らの主に連絡をつけようとしたのだが、それは唐突だった。突然の人の気配。そして、窓ガラスが弾け、脳を痙攣させるような激痛。
そこでグリュンの意識は奪われた。
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。俺の追跡をしたければ、一〇人程度が一時間交代で、しかも、車の車種も交換しろってな。いくら熟練だろうが、一人でやれば俺に気付かれる」
口から泡を吹き出している男に窓ガラス粉砕用のハンマーを左手に握ったリルケが語り掛けるが、当然、返事はなかった。
「おかえり」
リルケが車内に戻ってくるが、言葉は明らかに間違っている。
が、それに突っ込むものなど存在しない。
「どこに……」
いっていたのかと問い詰めるつもりだったアーシアだったが、リルケが手にしていたものをみて、答えを知る。リルケの両手には、クレープが握られていたのだ。
「誕生日プレゼントに熊のぬいぐるみだ。存分に切り刻んでくれよ」
いいながら、リルケがクレープを差し出す。
「あっ、ありがと……」
「ありがとうございます」
アーシアもリアも思わず礼をいってしまう。目の前の狂人がこんなことをするとは思っていなかったのだ。しかも、二人は遅れて気付くのだが、何気にカナリアの手にはクレープが握られていた。
いつ渡したの?
とは、二人同時の疑問だが、渡した様子など一切ない。右手に握ったクレープをこちらに渡し、再び運転席に座りなおしたときには、リルケの手にはクレープはなくなっていた。つまり、カナリアはある種、リルケの左手に握られていたクレープを奪い取ったことになる。しかし、リルケはそこでもシカトする。もしかすると、カナリアのためにクレープを買いにいった? アーシアはそう推理するのだが、それに確信などあるはずがない。
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。こういうときには甘いものがいいってな」
「いっておくけど、こういう状況にしたのはあなたよリルケ」
アーシアのごくごくまっとうな言葉に返答はなかった。
代わりに、
「美味しいです」
「本当、美味しい」
というカナリアとリアの言葉が響くだけだ。
「まぁ、確かに美味しいけどね」
アーシアもその意見には納得するしかない。同時に、それが功を奏したとは思いたくもないが、車内の空気は確かに和んだものになっていた。
どうにか四人はホテルにたどり着く。最高級ではなく、上の下といったホテルだが、それが護衛する人間と護衛される人間のギリギリのラインだったといえなくもない。あまり目立ったホテルはアーシアとしては避けたかったのだ。本来ならば、もっと安宿でいいのだが、お嬢様育ちのリアがそれで満足できるとは思えなかったので、そこを選んだ。
しかし、ここでまた問題が出る。
「ひとまず、シングル三つに、ツインを二つ予約していますが、どうなされますか?」
本来ならば、全員が同じ部屋。最低でもアーシアはリアと同じ部屋がよかったのだが、
「シングルで」
と簡単にリアに拒絶された。リアとしては当然の結果で、それが崩されることはないだろうことをアーシアもわかっていたので、それを仕方なく受け入れる。
問題は、リルケとカナリアだ。
「それで、カナリアさんは?」
「ツインでいいです」
と告げてくる。まぁ、仕方ないといえば仕方ない。が、良いのか? といわれると駄目だろうとしかいえない。だが、カナリアがくることはまったくの想定外。シングルは三室しか予約しておらず、リルケと同室になるのはアーシアとしても論外だ。ただ、考えた結果、リア、リルケ、カナリアがシングルで、自分はツインという手もある。
「カナリアさん、あなたは……」
シングルで……、とアーシアが告げようとするのだが、そこにカナリアはいない。早々に受付から離れたリルケの後を追っていってしまった。リルケにシングルの部屋を無理にあてがってもいいのだが、カナリアは常にリルケに付きまとう。となれば、ベッド一つのリルケの部屋にカナリアがそのままついていくことも考えられる。
なら、ツインのほうがまだマシか……。アーシアはそう結論付ける。というよりも、あまり深く立ち入りたくもないし、立ち入っても、リルケがカナリアを無視しているのでやりようがない。
「……あの、アーシアさん」
「えっ、あぁ、なんですかリアさん」
「あの二人って、どういう……」
さすがのリアもそこが気になる。リルケはまったくカナリアを見ないし、カナリアに話しかけない。話しかける相手は常にアーシアであって、カナリアもリルケに話しかけようとはしない。常に独り言のように話をする。が、カナリアはリルケの後を子犬のように付き纏う。気にならないはずもない。
「私も詳しくは知りませんが、リルケがカナリアさんを引き取り、共に暮らしているようです。もう七、八年になるんじゃないでしょうか……」
「じゃあ、親戚かなにかですか?」
「……いえ、そういうわけじゃないようですが……。リルケがああいう人間で……」
「途中からずっと見ていたんですが……。あのリルケさんって人、カナリアさんのことを無視していませんか?」
「……えぇ、まぁ、そういうことになるんでしょうね。リルケにとってカナリアさんという少女は空気らしく、空気は見えないということで、無視しているようです」
「……どういう……ことです?」
「さぁ?」
理解できるはずもない。まともならざる人間の思考を理解できるのはまともならざる人間だけ。つまり、アーシアもリアもまともな思考の持ち主ということになるのだろう。
リア、アーシアがシングル。リルケとカナリアがツイン。ということになったわけだが、護衛は護衛。リルケ達はリアが部屋に入るまで傍らにおり、部屋も正面や隣り合った部屋、とにかくすぐに駆けつけられる場所を確保している。
「本当は同室でなければいけなかったのに、こうなってしまったのはあなたの責任よ、リルケ」
「リルケ・シュターナーは首を傾げる。警戒されないようにしていたはずなのに不思議だな……とな」
叱責もするし、怒鳴ることもある。いい合いもするし、愚痴もいう。が、相手にはしない。一方通行的にいうことをいうだけだ。
「前任者が病気療養になったのが、よくわかった」
アーシアは一旦、自室へと向かい、自らの冷静さを取り戻すことにした。
最高級ホテルの一室。そこに一人の男が街のネオンを見下ろしながら手にした資料に目を通している。それはアーシアが持っていたものとほぼ同じ。リア・ドレファスの資料だ。無論、そこには万能薬に関するものも含まれている。
「……万能薬……か。さすがにアーシア・タルティーニ。情報を掴むのも早く、行動を起こすのもまた早かったな……。祖先の言葉を信じぬいた結果ということか」
資料をテーブルに置いたと同時に、その部屋をノックし、入室する者が表れる。アジア系統でうら若き女性だ。
「M。ローレ、ベルニッケから報告があり、グリュンがやられたそうです」
「死んだと?」
「いえ、生きてはいますが、リア・ドレファスは見失った模様です」
「そうか。護衛とやらもなかなかに腕が立つようだな。で、その護衛の調べはついたか?」
「こちらに」
Mと呼ばれる男よりもわずかに背の低い女性は、ファイルをそのままMに手渡す。だが、最低限の情報は口頭で伝えた。
「護衛の名は、リルケ・シュターナー。経歴はそこに記したとおり、相当の男だと思われます。増援の必要があると思いますが」
「……ふっ、ふふっ、そうか、なるほどな……」
「M?」
「増援か。とりあえず失敗作をすべて用意しろ」
「全てですか?」
「あぁ」
「わかりました。それとリア・ドレファスの命を狙う者ですが……、おそらくは彼女の義母ではないかと……」
「だろうな。だが、放っておけ。こちらが手出しするような価値はない。ただの俗物に過ぎん」
「ですが、リアが万能薬の書を手に入れる前に死んでは……」
「おそらく、そういうことにはなるまい。ローレ、ベルニッケにはグリュンに代わって追跡と監視をさせろ。おおよそ行き着く場所はわかっている。無理をしない程度でよい」
「はい。それとグリュンの処遇は……」
女性の顔色がわずかに変わる。
だが、Mはそれに気付いていてもそれに触れることなく、ただ伝えるだけだ。
「回復すれば任務に戻せ」
「それでよろしいので」
「今更、調教する必要などあるまい」
女性はMと顔を合わせようとはしない。だが、下を見る女性の顔は恐怖で引きつっていた。それを内心楽しく感じながらも、Mはそのまま女性を下がらせた。
「ふっ、痛みは人の精神を狂わせる。それを有効活用すれば従順な駒が作れるということだな。それにしても、リルケ……か。ますます楽しいことになりそうだな」
Mはリルケの資料を手に椅子に座ると、それにゆっくりと目を通していった。
その笑みが消えることはない。
第三章 歌姫
歌うのが大好きだった。どんな人の前でも、どんな場所でも、たった一人でも、あたしは歌を歌う。だけど、それが間違いだったことにあたしは気付くことができなかった。
してはいけなかった。
パパもママも、あたしの歌を聞いてくれた。歌が終ると拍手して、あたしの頭を撫でてくれた。嬉しかった。だけど、その歌が、あたしの歌声が特別なものであることに気付かずに、パパとママはどんな場所でも歌を歌うあたしを止めることはなかった。
だから、パパもママも殺されてしまう。夜中にパパとママに連れられて車でどこかに向かう途上、数台の車がパパの車を止めてしまう。言い合う声、そして、銃声。
あたしを抱きしめていたママは男の人達に引き剥がされて、その喉を掻き切られた。パパもママも、自らの血に染め上げられて顔すらもわからない。
何が起きたのか。なんで、起き上がってこないのか。幼いあたしにはわからない。
「さぁ、カナリア、私の前で歌っておくれ。その天使の歌声は誰のものでもない。私のものなのだから……。私のためだけに、君は永遠に歌を歌うのだよ」
忘れたいのに忘れられない。あの男が告げてきた言葉。あたしの歌声を自分のものだけにするために、あたしのパパとママを殺した男。あたしは歌う。あの男の前で……。服を纏うことすら許されず、嘗め回すようなあの男の視線を浴びながら、あたしはただ歌を歌うしかなかった。それが永遠に続くに違いない。籠の中の鳥のように死ぬまで歌い続けることになるに違いない。漠然とした思いが胸の中に湧き上がる中、唐突に、突然に、あの男はパパやママのようにあたしの前で殺された。
三階の窓を突き破り、あっけなく男を殺したあの人は、黒いマントを身に纏っていて、物語に出てくる悪魔のように見えた。だけど、自然、あたしはあの人のマントを握り締めていた。
「……ん?」
「……ぁ……」
あの人はあたしに気付く。マントの端を握り締めていたあたしのことに……。
そして、あの人はいった。
「面白い」
と。
あの人はそのとき、マントを振り払った。助けてくれない。悪魔もあたしを助けてくれない。パパとママを殺した男は死んだけど、そこに取り残されれば自分は誰かに殺されるか、別の主人が現れるだけであることを、そのときのあたしは知っていた。あたしはきっと知りすぎているのだ。一人で逃げることなどできない。悪魔も助けてくれない。あぁ、あたしは……ここで死ぬんだ……でも、それでもいいのかな……。怒号や銃声の鳴り響く中で自分の死を受け入れたあたしだったけど、そのあたしの前に再びマントが舞う。
あの人はそこに立つ。そこに立っていた。銃弾が壁を削り、銃声が木霊する。
雇い主が死んだからといって、殺した人間を放置する人間はいなかったし、おそらく、雇い主が異なる男達もいたに違いない。そんな男達が三階に集まってくるにも関わらず、あの人はそこに立っていた。逃げることなど容易いに違いない。三階の部屋にやすやすと侵入してきたのだ。出ていくのも簡単だったはず。男達がくるまでに逃げることはできたはず。なのに、あの人はそこに立ち、銃を手に撃ち返す。動くことなく、そこに立つ。
あたしの前に立ち、男達を迎え撃つ。
なんで? なんで、逃げないの? なんで、そこにいるの? いい……の?
震える手であたしはもう一度……もう一度だけ、手を伸ばす。
そして、あたしの手がそれを握り締めるけど、あの人は今度はそれを咎めることはなかった。後になって気付いた。最初にあたしが握ったのはマントの左側。左ハンドルの車に乗るときには邪魔になる。だから、彼は右側のマントを握らせた。
あの人があたしを拒絶したのは、それが最初で最後。数多の銃弾をかいくぐり、数多の追手の相手をしながらも、マントを握るあたしの手がそこから放れることはなかった。
それ以来、あたしはあの人にとって空気のような存在になった。語りかけても返事はない。あたしに語りかけることもない。あたしを見ることもない。
だけど、あたしはわかっている。あの人は、確かに皆がいうような狂人だけど、あの人の中にあたしという存在は間違いなく存在する。
だから、それで十分。それが、あたしが選んだ、あたしの幸せなのだから。
コーヒーカップが指先の上で座っている。しかも中身は入っているのに、コーヒーは一滴も落ちてはいない。
それだけで、尋常な技量でないことが素人のアーシアにもわかる。
「今回の失態は、今後の行動で償ってもらいます」
「リルケ・シュターナーは憤っている。俺が何をしたんだ? と」
「リアさんに対して、場合によっては君を殺すっていったのは誰!」
「リルケ・シュターナーは反論する。それをいってはいけないなんて聞いていないってな」
「常識……」
そうか、そうだった。この男はリルケ・シュターナーだ。
殺すかもしれない相手に、殺すと告げる馬鹿はいない。だけど、リルケはリルケだから、するなといわれなければそれをする。
「……もういいわ。とにかく、リアさんの信頼はほとんど失った。これから、ますますやりにくくなるわ」
「リルケ・シュターナーは笑っている。最初から楽な任務じゃないってな。地下駐車場で一人殺した」
「は?」
アーシアにとって初耳だ。
「クレープを買いにいっただけじゃなかったってわけ?」
じゃあ、あれはそれを誤魔化すため?
「リルケ・シュターナーは反論する。ついでに殺しただけだ……とな。まぁ、いいさ。とにかく覚えておくことだ。リア・ドレファスは万能薬に関する何かしらの情報を知っている。だから、狙われる。確かにそれは間違いない。地下駐車場にいる人間は、そういう輩だろう。だが、空港でリアを襲った連中は一言も万能薬のことを口にしていなかったし、すぐにリアを殺そうとした。どういうことか、わかるよな」
「……リアさんを狙う理由が別にあるということ?」
「リルケ・シュターナーは安心する。お前がバカじゃないことにな。つまり、リアを殺そうとしている連中がいる。奴らの目的はリアの殺害で、殺害方法などどうでもいい。嫌、おそらく、死体は発見されなければいけないんだろうな」
「……どういう……確かに彼女は祖父や父の財産を相続しているから億万長者といえるけど。本人を殺して、どうするって…………。あっ……」
アーシアはそこで気付く。万能薬のことだけに気が向いていたので、それを喪失していたのだ。完全に自分の判断ミスであることに気付かされた。
「……リアさんの義母……」
「リルケ・シュターナーは拍手してるぜ。その通りだ。祖父と父親はいつ死んだ? そう、同時死亡だ。祖父が死に、次いで父が死んだとする。その場合、祖父の財産は一旦、父親に受け継がれ、その後、父親の死亡によって、妻とリアに相続される。今回の場合、父親の財産に関してはそうした配分がされただろう。だが、祖父の場合は違う。あくまで同時死亡とされた。この場合、直系卑属であるリアに直接祖父の財産が向かい、息子の妻には一銭も入らないんだよ。それが同時死亡の際の決め事だ。しかし、リアが死ねば、いくら義母だろうと戸籍上は母親。相続税がかかるとしても、莫大な財産が義母の手に落ちることになる」
「……」
改めて、アーシアはリルケがただの狂人でないことを悟る。
「……つまり、リアさんは万能薬を狙う連中と、義母の差し向けた殺し屋の双方に狙われているということね……」
「……」
リルケは何も答えない。ただ、指先で鎮座しているコーヒーカップの中身を口に含むだけだ。
「リアさんを守れる?」
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。相手次第だってな。義母を殺すのはたやすい。万能薬を狙っている連中が何者かわかれば、殺すのもたやすい。だが、リアを守りきれるかといえば、容易いとはいいがたい。いうのは悪いが判断ミスだ。お前は戦闘訓練を受けていない。できるのは俺一人しかいないんだからな。たった一人の護衛じゃ右の敵しか倒せない。左の敵を倒すのは誰がするんだ?」
「……」
アーシアは沈黙する。
「リルケ・シュターナーは気付いている。この仕事は、おそらくお前の独断専行だってな。マルチェロ少将は、万能薬のことを知ってはいても眉唾だと思っているだろう。少将は軍人でリアリストだ。夢物語に左右されるような奴じゃない。だから、この仕事は俺一人で、増援も頼めない。俺が死ねば少将を含めた上層部の連中は喜ぶだろうしな。もっとも、万能薬はともかく、リアの信任を得られればお前の立場も悪いものではなくなるだろう。何しろ、金持ちのお嬢様。上の連中だって金は欲しいだろうしな」
「お金の問題じゃないし、私がどうなっても別に構わないわ」
「……」
アーシアは呟くようにその言葉を口にする。
「桃源郷って知っているかしら、リルケ」
アーシアは語りだす。自分の知る桃源郷の物語を……。
リルケはアーシアの部屋で会議を続け、リルケの邪魔をしたくはないカナリアは部屋の前でじっと座っている。
だが、個人個人に事情がある。
その部屋の住人も同じ。
一人になればなるほど不安が押し寄せ、同時に成すべきことに対する気持ちも強くなる。そして、出てきた結論は、
「やっぱり、あの人達と一緒にいくことはできない」
だった。
荷物はそのままだったために、それをまとめる必要はない。それを持つだけだ。
大きく息を吸い込んだリアは、部屋の扉を開け、そのまま静かに部屋を出て行くが、顔を出したところでカナリアと目があってしまった。
「……あっ……」
リルケやアーシアが扉の前にいるかもしれないと思ってはいても、カナリアがそこにいることは想定外。
小声ではあるが思わず声を上げたリアに対し、座っていたカナリアは立ち上がる。
「お出かけですか?」
「え、えぇ、まぁ……。他の二人は……」
「会議中です」
「あなたは?」
「邪魔しちゃいけないと思って。でも、出かけるなら呼んできますね」
「いいえ、結構よ」
リアは逃げるように、そして、無駄だと思いながらも足音を立てずに廊下を進む。カナリアがそれを伝えればすぐに捕まると思っていたが、エレベーターまでいけばなんとか逃げ切れるかもしれないと思った。
が、リアの予想は裏切られる。
カナリアは、リルケ達の部屋に入ることなく、リアの後についてきたのだ。
「な、なんでついてくるの……」
「どうせ外にいくなら一緒に街でも回りませんか? 日本じゃ夜中にもお店やっているところが多いみたいですし」
「で、でも……」
「さっ、いきましょう。あたし、いきたいところがあるんです」
半ば強引に、リアはカナリアと共にエレベーターに乗り込み、何事もなくその扉が閉められる。
「一ついいたいんだがな」
「なんだ?」
「どうして、こんな大量に土産を買わねぇといけねぇんだ?」
「そりゃ、美味いものを食いたいからだろ?」
「宅配で相当送ったはずだぞ。まだ買うのか?」
「高級店は深夜までやっているからな。そこのケーキ屋で最後にしておいてやるよ」
「結構なこった。で、場所はどこだ?」
「そこの角を曲がって、少しいったところだ。右見て歩けばわかるだろうさ。まぁ、鬼龍、楽しんでこい」
「買い物を楽しむような趣味はねぇよ」
そこで電話が切れる。
空港から街に出た鬼龍は、午後になってからの連絡で土産物を大量に買わされる羽目になっていた。行列のできる店が大半で、結果、鬼龍も並ぶ羽目になり、その半数は結局買えず、次の店に移動する……ということを繰り返した結果、深夜になっても街を練り歩いている。
「さて……と、ここが最後だな」
ガラス張りの店内には確かにケーキらしきものが並べられている。深夜だというのに営業しているのだが、そういう店を利用する人間も多いということだ。そして、往々にして、そういう店を利用する人間は金持ちが多く、だからこそ、値段も高い。
店内には数人の客がいるようだが、鬼龍は気にせず中に入る。が、入ったところで、気付いた。
「お金……持ってないんですか……?」
「……まだ、換金してなくて……。カードならあるんですけど、使えるのかわからないし……」
「換金ってどこですればいいんですかね」
「銀行……? 空港にあるのは知っていたんですけど、ガイドさんに任せればいいと思って……。でも、ガイドがああいう人達だってわかってから、するチャンスが……」
「美味しそうですけど……」
「でも、お金ないですし……」
リアはすまなそうにいうのだが、カナリアは文無しで文句をいう資格はそもそもない。さらにこの手の店ならばカードも使用できるだろうが、そもそも買い物を一人でしたことがない。それに加えて、この時間に店を訪れる二人の少女、しかも外国人ということもあり、店員の視線もちらりちらりと二人に向けられている。それに耐え切れるような図太い神経をリアは持ち合わせていない。
「換金できる金があるなら、貸してやらないことはないぞ」
突然話しかけられたリアはビクっと身体を奮わせるが、カナリアは自然に振り返る。
「あっ、あなた……空港で……」
「覚えていたか、結構なことだ」
「特徴がありましたから」
リアが自分の目を指差す。
「なるほど、目はいいようだな。日差しがあるときにはあまり気付かれないんだが……」
「カッコいいと思いますよ」
「別にカッコいいとも悪いとも思っていない」
鬼龍は淡々と言葉を返す。
カナリアは二人の意味不明な会話の意味を探っていたが自分よりも身長の高い鬼龍を眺めていると、その意に気付く。
鬼龍の瞳だ。
その瞳は、確かに特徴がある。
何しろ、赤い輝きがそこにはあるのだから……。
「赤い瞳?」
リアが小さく呟く。
だが、鬼龍はそれに構わない。いちいち構っていられないからだ。
「で、どうする? 返せるなら貸してもいいぞ。こっちは換金の方法ぐらい知っているからな」
「じゃあ、貸してください」
カナリアは躊躇しない。
カナリアと鬼龍は空港で目を合わせただけだ。しかし、鬼龍としてもカナリアは印象深い存在だったし、カナリアも同じ。しかも、その日に再開したのだから多少は縁があると思ってもおかしくはないだろう。
が、それでも見知らぬ他人だ。
「金は貸してやるが、お前……、もう少し世間の常識を持て。世の中、善人ばかりじゃねぇぞ」
「知ってますけど、見知らぬ他人にどうこうするような人には見えませんし」
「なぜ、そう思う?」
「リルケさんに、少し似てますよ」
「リルケ? 誰だ……、嫌、空港にいた奴か。車に乗っていたほうだな……」
あのときの集団で男は一人だけだ。
が、鬼龍はリルケがどういう人物か知らないので自然受け入れたのだが、知っていれば拒絶したに違いない。
「じゃあ、これが日本円だ。ドルか、お前」
「はい……」
リアは先ほどから様子がおかしい。だが、提示された金額をそのまま鬼龍に渡す。
鬼龍もリアとカナリアも好みのケーキを買い、店を出たのだが、鬼龍としては、二人を放置するのも気が引ける。
他の国に比べて治安がいいとはいえ、それでも深夜の街を二人の少女だけで歩かせるのは危険が大きすぎる。さらに鬼龍も、全ての土産を買い揃えたために用事もすんだ。後は帰るだけだが、帰宅先は歩いて帰れる場所にはない。
「お前ら、ホテルか?」
「はい」
しばらく考えていたのだが、出てきた結論は最初から決まっているようなものだった。
「送っていってやるよ。こんな時間にお前達二人だけってのは、どうにもな」
「そうですか?」
自覚しているのかしていないのかわからないが、二人は外国人で容姿もいい、さらに少女だ。目立たないわけもないし、暇を持て余しているような連中にとっては声をかけないはずがない。
縁があるといってもおかしくない以上、ホテル程度は連れて行く価値はあるだろう。
「で? お前ら何しにこんな島国にきた? 観光か?」
「リアさんが、日本に用事があって、それでリルケさんとアーシアさんが護衛。あたしはリルケさんに引っ付いてきただけです」
自分が引っ付いてきたことをカナリアは認める。決して、リルケが連れてきたわけではない。
「護衛? なんだ、金持ちのお嬢様か。そういや、財布の中にびっしり金が入っていたな」
鬼龍は嫌味として、そんなことをいってみたのだがリアは返答しない。緊張しているわけでも、人見知りしているわけでもない。心ここにあらずといった感じだ。
とはいえ、そこまで気をつかう関係ではないので、鬼龍の会話先はカナリアに固定する。
「お嬢様の用事ねぇ。まさか、どこぞの企業の人間で商談をしにきたってわけじゃねぇだろうな」
「多分、違います。リアさんはですね、万能薬に関する何かをどうにかするためにここにきたんです」
「……え?」
声を上げたのはリアだ。
耳を疑う言葉がカナリアから出た。
万能薬のことをなぜに他人に、こんなに簡単にいってしまうのだ。
「ちょ、あのカナリアさん?」
「はい?」
リアがカナリアを諫めようとするが、あまり深い関係ではないし、カナリアは笑んでいるので、なかなかそれもできない。
が、今度は鬼龍の様子が変化する。
「万能薬? はっ……」
鬼龍はわずかに首を振る。
「そういえば、お前名前は? 俺は鬼龍っていうんだが……」
「あたしはカナリアです」
「……あたし……は、リア……、リア・ドレファス……です」
「リア・ドレファス……ドレファス……だぁ? ……ちっ……」
鬼龍が小さく舌打をする。しながら、視線が宙を舞う。
「なるほどね、ドレファスの人間が万能薬のために日本にきたってか……」
からかうような口調だが、それに続くように鬼龍は小さく呟く。
「そりゃ、気付かれるのも当然だ……」
その呟きはリアにもカナリアにも聞こえない。
だが、次の言葉は届く。
「万能薬……か。万能薬ってのは、桃源郷とやらにあった泉の水のことだ。不老長寿、不老不死に繋がるものだな……」
それにカナリアはわずかに驚き、リアはその数倍の驚きを表情に出す。
「なんで、それを……」
「さぁね」
鬼龍は笑むが、それが何かを隠している笑みであることなどリアにもわかる。同時に、いかに問い詰めるかを考えるが、自分にそれができる自信はない。
双方の気持ちを知っているのかいないのか、カナリアは話しを変えた。
「鬼龍さんは、日本の方ですか?」
話しが変わったこと……というよりも、話しの対象がカナリアに変化したため、鬼龍は一旦、リアを放置する。
「日本生まれじゃないが長いこと日本にいるな。故国と日本を行ったりきたりで、ここ数年は故国をさまよい歩いていたな。ただ、どちらかといえば、日本にいる時間のほうが長いな。そういえば、戸籍も日本だ」
「そんなに若いのに? あたしやリアさんと大して代わらないように見えるんですけど……」
「そうか? 実際は結構な年寄りなんで身体にガタがきてる」
冗談であるのか、冗談ではないのか、図りかねる。が、カナリアはそれ以上の言葉を積み重ねる人間を知っているのでまったく意に介さない。とはいえ、カナリアの対処法は無視……という簡潔なものなので突っ込むということはしない。
「しかし、お前ら日本語が上手いな。すらすら喋りやがる。誰から教わった?」
「……あたしはお祖父さまから」
リアがはっきりと言い放つ。が、鬼龍はそれには関心をもたない。一方のカナリアは、特殊な方法で日本語を学んでいた。
「あたしはアニメからです。リルケさんの家には、いろいろあるんですよ。映画もアニメも音楽も」
「そういう趣味の男か。にしても、そういう動機で勉強する奴もいるって聞くが、初めてみたな」
「日本のアニメは面白いですよ。鬼龍さん、アニメは?」
「悪いが知らん」
「映画は?」
「それは知っている。これでも映画は趣味みたいなもんだ」
「じゃあ、音楽は?」
「それは知らん」
「あたし、歌が好きなんです。歌うのも、聞くのも。日本の音楽も知っているんですよ」
「ほう。だが、映画ならまだしも音楽じゃ話し相手にはなれないな。TVをみてりゃ音楽は耳に入る。だから、聞いたことのある音楽だってことはわかるだろうが、細かいことはさすがにな」
「日本って、カラオケあるんですよね」
「あ?」
わずかに会話の内容がずれていることに鬼龍は気付いた。
「カラオケね。まぁ、いたるところにあるな。全盛期に比べて少なくなったとはいえ、消えてもいない」
「あたし、いきたいです」
「は?」
「あたしもリアさんも、リルケさんもアーシアさんも、パスポートはあるんです。でも、パスポートで会員証って作れるのかわからないし、店の人も嫌がると思うんですよ。だから、日本在住の鬼龍さんに会員証を作ってもらって、カラオケで歌いたいです」
滅茶苦茶な女だ。
鬼龍のカナリアに対する印象が、がらりと変わる。
同時に、それはリアも同様だ。しかし、リアはリルケのことを知っているので違う印象を持つ。
あぁ、やっぱりこの人はリルケさんと一緒に住んでいるだけはあって、どこかおかしい……。
「ちょっと待て、なぜ俺がそこまでしないといけないんだ?」
「身分証ないんですか?」
「……嫌、ある……確かにあることはあるが……」
「じゃあ、問題ないですね。えっと、カラオケのお店ってどこにあるんでしょう。連れて行ってください」
「おい」
がっしりと手が握られた。
もしかして、えらい奴に捕まったのか?
そう思い至る鬼龍だが、ここで逃げても意味はない。虎穴に入らずんば虎児を得ず……というものだ。
仕方なく鬼龍は、カナリア、リアと共にカラオケ屋にいくことにした。
耳を済ませて思うのは、とんでもない奴だ……ということだ。鬼龍もリアもカナリアの歌う歌が誰のものなのかわからない。が、その上手さだけは素人の二人にもよくわかった。部屋の空気全てを震わせるような声は、鬼龍やリアの肌を逆立たせるほどの力がある。
「すごい……ですね、カナリアさん」
一曲一曲、歌い終わるたびにリアは同じことを呟く。鬼龍とて同じだが、自制しているだけにすぎない。
「ありがとうございます。こういうシステムで歌うのって初めてで楽しいです」
「いつもはどんなところで歌うんだ?」
「原っぱです。目の前は海、辺りは草原、少しいけば森ですね。手の空いた村の人がときどき聞きにきてくれるんです」
「もっと多くの人の前で歌えばいいじゃないですか。あたしは歌のことってわからないけど、有名な歌手の人にも引けをとりませんよ」
「そうですか? でも、いいんです。多くの人の前で歌うのは好きじゃないから」
「もったいねぇな。歌姫になれそうなのによ」
「歌姫にはあまり興味ないですし、いいんです。歌うことができれば」
カナリアは笑む。
自分が好きに歌を歌ったことで何を失ったのか。それを覚えていても、カナリアは笑みを浮かべる。
泣いて帰ってくるようなものではない。
それを知っているから。
ならばせめて、そこにいる二人のもとに歌が届くように声を響かせるだけだ。
「あっ、あたしちょっと厠に行ってきますね」
選曲していた中、突然カナリアはそういうと立ちあがる。
「いまどき、厠なんて言葉はほとんど誰もつかわねぇぞ」
「じゃあ、なんていうんですか?」
「便所でいいだろ」
「じゃあ、便所にいってきます」
間違った言葉を教え、間違った言葉をそのまま使ったカナリアは、そのまま部屋を出て行く。
三人から一人が減れば二人になる。それはつまり、この部屋の中には鬼龍とリアの二人だけになったということだ。
リアからすれば、待っていた瞬間ともいえる。だが、待っていたからこそ、逆に緊張で話し出せないでいた。
「お前は歌わないのか?」
「あたしはあまり……。日本語で歌えるほど上手くもないし……」
「お前の母国の歌もあるはずだぞ」
「そういう意味じゃ……」
そこでリアは意を決して尋ねる。
「あなたは誰なんですか?」
「鬼龍」
「……名前は知っています」
「それ以外に何を聞く」
鬼龍は何か知っている。だが、確信はないし、そもそもありえない。それでも、リアにとって鬼龍の赤い瞳は無視できない。
「あなたの赤い瞳。赤い瞳の人って多くはないですよね……」
「赤い瞳はメラニン色素の異常だ。うさぎのようにな。明るい場所だとそうとは気付かれないが、夜になると結構目立つ。まぁ、病気のようなものだ」
「あなたは病気には見えない」
「そうかい? これでも重大な欠陥を抱えた重病人さ」
言葉は全て躱わされる。
それを打ち破るような話術がない以上、リアとしては、祖父の言葉を持ち出すしかない。
「お祖父さまがおっしゃっていました。赤い瞳をした少年に協力してもらったって……」
確信めいた言葉だったが、それでも鬼龍は動じない。
「そうかい。で、病人に何を手伝わせたんだ」
「……万能薬」
鬼龍とリアの視線が重なり合うが、そこで鬼龍は席を立つ。
「ちょっと、どこに」
「こんな深夜だ。タチの悪い奴も多いんだよ」
最初は何をいっているのかわからなかったが、すぐに気付いた。ここにはカナリアがいないのだ。温室育ちといえど、そこまで端的にいわれれば気付く。
リアは鬼龍からわずかに遅れて立ち上がる。
「可愛い顔してんな、外国人のお嬢ちゃん。ちぃと俺達と遊んでいかないか?」
「遠慮しておきます。一緒にきている人がいますし」
カナリアはトイレから少しいった先の廊下でガラの悪い青年達に囲まれていた。とはいえ、カナリア自身は怯えるふうもなく平然と対応している。
それでも囲まれているために逃げ出すことはできない。
「いいじゃねぇか。ツレも一緒でかまわねぇからよ。遊ぼうぜ。どうせ、こんな時間に遊んでいるんだ。相手探してたんだろ?」
「外国人ってのもなかなかそそるな」
「申し訳ないですけど、あなた達の相手はできませんよ」
「うるせぇな」
青年達の対応に変化が生じる。もともとそういう性質の人間なのだ。躊躇などするはずもない。
「おい、俺らの部屋に連れ込め。どうせ、誰もいねぇんだ」
青年達がカナリアに手を伸ばそうとするが、そこに別の声が重なる。
「悪いな、そいつは俺のツレなんだ。ついでにいえば、そいつの歌声は貴様らにはもったいない」
「なんだ、貴様……」
「鬼龍」
「は?」
それは言葉というよりも、空気が漏れたという感じだった。なぜなら、男の肺には鬼龍の重い拳が突き刺さったのだから。
空気とともに胃の中身が喉を通過し、口を通過し、床に零れ落ちる。
「て、てめえ!」
男達がいっせいに鬼龍に襲いかかろうとするが、それは不可解な形で頓挫することになる。
「あづう!」
「ぎゃ……」
男達が次々に地面に崩れる。それぞれがそれぞれ違う場所を押さえ、激しい痛みに耐えているように見える。
殴ったわけではない。
だが、鬼龍は確かに彼らに触れた。
直前に立っていたカナリアはそれを確認できたが、それ以上の何をしたのかなどわかるはずがない。
それでも事実は事実。
「ありがとうございます、鬼龍さん」
「大丈夫でしたか、カナリアさん」
カナリアが鬼龍に礼をいい、リアが駆けつけカナリアを心配する。だが、鬼龍は二人ではなく、廊下の先を見詰めていた。
「俺が助ける必要もなかったようだな……」
廊下の先には空になった缶コーヒーをごみ箱に捨てるリルケがおり、傍らにはアーシアの姿もある。冷や冷やしていたのか、わずかに青ざめた表情のアーシアは、苦しみもがく青年達を無視して、そのままリアのもとに駆け寄ってきた。
「カナリアさん……大丈夫? それとリアさんも」
「あたしに気を使わなくてもいいですよ。リアさんも無事ですし」
「……アーシアさん……」
リアとしてはいうべき言葉はない。ここで『ごめんなさい』という理由もリアにはない。そこまで信用しきっているわけではないのだ。
ただ、次のアーシアの言葉でわずかながら一歩を踏み出すことができる。
「……楽しかったですか、リアさん」
叱責ではなく、心配の押し付けでもない。
純粋にそれをいってくれたアーシアに、リアはわずかに笑みを浮かべる。
「はい。楽しかったです。今度、アーシアさんもカナリアさんの歌を聞いてください。すっごく、上手いんですよ」
「……カナリアさん?」
「いつでもお聞かせしますよ、アーシアさん。今は……無理だと思いますけど」
カナリアの視線の先には、騒ぎを聞きつけた店員がやってくる。
その対応をするのはアーシアしかいないわけだが、その前にアーシアには尋ねることがあった。目の前の見知らぬ少年だ。どういう経緯で知り合い、何者なのか、リアの身の安全を図る人間としては最低限それだけは確認しなければいけなかった。
「リアさん、この人は……」
「途中で知り合った人で……」
「知り合ったって……」
リアはわずかに顔をしかめる。ここで鬼龍を逃すわけにはいかない。かといって、一緒にいこうという勇気も覚悟もない。
「あなたのお名前は?」
いかにも年下らしい鬼龍にアーシアは戸惑う。
だが、戸惑いなどたわいものないものでしかない。
「俺か? 俺の名は鬼龍」
その名を聞いたアーシアの表情は目に見えるほどに変わっていく。まるで、悪夢でも見ているかのように……。
「鬼龍……? そんな……まさか…………でも、……ありえないことじゃ……」
アーシアはどうにかそこに立っているような状況だったが、彼女はすぐに自らの気力を振り絞る。
「詳しい話しを聞きたいですし、謝礼も差し上げますので、少し待っていてくださいませんか?」
すると、鬼龍は意外な言葉を告げてくる。
「必要ない。俺もお前達といくことにするからな。万能薬、面白い響きじゃないか」
リアは驚きこそすれ、それが望みだったために瞳に光が宿る。
一方のカナリアは声を弾ませた。
「いいんですか?」
「カラオケじゃないが、たまにはお前の歌を聞かせてくれ。長く生きてきたが、お前のような綺麗な歌声は始めて聞いたからな」
「鬼龍さんなら、いつでもいいですよ」
カナリアは駆けながらそう返答し、そのまま近寄ってくるリルケのすそを掴みあげる。
「リルケさん、ただいまです」
カナリアはいうが、リルケはいつものように無視する。
「リルケ……だったか。いつからいたんだ? 缶コーヒーが空になっていたが」
リルケと鬼龍は相手をじっと見詰める。
互いに常人とは無縁であることを双方共に認めているように。
だが、リルケはリルケだ。
「知っているか?」
「あ?」
「去年は天地がひっくり返って、月が太陽と交代するらしい」
「なるほど……、貴様は狂人か」
一瞬でそう判断した鬼龍だが、そこでカナリアの言葉を思い出す。
「俺はこんなのに似ているのか?」
視線の先にはリルケのすそを握るカナリアに注げられるが、その対象は強く頷いた。
「似ていますよ」
といいながら。
第四章 選択
規律に守られた二つの村。それがあたしの故郷。争いもなく、誰もが助け合い、生と死を静かに受け入れる村。
誰も立ち入ることもない高き山の深き森の中、長く長い間、あたし達は静かに暮らしていた。楽しい時には歌い、悲しいときには誰かの傍らで泣く。子供達は木々の狭間を駆け巡り、女は布を作り上げ、男は今日の獲物を探して森を歩く。
あたし達はあたし達だけの価値観のなかで生きていた。
あたし達はあたし達の世界でのみ生きてきた。
それが幸せであると信じていたし、それが定めであり、それが最善であったことを後に知る。
自分達がいかに不自然な存在であるのかを知る必要のない時間は長く続いてはいたけれど、それを許してくれるほど時の流れは優しくはなかった。
道に迷い、その場で朽ちようとしていた金髪、碧眼の青年。
花梨が彼を助けようと訴え、あたしはそれに協力した。そして、彼が村人に受け入れられたとき、歪が生まれる。
初めての外の世界の人間。彼をもてなし、外の世界が、自分達以外の人間がどんな生活をし、どんな生き方をしているのか、それを尋ね、彼は笑顔でそれに答えてくれた。
誰もそれが何を意味するのか知らなかった。いいえ、ただ一人、彼だけはその危険性を知っていた。
鬼龍。
彼だけは、その未来を見通していた。
「……変わるな……」
「何のこと?」
「この村は変わる。それが良いことなのか悪いことなのか。幸を呼ぶのか災厄を呼ぶのか、どちらに転ぶかは知らないがな……」
「あなたは外の世界を知っているから……。あたしは彼の言葉を聞いて外の世界を見てみたいと……そう思った。それがいけないこと?」
「好きにすればいいさ。俺はただ見守るだけだ」
彼は常にそうだった。
一歩引いたところであたし達を眺めるだけ。それ故に、彼はできるだけ村人との接触を控えていた。彼を知る村人は多かったけど、おそらく彼は、村人の一部しか顔を覚えてはいないのだろう。
何かを隠し、隠しているその何かのためにあたし達とは一線を引いた。だから、彼は花梨を受け入れなかった。花梨の思いを知ってはいても、花梨の願いを知ってはいても、花梨のために彼女を遠ざけた。
だけど……、花梨のためと思いながらも、それが本当に花梨のためだったのかなどわからない。鬼龍の傍らにいることを彼女は望んだだけ……それだけがあの子の幸せ。それを拒絶された果てに得るものが、本当に幸せなのかとあたしは思う。
花梨は死んだ。
だけど、死とは本当に不幸なのだろうか……。そんな単純なものなのだろうか。
ただ、少なくても、花梨の死は、花梨にとって不幸でしかなかった。でも、もし……、彼の傍らで死んだとすれば……、花梨は幸せだったのではないだろうか。少なくても彼女が望んだ場所での死は、望まぬ結果としての死よりははるかにマシだったに違いない。
あれから……再び長い月日が経ち、それでもなおあたしは生きている。外の世界はあたしにとって新鮮ではあっても、それでもなお故郷を思い浮かべる。自由を奪われ、意思を奪われた。それでもあたしだけが記憶を失うことなく、今となってもなお故郷を思うのだ。
桃源郷……外の世界からきた青年はあたし達の村をそう呼んだ。
だけど、それはもうない。
桃源郷は消えてなくなり、そこを故郷にする者達は大地をさ迷い、ついにはそれさえも奪われた。
「緑華、あたしはこの村が好き。それよりもっと鬼龍が大好き」
花のように笑う花梨はもういない。
失われた桃源郷の中、彼女は安らかに眠っているだろうか……。
「ローレ、おい、ローレ」
「……ぇ?」
「仮眠中悪かったな。だが、発見した」
「……リアを?」
「あぁ、無用心なことにな」
立体型の駐車場の奥、その車内にベルニッケが戻ってくる。仮眠中だったローレは、一度首を振ると無理やり頭を目覚めさせる。
「それで、どこに?」
「どこにも何も普通にホテルに泊まっていやがった。Mの指令どおりに上級ホテルを上から探したが、簡単に見付かった」
「男のほうは腕が経つようだけど、頭のほうは弱いらしいわね」
「らしいな。だが、護衛の人数が増えていたな。もっとも、護衛かどうかは定かじゃない」
ローレはわずかに首を傾げる。
「誰か合流したということ? それにしては早すぎるわね」
「さぁな、写真は取れたから見てみるといい」
ベルニッケが小型のデジカメをローレに渡し、それをローレが確認する。
「夜に撮った写真だが、よく見てみろ。そのガキ、赤い瞳をしてやがる」
「……そうね……」
「稀にいるらしいが珍しいことだ。もっとも反射か何かかもしれないがな。どのみち、護衛だろうと、援軍だろうと、ガキはガキだ」
「……それはどうかしら。あまり油断しないほうがいい」
「確かにな。とりあえず、Mに連絡しておいてくれ。俺はしばらく睡眠を取る」
「えぇ」
ベルニッケが椅子を倒し、ローレは車外に出た。
その手にはいまだにデジカメが握られ、そこから視線を外すことができない。
「そう……、あなたはそれに関わるということなのね……。あまり、嬉しい再開にはなりそうもないけど……」
ローレはそこからわずかに見える高層ビル群を眺めながら、懐かしい友との再会がどんなものになるのか想像していた……。
「さぁ、どうする! どうすればいい! タイタニックがひっくり返って、四四マグナム持ったサイボーグが隕石壊すために海水浴の客達に襲い掛かってるぞ!」
「タイタニックは沈没したがひっくり返ってねぇ。ひっくり返ったのは、ポセイドン・アドベンチャーの豪華客船であって、神父に先導されて脱出するんだ。四四マグナム持っているのはダーティハリーのキャラハン刑事で、隕石壊すのは、アルマゲドンやら、ディープインパクトだ。海水浴の客を襲ったのはジョーズだ。というか、てめえ、イタリア人のくせになぜにハリウッドの作品ばかり羅列しやがる」
「そうか、そうかい、そうなるか。なるほど、一匹狼のガンマンが、知恵遅れの娘を連れ歩き、靴をかっぱらって、橋の上からダイブでさよならの映画の話だな」
「…………滅茶苦茶で、中途半端じゃねぇか、てめえ。ガンマンはあれか? 荒野のガンマンか? あれは日本の黒沢の用心棒がもとネタの作品だろうがよ。知恵遅れの娘ってのは、もしかして、『道』のこといってんのか? 靴をかっぱらった映画なんかねぇんじゃねぇのか? いや、もしかして、靴磨きに、自転車泥棒のミックスか? どっちも悲惨な話じゃねぇか。俺のランキングじゃ、どっちも救いようのねぇ映画に入ってる作品だぞ、おい」
「あぁ、素晴らしきや、ドイツ映画!」
「ドイツ映画で知ってるのは、フリッツ・ラングやら程度で、他はよくしらねぇよ。ガリガリ博士はドイツだったか? そういや、バグダッド・カフェやベルリン 天使の詩もそうだったよな」
「がっかりだ。がっかりだ。なぜにうっとうしいのがそこにいる。あそこにいる。ここにいるんだ!」
「イカレ男の運転する車の助手席に座っているだけでもありがたいと思え、狂人」
鬼龍はリア達に同行することになったわけだが、先ほどから、傍目には理解できない会話が続いている。
あの狂人リルケの言葉にここまで付いてくる人間は珍しいのではないか……付き合いは短いが、リアもアーシアもそう感じていた。
「ほら、やっぱり似てるじゃないですか」
リア、アーシアと共に後部座席に座っているカナリアだけがにこやかに会話を聞いているのだが、それぞれに思うところはあるのだろう。
何よりも、鬼龍という存在自体が最大の問題でもあるのだ。リアにはリアで思い当たるフシがある。アーシアもアーシアで思い当たるフシがある。
が、鬼龍は延々リルケと話しこんでいるので、それを尋ねるタイミングがまったくない。狂人の会話に割り込む度胸は誰にもなかった。
「あぁ、明日聞いた話になる。嫌、三日後に聞いた話か、一年後に聞いた話しか、定かじゃない。しかし、これだけは断言できる。フリッツ・ラングはマブゼ博士だ」
「意味わからねぇよ。フリッツ・ラングが作った作品が、ドクトル・マブゼならわかる。続編もあったようだが俺はしらねぇ。ただ、あの男の作品は展開が速すぎるからな。まぁ、それも一つの味なんだろうが、飾窓の女は気にいらねぇな。ああいうオチは好きになれん」
「好きだった。嫌いだった。母だった、親父だった。ジジイだった。あぁ、俺はすごく記憶力がいい。だから、知らない。そうだ、親父だ。嫌いだった」
完全にわけのわからない言葉になった。
映画の話でもなんでもない。狂人の回想のようなものだ。
車を運転しているというのに、リルケの思考はミキサーでかき回したように滅茶苦茶になっている。
「おい、なんていっているのか、わかるか?」
そこで初めて鬼龍が援軍を要請する。
矛先は当然、カナリアだ。
「多分、リルケさんのお父さんが、その人の作品が好きだったっていっているんだと思いますよ」
「よくわかるな」
「なんとなくですよ」
「当たってるのか、おい」
鬼龍の言葉にリルケはシカトで返した。
「どういう対応だ、これは」
「多分、当たっているっていってるんじゃないですか?」
「喋ってないぞ」
「返答するのも面倒なんでしょう」
「……まぁ、どうでもいいけどな。こいつの親父が誰の作品が好きだろうと、なんであろうと、俺には関係ねぇし」
「はっはっは。ラッキーメンデルトリアリタン!」
リルケの叫びに、今度は鬼龍がシカトで返す。
というよりも、狂人に付き合うのは想像以上に疲れることを痛感したのだ。
「で、ドレファスのお嬢さん、行き先はどこになるのかな?」
そこで初めて鬼龍がリアに語りかける。
早朝に出発し、高速道路に乗ったはいいがリアは正確な場所をいまだに告げていない。単に県名だけを伝えただけだ。
鬼龍の言葉にリアはあえて言葉を投げかける。
「あなたは知っているんじゃないですか?」
「知らないね。あいつが何をしようと俺は気にしなかったしな」
「やっぱり、お祖父様のことを知っているんですね」
「そんなこといったか?」
「いったようなものです」
「そうかそうか。だから、なんだっていうんだ? 俺がお前のじじと知り合い? そんなわけがねぇだろう? 俺の姿を見てみろよ、お前とさほどかわらねぇ。じじいに見えるのか、俺が」
「……」
そう言い返されるとリアには反論の余地がない。鬼龍は明らかに怪しい。が、外見から見れば、祖父のいった少年とは到底重なるはずがない。
しかし、今度はそこでアーシアが言葉を重ねる。
「そういう可能性もなくはないんじゃないですか?」
「そういう可能性?」
「あなたがリアさんのお祖父様と知り合いだった可能性です」
「いったろ? 俺がそんなに長生きしているように見えるのか?」
「なら、あなたの年齢は?」
「一八歳だ。原付免許にはそうあるだろ? 公的機関の発行した身分証明書だぜ」
「その程度はどうとでもなるでしょう。特にあなたのような人間ならば」
「確信めいたことをいうよな。そのわりに、隠し事もあるようだ」
「隠し事なら、あなたのほうが遥かに多い」
「あぁ、そりゃもっともだ。俺には秘密がごまんとあるからな」
鬼龍は自分の存在を隠そうとはしない。単に、核心部分を語らないだけだ。しかし、その核心が確信に繋がらなければ、リアもアーシアもそれ以上踏み込めない。
それを知ってか知らずか、鬼龍は続ける。
「意味のないことをしている……ってことはわかっているか?」
「意味がない……?」
「あぁ、意味がない。こんなことをしても無駄だし、そもそもお前達が俺のことを知ってどうなるっていうんだ? 単なる興味本位でしかねぇ。お前達には何の利益もありゃしないし、俺にとっても利益はない」
「なら、なぜあなたは共にきたんです?」
「わざわざお前達を探していたわけもない。単に出会っちまったんだから、付き合うことにしただけだ。これといって、やることはないんでな」
「……あなたは一体、何者なんです?」
アーシアが静かに問う。
が、返答は変わらない。
「俺は鬼龍。それだけだ。少なくてもお前達にとってはそれで十分だろ?」
リアもアーシアもそれで収まりがつくわけもない。
だが、それ以上の言葉を投げかけるよりも先に、リルケが再び口を開いた。
「リルケ・シュターナーは問う。日本の高速ってのは、こういうものなのか……と」
問いの対象は鬼龍しかいない。
リアもリルケもアーシアもカナリアも、日本語には精通しているし、日本の文化もそれなりに知っている。が、日本の交通事情など知るはずもない。
「平日の昼間だからな。いっておくが、俺だって高速の事情なんぞさして知らんぞ。たいていは、電車やらだからな」
「……」
リルケの視線が横に流れる。ちょうど追い越し車線を大型のトラックが走り去っていくところだ。
渋滞しているわけではないし、他に車がいないわけでもない。目的地は東北地方であるが、メインの高速道路を使うのを避け、太平洋側の道を選んでいる。故に、多少交通量が少ないことを予想していたが、リルケの予想よりは多い。
道はほぼまっすぐだが、視界にはトラックが三台ほど、自家用車が五台ほどいる。後方も似たようなものだ。
「渋滞するときはこんなもんじゃないぜ。一〇キロ二〇キロは当たり前って奴だ。もっとも、俺の免許は原付免許なんでな、車を運転しながら渋滞を経験したわけじゃない」
「パーキングは?」
珍しくリルケが端的な言葉を、自己紹介を省いて尋ねてくる。
「看板があっただろう? 確かあのトンネルを抜けてしばらくすればあるだろうさ」
「……リルケ・シュターナーは確認するぜ。シートベルトはしてるよなってさ」
その言葉に車内の全員に緊張感が広がるが、実際、そんな暇はなかった。
リルケがアクセルを一気に踏み込む。
「他人の運転する暴走車に乗るのは、意外に怖いもんだよな」
鬼龍はいうのだが、その声は落ち着いている。後部座席の三人は戦々恐々だ。
アクセル全快。加速した車が一気に前方の車を追い抜く。が、今度は車内で悲鳴が上がる。突然の進路変更、さらに急ブレーキをかけたのだ。
全員の身体が前方に押し出され、真ん中に座っていたアーシアはシートベルトに腰を締め付けられ、両側の二人は前方の座席に頭を打ち付ける。
「ちょ、リルケ!」
腹部を押さえながらアーシアが訴えるが、リルケは無視。さらにアクセルを全開にする。
一方、目の前に突然現れ、急ブレーキをかけられた運転手は心臓が止まるような思いをしただろうが、鬼龍は冷静に観察していた。
「事故らなかったようで何よりだな。さすがにスピードは一気に落ちた。まぁ、高速で携帯片手に車を運転していたような奴がどうなろうと知ったことじゃないが。……ついでに、こっちのスピードに合わせるようにトラック一台、乗用車二台が迫ってきてるぞ」
鬼龍の言葉に返答はない。再び加速した車は、前方にいたもう一台の車に一気に追いつき、先ほどと同じように前方に割り込み、急ブレーキをかける。
「優しいことだな」
手を伸ばし、膝を立て、自分の身体を固定していた鬼龍が、リルケが何をしているのかを冷静に見極めた。
つまり、逃げ切ることを諦めたのではなく、止めたのだ。
後方だけではなく、先ほど追い抜いていったトラックもこちらに抜かれまいとスピードを上げている。リルケの無謀な運転によって今さっきの車も急速にスピードを落とし、リルケがもう一度加速したときには、無関係な車はそこから消えていた。
そして、リルケの乗る車がトンネルに差し掛かる。
「さて、てめえらも覚悟決めろよ」
鬼龍があっさりというが、リアやアーシアは無謀な運転による後遺症でそれどころではなかった。
前方を走っていたトラックが突然ドリフト気味にハンドルを切り、道を完全に塞ぐ。さらに後方を走っていたトラックも同じようにブレーキをかけ、前後を塞がれた。
「ドレファスのお嬢さんは大金背負っているからな。こういう真似もしてくるわけだ。相手はどうやらこっちを殺すつもりらしいからな、このまま中にいれば、車と一緒に炎上するぜ」
鬼龍がそういいながらドアを開き、同じようにリルケもドアを開く。その二人がそうしている以上、後部座席の三人もそれに続く以外にない。
「さて、前後を挟まれたな。絶体絶命って奴だ。しかも連中、きちんと銃を持っていやがる」
前方のトラックからは二人、さらにずいぶん先を走っていた車がいたのか、その影からも三人ほどの男が現れる。後方からも同じ。トラックから二人、乗用車から各三名の合計八人が現れる。全員銃を装備していた。
「やれやれ……。ここまで強引なことをするか。金額聞いてはいなかったが、相当な遺産だったようだな……。あの男も上手いぐあいに万能薬を使ったらしい」
言葉を挟みたかったリアだが、鬼龍は反対側にいるのでそうもいかない。
「……リルケ・シュターナーは指示するぜ。てめえらは固まってろ。バラけると邪魔で仕方ない」
「どこに? 後ろにも、前にも敵がいるのよ」
アーシアの訴えはもっともだったが、その返答は銃声だった。それが響くと同時に、前方にいた男達が二人倒れている。
「……リルケ・シュターナーは質問する。五人から二人引けば何人になる?」
「御託はいいから、さっさとゼロにしてこい」
鬼龍がカナリアを連れてリルケの傍らに移動する。それをしつつもドアは全て全開にし、できるだけ視界をさえぎる。
が、リルケが撃ったと同時に、相手も撃ち返し、鼓膜を突き破るような音が響き渡り始めた。リアが耳を塞ぎ、その場に屈む。アーシアは隠し持っていた護身用の銃で前方の敵に向かって放ち、カナリアは静かにそこに座す。
そして、リルケは銃を鬼龍に投げ渡し、そのまま車から離れた。
「あいつ、銃を持っているのか?」
ゴタゴタ続きだったために、リルケは満足に武装を整えることができなかった。故に、先ほどの銃も空港でリアを襲った男が持っていたものだ。
が、リルケをよく知っているカナリアが恐怖など微塵も感じていないように返答する。
「ナイフは持っていると思いますよ」
「なるほどね」
鬼龍もけん制として後方の敵に銃弾を放つが、視線はリルケに向けられる。確かにカナリアのいうようにリルケはナイフを持っていたようで、左右の手に小型のナイフが握られている。とはいえ、そのナイフは本当に小型のもので玩具と形容してもおかしくないほものだ。おそらく銃刀法違反にもならない。
前方の敵はすでに二人脱落している。それをしたのがリルケであるのは確認しているだろうから、どうしてもリルケに意識が向いてしまうのは無理がない。しかも、味方が反対側に大勢いるのだから、対象を殺すのはそちらに任せてしまってもいいという心理になるのも当然だ。
結果、前方からの攻撃はほぼなくなり、後方の敵にアーシアや鬼龍は集中できる。が、鬼龍の視線はリルケに向けられたまま、銃口だけが後方に向いている。
「曲芸みたいな動きをするな、あいつ。バランスが完璧だ。サル山ででも育ったのか?」
「村の人に聞いた話しじゃ、子供の頃はよく木の枝から木の枝に飛び移っていたみたいですよ。寝るときも枝の上。それで、時々落下して大怪我してたっていってました」
「猿だな、猿」
鬼龍はそう結論付けた。
それを否定する事実はない。現にリルケは側転、前転、バク転、体操選手のように飛び回り、たとえ片手でも全体重を軽く支えながら、ナイフを的確に投げ続ける。しかも、けん制ではなく確実な攻撃として、後方の敵に対してもナイフを投げつけているので、相手としてもリルケに気を配らなくてはいけない。
「あのナイフは特注だな。小型なのに標的に対してまっすぐに飛んでいやがる。それなりの重さがあるんだろうな。にしても、さっきから的を外さない。壁蹴り上げながら投げたナイフが相手の急所に刺さるってのは……正気な動きじゃねぇな。動きに関しても狂人か」
鬼龍の銃はすでに弾切れを起こしている。
そもそも銃の扱いなど鬼龍は慣れてもいないし、銃弾がどれだけ入っているかもわからない。なので、計算もなく撃っていたため、弾切れを簡単に起こし、ついには銃自体を相手に投げつける。
それでもリルケの的確な攻撃が相手の数を確実に減らしていく。さらにアーシアの銃弾はけん制にしかならないとしても、あらぬ方向から飛んでくるリルケにも気を払うことになった結果、相手はリアのもとになかなかたどり着けなかった。そこまでいけば、相手の技量も、武器の種類もわかってくる。
「相手は殺しのプロとはいっても、チンピラの延長線上にいる連中だな。地元のヤクザってとこか。武器も銃しかないし、撃ちなれていないから、距離があると的にも当たらない。なんとか、凌げそうだな」
もっとも、そう考えてこういう状況をリルケは選らんだのかもしれない。鬼龍はそう判断した。
逃げることもできただろう。リルケは追手に気付き、追手が何をしようとしているのかをいち早く気付いた。その時点でアクセル全開でいけば逃げられた可能性は高い。が、一〇〇パーセントとはいえず、そのわずかな可能性が現実になれば無関係の人間まで巻き添えにしてしまうかもしれない。
リルケやアーシアはいざ知らず、リアがそれを望むはずもない。だからこそ、危険を承知でこういう手段をとったのだ。
そう、あくまで危険を覚悟してのことだ。
リルケ一人ならまだしも、リア、アーシア、カナリアという足手まといがいる以上、確実にはほど遠い。
そして、それが現実になる。
その危険性を招いたのは、誰でもない鬼龍といえるだろう。嫌、鬼龍がいなければこういう状況にはなっていないのは確かだろうが、リルケにとっての不安材料は一つ。鬼龍の技量を彼が測りかねていたことにある。
相手からすれば銃撃戦を望んでいるわけではない。映画の撮影をしているわけでもない。単に、リアを速やかに殺し、そのまま逃亡するのが彼らの狙いであり、ここまでてこずることなど彼等は想像すらしていなかった。護衛がいることを想定していても、リルケという狂人がいることを想定するのは不可能に近い。
それでも、彼らにとっての最大の利点は、リアを殺害すればいいという一点につきる。どんな方法でもいいのだ。無論、死体の身元が確認できる状態で殺すのが最善だが、今の科学ならよほどでなければ身元の確認が不可能になることはない。
おそらく、その計画は入っていたのだろう。
それまでの不手際からは想像できないほどの手早さで、彼等はそれを実行に移した。
いってしまえば、特攻だ。
鉄砲玉といえる人間を自家用車に乗せ、そのままアクセル全開でリア達の車に突っ込んできたのだ。
リルケはそれに気付きはした。が、つかず放れずで対処してきたとはいえ、相手はリルケ一人が脅威であると判断し、全員が彼を狙ってくる。さすがのリルケといえど、その銃弾の雨の中、最大速力で駆けつけるのは不可能に近い。
「逃げろ!」
鬼龍はリルケの動きを観察し、アーシアは弾を込めなおしていた。いってしまえば、最悪のタイミングでの特攻。
リルケの叫びでそのまま逃げればよかったのだが、リルケをそこまで信頼していなかったのが仇となる。全員が何が起きたのか確認するという余計な行動を入れてしまった。
気付いたときには特攻機はすぐそこまで迫っている。
緊張と恐怖という硬直からいち早く脱したアーシアはリアの手を引こうとするが、リアの硬直した身体はそれでは動かない。カナリアとて同じだ。
全員が車の影に身を潜めたまま、せまりくる特攻機を瞳に宿すしかない中、リルケは迷わなかった。
銃弾の雨を避けながら、リルケは車のボンネットに一蹴りいれると、リアに飛び掛り、その身体を抱え、さらに今一度隠れていたドアを蹴り、後方に飛びのいたのだ。リルケにしかできない芸当といえるが、そのリルケでも一人が精一杯。
そして、彼が選んだのはリアだった。
「ちっ……狂人が……」
鬼龍は冷静に手をかざす。そして、自分の不手際と、リルケの選択の意味を瞬時に理解する。自分の傍らには逃げ遅れたアーシアとカナリア。リルケは、その二人を犠牲にすることを選んだのだ。しかし、二人は犠牲とはならない。
特攻機となった車は、リルケ達の乗る車に衝突する間際で突然爆発したのだ。
直接ぶつかることはなかったし、今まで壁としていたドアがあったために、その衝撃を直接受けることはない。それでも、衝撃は衝撃。直前での爆発は、その場にいた者達の意識を奪うのに十分だった。
「よくもまぁ、自分の同居人を見捨てる気になったもんだな」
鬼龍達はインター近くのホテルの一室にいた。爆発の直後、死んだことも確認せず、嫌、彼らからすれば成功したと思ったのかそのまま逃亡、鬼龍達はどうにか走ることだけはできた自分達の車でそのまま逃亡し、直後のインターで降り、このホテルにようやく落ち着くことになった。
無論、レンタカーは途中で放棄だ。
「カナリアさんは、頭に多少の裂傷を負っているわ。足のほうは軽度の火傷、もしかしたら折れているかもしれない」
アーシアがカナリアの傷の具合を口にする。それをしたアーシアも足や手に包帯を巻いている。最後の最後に鬼龍がかばってくれたおかげでその程度ですんだが、それがなければ、死んでいてもおかしくない。
その二人の前にいたリルケは、椅子に座ったまま缶コーヒーを口に流し込んでいる。
「この一杯がたまらない」
「そういう表現をコーヒーにはあまり使わない。まぁ、狂人だからな。カナリアも救わずにリアを選んだわけだ」
「……」
アーシアもわずかに意外ではあった。空気だ、存在しないだ、とにかくカナリアをそういう風に扱っていたが、リルケは最後にはカナリアを選ぶのではないかと思っていた。
が、リルケはリアを選んだのだ。
「自分を慕う女を見捨てた気分はどうだ?」
鬼龍が皮肉たっぷりに告げるが、リルケは飄々と答える。
「リルケ・シュターナーには意味がわからん。アーシアを救って、リアを見捨てろというのか? 俺とアーシアの仕事はリアの護衛だ。護衛の人間が対象を見捨てて自分の身を守るわけもない」
護衛の立場としてはまともな意見だ。アーシアとて、そういう状況になれば迷わずリアを選ぶし、自分の命とリアの命ならばリアをとる。でなければ、護衛などという言葉を口にするわけにもいかない。
が、問題はそこではない。
「心配もなしか。カナリアの傷は軽いもんじゃない。下手すりゃ骨折。頭にも傷が残るかもしれない」
「リルケ・シュターナーは首を傾げる。何のことだってな」
「ここにきてまでカナリアを無視か。たいした男だな。てめえは一体、どういう神経をしてやがる」
鬼龍がリルケの胸倉を掴み上げる。
こうなると、アーシアにはとめられない。腕力も何もかもが二人とは比べ物にならないほどに劣っているのだ。
が、わずかに意外だったのは、鬼龍の様子は本気のように見えることだ。リルケと同じように常に飄々として、こちらの言葉をはぐらかす。
そういう人間が、今は確かに頭に血を上らせている。
「カナリアはお前を慕っている。それに対するお前の態度がそれか? カナリアをなんだと思っていやがる」
「リルケ・シュターナーは再度問う。誰のことだってな」
瞬間のことで、アーシアには結果しかわからない。
鬼龍の拳がリルケの顔の真横を通り、壁に打ち付けられている。リルケが避けたのか、鬼龍がわざと外したのか、アーシアにはまるでわからない。
「……理解できんな。なんで、カナリアは貴様のような男の傍らにいる?」
「……」
リルケは顔色一つ変えずに手にしたままのコーヒーを口に運ぶ。それに苛立つ様子を見せた鬼龍だが、静かに壁を打ちつけた拳を自らのもとに引き戻した。
「一つ聞きたいんだがな、アーシア。なんで、カナリアがこいつと暮らしているんだ? なぜ引き離さない。なぜ連れてきた」
矛先が急に自分に向けられたために、アーシアはわずかに戸惑う。そもそも、そんな疑問はアーシアも共通して持っているのだ。
答えなどわかるはずがない。
空気のように扱われ、危険な仕事につれまわし、あげくに見捨てられる。
カナリアの気持ちなどわかるはずがない。
だが、それは当人には当たり前のことなのだ。
「理由は簡単ですよ」
隣の部屋で寝かされていたカナリアが、リアに支えられるような形でその部屋に入ってくる。その表情は笑み。沈痛な表情のリアとは対照的だ。
そこにカナリアが表れても、リルケは目を合わせることなどない。それに鬼龍もアーシアも気付き、ますますリルケに不信感を抱く。
「理由は簡単です。あたしがリルケさんの隣にいたいから。それだけです」
「だが、こいつはお前を見捨てた」
「だって、当然じゃないですか。リルケさんの仕事はリアさんの護衛です。リアさんを見捨てたら、仕事放棄じゃないですか」
「つまり、リルケにとって、お前はその程度の存在だってことだろ?」
辛らつな言葉にもカナリアは表情一つ、声色一つ変わらずに答える。
「あたしは空気のようなものですから。それに危険なことだってわかってついてきたんです」
「そもそもつれてきたのが間違いだ」
「それも仕方ないです。夜中に抜け出すリルケさんを見付けて無理やり車に乗り込んだのはあたしですもん」
カナリアの言葉に、鬼龍達はわずかに呆ける。
「つまり、勝手についてきたの?」
「はい。リルケさんが連れてきたわけじゃないです。あたしが寝巻き姿のままリルケさんを見つけて車に乗ったんです。そしたら、リルケさんは家に戻って、着替えとパスポートを持ってきてくれた。それで、ここまでこれたんです」
「それは連れてきたといわないのか?」
「……」
カナリアはそこで言葉を止める。
ただ、それは返答に困ったからではない。ただ、自分を表現する言葉を捜していただけにすぎない。
「……あたしはリルケさんの傍らにいたい。それがあたしの意思であり、幸せなんです。自分の心のままに生きていければ、それはきっと幸せなこと……。そして、リルケさんは、そんなあたしの心と行動を一度たりとも拒絶しなかった。自分の思いと行動を拒絶されることほど不幸なことはない。その思いを果たせたまま死ぬのならそれはきっと幸せなことだけど、それを果たせないまま死ぬのは寂しいことだと思うんです」
リアもアーシアもなぜにそこまでカナリアの心がリルケに向けられているのか理解できない。それでもわかるのは、カナリアの心は他人が思うよりもずっと芯の強いまっすぐなものだということだけだ。
だが、鬼龍はカナリアをじっと見詰める。
その言葉が彼にはあまりにも重かったからだ。
自分が成せなかったことを目の前の狂人は成している。自分がすればよかったことをリルケはしている。どうしても、それを否定できない自分がいる。
「リルケ・シュターナーは尋ねるぜ。どうでもいいことだが、鬼龍。お前は一体、何をしたんだってな」
車が衝突直前で爆発した。その直前には鬼龍は特攻機に対して手をかざしている。その間に鬼龍は何かをした。その狭間にあった窓ガラスはまるで溶かされたかのように変形もしていた。
何をしたのか、リルケはおおよそ推理できているが、それが現実である証拠などない。
しかし、鬼龍はそれには答えない。
ただ、過去の自分。嫌、正しい選択を選んでいるのかもしれないリルケを睨むとただ呟くだけだ。
「貴様はむかつくな……」
と。
リルケはただ笑むばかり。
そして、鬼龍はその部屋を出て行く。
「大事故といってもいいわりに、ニュースにはなっていないようね」
インター近くの駐車場にローレとベルニッケがいる。
リアの命を狙う者達とリア一行が派手にやりあったことはわかっているし、あくまでその後ではあるが、事故現場は目にしている。
が、ニュースにはなっていない。
「どの国でもタイミングというものがあるからな。時間は限られる。限られた時間に数多のニュースを流すわけだから、省かれただけかもしれない。何しろ、死者らしい死者は出ていないのだろう?」
「あたしに聞かれても困るわね、そんなこと。それにしても、相手も思い切った手を打ってくるわ」
「地元ということもあるのだろう。それに大金が転がりこむからな」
「大金……ね。何も生み出そうとしない。ただ奪うだけで大金が転がり込む……そんな馬鹿げた未来像を描いている人間というのは浅ましいものよ」
「なら、それをリアの義母にでもいってやればいい」
「いったところで、自分の正当性を醜く主張するだけよ。それよりもリア達の居場所は掴んでいるわけ?」
「それを俺に聞かれても困る」
ベルニッケは、ローレの言葉をわざと繰り返す。
確かに、ローレとベルニッケは行動を共にしている。仲間から目的地を聞かされているだけで、直接リア達を尾行しているわけではない。共にいる者同士、相手が知らないものを知っているわけがない。
さらに彼らのボスであるMから、当面は遠目からの追跡でいいと指示を受けているため、現在のところ彼等はただのドライブをしているだけに過ぎない。
「それにしても、慎重ね……Mも」
「そうだな。どうもリルケ・シュターナーという男は相当の腕らしいからな。グリュンも一瞬でやられている。俺達でなければ死んでいるところだ」
「そういえば、部外者の援軍を呼んだのよね。あなたは知っている?」
「それに関しては以前調べたことがある。確か、傭兵団らしい。Mの直接というよりも、間接的な知り合いらしいな。相当の腕前を誇るらしい。とにかく、そいつらを使って、リルケ・シュターナーをしとめる。もしくはリアから引き離すようだ」
「結果的に、その連中がリア達に追いつく時間を義母は作ったことになるのね」
「そういうことだな。なんにせよ、そいつらが失敗すれば俺達がそれをすればいい。問題は何も起こってはいない」
「……そうかもね」
車内での会話はそこで途切れ、そして、二人は静かに次の連絡を待つことにした。
「わかりません……」
「え?」
ホテルの一室。
リアはカナリアの水に濡らした包帯を代えながら呟いた。
「何がですか?」
カナリアはまるで何事もなかったかのように笑みで返す。が、実際はリアが何を問おうとしているのかわかっている。
ただ、同じところに行き着くだけにすぎないことを知っているだけだ。
「どうして、あの人と一緒にいるんですか? あの人、カナリアさんをぜんぜん心配しなかった……」
事故後、カナリアは意識を失っていた。軽い脳震盪を起こしていたためだ。だが、そのとき彼女を抱えあげたのは鬼龍であり、リルケではない。リルケはいち早くトラックを移動させ、車に乗り込むとそのまま発進させた。カナリアのことを一切尋ねることなく。
リアにはどうしてもわからない。
だが、それは当然だ。だから、カナリアはそれを語る。
「知っていますか、リアさん」
「何を……ですか?」
「リルケさんの家って、そんなに大きくはないんですよ。二人で過ごすには広いかもしれないけど、豪邸ってわけじゃない」
「はぁ……」
リアにはカナリアの意図がわからず、生返事をするだけだ。
「考えてみてください。そんな家の中に二人で生活しているんです。顔を合わせないはずもないでしょ。TVも一台しかないし」
「そうなんですか?」
そこに食いつくとはカナリアは思わなかった。確かにお嬢様なんだな、とカナリアは思うが、話を続ける。
「そんな家に二人しかいないんです。同居している相手を無視するって、実はとても大変なんですよ。話しかけても相槌を打たない。どんなに寝ぼけていても、どんなに酔っていても、ふいをついても挨拶を返さないんです。『あぁ』とか『うん』とか、人って反射的に返事をするのにそれもしない。いない人間だから、廊下ですれ違うこともできないんです。身体を避けたら、あたしがいることを認めちゃうじゃないですか。ドアをあけるときもあたしにぶつからない瞬間を狙うしかない。トイレも同じですしね」
「……それって……つまり、あの人っていつもカナリアさんに気を使っているってことですか?」
「そういうことになりますよね。服も本もアニメも映画も、雑誌を読んでいたあたしが、これいいなって興味を持つと、それがいつの間にか家にあるんです。日本語の勉強したいと思ったら、いつの間にか教材があるし、高いところの物を取ろうとすると、リルケさんがそれを取ってくれる。ただ、あたしに渡したりはしないですけどね」
それはとても大変なことなんじゃないだろうか……。
リアはそこで初めて思い至る。リアは祖父と生活していたが、祖父に何を送ろうか迷うときは多々あった。友人もいたが何に興味を持っていたのかわからないことが多々ある。それを知るためには、常に相手のことを注視していなければいけない。
漠然と無視していては到底そんなことはできない。ある意味、夫婦よりも、同棲している恋人同士よりも、家族同士よりも、よっぽど気を使ってカナリアと生活しているのだ。
そして、カナリアはそれに気付いている。リルケがどれだけ自分に気を払っているのかを……。
「そういえば、カナリアさんとカラオケにいったときも、リルケさんはそこにいました」
「多分、ずっといたと思いますよ。あたしはリルケさんの空気だから、接することはできないけど、リルケさんはあたしのことにずっと気を払っている。それって、すごく嬉しいことですよ」
……カナリアは笑むのだが、リアとしては今ひとつ首を傾げる。それでも、リルケがカナリアを邪険にしているわけでないのはよくわかった。
ただ、
「リルケさんって、やっぱり頭がおかしいです」
という結論は、より強くなるだけだ。
そして、カナリアはそれを否定しない。
ホテルの屋上に鬼龍はいた。
街中ではないためにネオンの光はわずかだが、逆に星はよく見える。
「鬼龍、事故のほうはこっちでどうにか押さえ込んでおいた。敵さんもリアとやらが死んだかどうか確認できない状況だ。時間は稼げるだろうさ」
「……恩着せがましくいうんじゃねぇよ。てめえだろ、仕組んだのは」
「俺は神様じゃないぞ。単に、お前の昔話を知っていた上で、リア・ドレファスがリア・ドレファスとして入国してきたんでな。出会ったら、面白いことになるかもと思っただけだ」
「あぁ、そうかい」
「なんだ、楽しそうじゃないな」
「まぁな。昔を思い出したよ」
「お前の昔はいつだかわからねぇよ」
「俺が外見上の年齢に近かったときさ」
「そりゃ昔だ」
「そのとき、俺がしていればよかったことを平然としている奴がいる……。まるで、お前は間違っていた……といわれているようでな……腹が立つ」
「そうかい」
「しかも、そいつは頭がイカレてるから、なおさら腹が立つ」
「まぁ、過去を振り返るのもたまにはいいだろうさ。何にせよ、もうしばらく楽しんでこい」
「そうさせてもらう。じゃあな」
「あぁ」
鬼龍はそこで携帯を切る。
「花梨……お前は俺の傍らにいることが幸せだったのか? たとえ、それで死んでもお前は幸せだったのか……?」
星を眺め見ながら鬼龍はそう呟くが、彼の右手には真っ赤に燃えるような宝玉が握られていた。
第五章 カナリア
世界は広く私の知らない世界が広がっている。それを想像するだけで私の胸の鼓動は激しくなる。子供の頃から冒険の日々を想像するのが私の日課だった。
だからこそ、成人したと同時に私は私のいる世界から飛び出した。それをすることが当然であったかのように。
海を渡り、大地を巡り、様々な世界を目にし、様々な人々を目にしてきた。だが、その場所は全ての世界と比べても異質だった……。世界では争いが絶えず、争いの種は数多転がっている。なのに、その村は一切の争いがなかった。
偶然だ。私がそこを見付けたのは偶然だった。嫌、奇跡といってもいいかもしれない。それは見付けたことではない。私が命を取り留めたことが奇跡だったのだ。
道に迷い、食料もつき、高山病にもかかっていた。ここで死ぬのが私の定めか……。冒険を繰り返してきた私は、自然それを受け入れていた。安全な冒険などあるはずがないのだから。
だが、私は生きていた。
「しぶといな。よくも生きている」
目覚めたと同時に聞こえてくるのは、その言葉。
「言葉は通じるか?」
「……」
言葉は出ないが私は頷く。綺麗な母国語ではなかったが、聞き取れないものでもない。
「そうか。言葉が通じて何よりだな。ほれ、水だ」
少年だろうか、彼は私の口元に水の染み込ませた麻布を当て、私はそこから水分を吸い込む。
「……ありがとう……」
搾り出すような言葉に少年は首を振る。
「助けたのは俺じゃない。花梨と緑華だ。礼ならそいつらにいってくれ。俺は何もしなかった。向かいいれるべきか、そのまま放置するべきか、俺は選択しなかった。が、村の連中はお前を向かいいれることを決めたようだ」
「……ここは?」
「存在しないはずの村さ。外の世界からの客なんぞ、お前が始めて。もちろん、外に自分達とは違う世界があるのは知っているが、村の大半の人間は出て行くつもりなどさらさらないからな」
少年は興味がないかのように答えるが、おそらくその少年は外の世界というものに慣れているのだろう。言葉が通じるのもそのために違いなかった。
私はこじんまりとした木の家で自らの身を癒した。私を救ってくれた花梨という少女と緑華という少女にも出会い、身体が動くようになった頃には、他の村の方々にも会うことができた。
彼等は私を歓迎してくれた。
そして、私は自分が知る限りの世界を彼らに伝える。
「ここには村が二つある。とはいえ、村には名がない。交流しているし、同じものを信仰している。あっちの村、こっちの村、自分の村、相手の村。二つしかないから、それで十分なんだろうな。もっとも、二つの村に住んでいるのは種族が微妙に違う」
私は異国の人間。私と村の人達の仲介は、最初に出会った少年が行ってくれ、結果、私と彼は行動を共にする機会が多くなる。
「種族?」
「一方は屍一族。一方は龍族」
「……変わった名前だな」
「あぁ、そうだな」
彼は私に理解できるように、訳した名を伝えてくれたためにその名の奇妙さに気付くことができた。だが、少し気になることがある。
彼が住んでいる場所は、双方の村から離れた場所にあるのだ。その疑問に気付いたか、彼は教えてくれた。
「俺は混血なんだ。だから、双方の血を受け継いでいる。交流は禁じていないが、あまり喜ばれることでもないんでな。混血の人間は村から少し離れたところに住んでいる。だから、村の連中とはあまり接触もないし、顔を知らない奴も実は多い。まぁ、差別というわけでもないから、大して気になるもんじゃない。ただ、区分けができなくなるのが面倒なだけだろう。もっとも、昔は禁じていたようだがな。そのうち、村が三つになるかもしれない……」
彼はいいながら笑みを浮かべている。それが嫌味でもなく、悪意からでもないことがわかるので、私はそういうものか……と思うに留まった。
その村は高い山の中腹にあり、しかも周囲は岩壁で囲まれている。そこを越え、山を下れば深い森が広がっているという地形のために、外からではこの場所は発見するのが難しい。現に私もここにこれほどの緑があるとは思わなかった。
その木々を縫うように私は彼の導きで、ある場所へと向かった。
「双方の村の長が許してくれたんでな。それを見せてやる」
そういうと彼は私を連れ添って森の中に入っていった。そこは獣道ではあるが道ができており、時折、村の人ともすれ違う。隠してあるわけではなさそうだが、やはり外界の人間には易々と見せられるようなものではないのだろう。逆に、私はそれを許してもらえる程度に信頼してもらっているということだ。
「何があるんだい?」
「別にたいしたものじゃない。少なくても、俺達にとってはな。……お前、少し違和感を覚えなかったか?」
「それは」
実は彼のいうように違和感を覚えていた。
双方の村に共通するが、この村には年功序列らしきものがない。嫌、ある程度はあるが、年老いた者が若者に対して礼儀を守って接している様子を度々目にしてきた。普通は若者が年老いた者に礼儀をもって接するし、比率からいっても若者が多いように感じる。何よりも俗物的と笑ってもらってもいいが、美男美女が多い。花梨や緑華も同じように可憐な容姿を得ていた。そもそも、緑華と彼は幼馴染というが、容姿的にいって鬼龍のほうが年下に見える。なのに、言葉遣いは対等だ。
「……不思議だろ? 少なくてもお前達にとっては……」
「……まぁね。花梨や緑華だけではなく、綺麗な子が多い。天国かと思ってしまうほどだよ」
「ふっ、そうか……。そら、見えてきた。あれがそうだ」
彼が指差した方向に目を向けるが、当初はそれが隠すようなものには見えなかった。要するに湧き水だ。岩壁から湧き水が流れ、それが泉に流れ込んでいる。その途上には合計で三段の階段状の水路があり、三段ごとに小さなくぼ地になっていて水が溜まっている。
確かに綺麗な場所とは思うが、それを隠す意図がわからない。
嫌、少なくてもそれを目前で見なかった場合の話だ。
「岩から流れる湧き水は、泉に溜まる。三段の水路を越えてな」
「……あれは……、なんだ?」
自分の目で見たものが信じられない。
三段階段のような水路、その真ん中のくぼ地にはそれが存在していた。
「あれが村の信仰だ。そして、あのくぼ地の水を飲むことができるのは、夏の祭事の時に選ばれた三人までと決められている。ただ、泉の水は自由だ。生活のために普通に使っている」
「……私は夢でも見ているのか?」
「嫌、現実だろうさ」
私の眼前には、それがある。圧倒的な存在感といえるものがそこにはある。それはまさに神が具現化したもののようにさえ思えた。
宝玉がそこにある。
燃えるように真っ赤な宝玉。嫌、燃えるようではない。間違いなく、手の平に乗る程度の大きさの宝玉は炎に包み込まれているのだ。どんなトリックを使っているのだろうか、嫌、トリックなどがあるようには見えない。
宝玉自身が炎を宿しているのだ。水の中にありながら、流されず、動かされず、炎も消されず、ただ、そこにある。
私は届かないことを知りつつ手を伸ばすが、彼は静かに告げてくる。
「下手に触れると火傷するぞ。あれは本当の炎だ。誰もあれに触れられる者はいないんだからな」
「誰も?」
「……あぁ、誰も」
彼の言葉のわずかな変化に、そのときの私は気付かなかった。ただ、その神秘的な様を呆然と眺めていただけだ。
「触れれば火傷。持ち逃げしようとしても、その時点で全身に火が回ってお陀仏だな。だから、あそこのくぼ地の水を汲むときは慎重にやるんだよ」
「……飲んでも平気なのかい?」
それには微妙な言葉が返ってくる。
「平気……ではないな。何しろ、不死になっちまうんだから。不老長寿といえばいいのか、不老不死といえばいいのか、わからないがな」
「…………なんて?」
私は耳を疑う。
「ようするに老化しなくなるってことだ。老化がなくなり、病気にもかからず、怪我では死なない。屍一族の特性として病気にかかりにくいというものがあり、龍族の特性として驚異的な治癒力がある。双方共に身体能力は優れている。おそらくは泉の水を飲んでいるからなんだろうが、不死になれるのは、宝玉を浸す水を飲んだ者だけだ。だから、村の人間はお前がいうように美男美女ぞろいで、若者が多いのさ。そういう奴が選ばれる。俺は一七の時に選ばれ、花梨は二三、緑華は二〇のときに泉の水を飲んだ」
「……そんなこと……」
「お前達の常識ではないだろう。だが、それが俺達の常識だ」
「それを信じろと?」
「どうでもいいさ。お前は外の世界を村の連中に教えた。だから、俺は長から命じられてこの村のことをお前に教えただけだ」
「……」
私はじっと宝玉を、泉を見詰めた。
「飲みたいか?」
「……」
彼は私をじっと見詰める。
「くぼ地の水はいつでも飲める。実際、無断でそれを飲んで、村を飛び出した奴もいるぐらいだ。俺達はそういう連中をわざわざ追うことはない。ただし、二度と村には近づかせないがな。村の人間は外の人間をさして知らない。外の連中にとってこれがどれほどの宝なのか知らない。無防備といえば無防備だろうな。もっとも、そんな眉唾を信じて、危険を承知でくる奴はいないがな。いたとしてもたいてい途中で死ぬ」
「だが、私は生きている……。ここにくるものが皆無とは……」
「お前は単純に運がよかっただけだ。花梨と緑華が下界に下りた俺を追って村を飛び出してな。そこでお前を見付けた。村の周辺とは到底いえない場所だ。一ヶ月歩いてもたどり着くかどうか」
「よく、生きていたな……私は……」
「おそらく、泉の水を飲ませたのがよかったんだろう。花梨は馬鹿だが、緑華は馬鹿じゃない。食料と水ぐらいは用意していたからな。それに身体能力はお前とは比べ物にならない。二人いれば一日で村にたどり着ける。お前らは岩や山を迂回するが、俺達は飛び越えるからな」
「ははっ、なるほどね……」
冗談にしか聞こえないようなことを彼はそうと知っていっている。
そして、彼はもう一度尋ねた。
「飲みたいか?」
と。
だが、私は首を振った。
「嫌、いい」
「どうしてだ?」
彼は試すように聞いてくるが、私は不老を得るわけにはいかない。私は私という人間を知っているから……。
「これでも、私には家族がいるんだよ。いずれは家族のために腰を落ち着けなければいけないと決めている。不老など得てしまえば、私は家族を省みずに冒険を続けてしまうだろう。私は冒険も好きだが、家族も大切なんだ」
「……そうか……。ならば、いつかこの村をもう一度訪れるといい。お前という存在が何を村に運んできたのか、お前はそれを見届ける権利があるからな」
「……そうだな。だが、そのとき私は老いているだろうが、君は変わらないのだろうな」
「あぁ、俺は変わらない」
彼は笑みを浮かべた。
私は彼の言葉には素直な思いしか込められていないと思っていた。
だが、彼は知っていたのだ。村の未来がどうなるのかを……。
言葉には深き意味、未来の姿が隠されていた。外界から遮断され、交流もなく、自らの価値観しか持たない彼ら。平和な日々をその価値観で保ってきたその村に、私は別の価値観を植えてしまったのだ。
それが何を意味するのかなど、私にはわからなかった。
そのときの私は自らが何をしたのか、どれほどの罪を背負ったのかわからなかったのだ……。
「そうだ。私はいずれここを去ることになる。だけど、ここのことを本に書きたいんだ。平和で神秘的なこの村のことをね……」
「何のために?」
彼はわかっているのに、それを尋ねる。下界を知る彼なら、その意味ぐらいわかるだろう。
「本を書いて、本を売れば、生活費が稼げるからさ」
「あざといことだ」
「人はあざといものさ。それで、どうだろう。許可してもらえるかな? もちろん、場所のことは書かない。道に迷ったことにして、帰りは目隠しでもされたってことにしておくさ」
「構わないだろう。好きにすればいい。それよりも、本になるとしたら俺も出てくるのか?」
「あぁ、もちろん」
「そうか。もう少しマシな名前にすればよかったな」
彼は薄く笑む。
だが、私は彼の名前は好きだった。
「君は鬼龍。いい名前じゃないか」
「そうか?」
「あぁ」
「それはいいが、本のタイトルはどうなる?」
「それは決めてあるさ。桃源郷。それが僕の描く物語の題名だ」
「桃源郷……か。そりゃ、いいタイトルだな」
「そういってくれると、嬉しいね」
私は宝玉をもう一度見やり、それを記憶に焼き付けると背を向ける。
「さぁ、行こうか鬼龍」
「あぁ」
私達はそこを去る。宝玉を目にしたのは、それが最後。それ以来、私はそれを目にすることはなかった。
なぜなら、それから一〇年後、再びそこを訪れた私の前には、焼け野原となった桃源郷が広がっていたのだから……。
私の名は冒険家ロベルト・タルティーニ。
平和なる桃源郷を滅ぼした男だ。
「カナリアの足はやはり骨折だろう。このままリアに同行するのは危険すぎるし、もし再び襲われれば自分の命だけでなく、リアの命まで危うくする」
「置いていくということ?」
「幸い、狙われているのはリアだからな。カナリアを置いていったところで危険が及ぶとは思えない。どのみち、火傷に加えての骨折だ。一度医者に見せないと話しにならない。昨日は気が張っていたが、やはり夜には熱が出たしな。最低でも痛み止めと車椅子でもなけりゃ同行させるわけにもいかない。このままじゃ、いくらなんでも邪魔すぎる」
「リルケは納得したわけ?」
「あれがどうこういうわけがない」
「……そうね、そうだったわね。……カナリアさんは付いてくるといっているわけ?」
「どうかな。医者に見せることは納得したが、それ以上の確認はしていない。あいつの命だ、あいつの好きにさせればいい」
「リルケのようなことをいうわね」
「昨日のことで懲りた。カナリアに何をいっても無駄だろ?」
ホテルの一室で鬼龍はアーシアと今後に関しての話を続けている。リアを交えても仕方ない会話であるために、彼女はカナリアと共に隣の部屋、リルケも護衛としてそこにいる。
彼等は車をなくした。怪我人も出た。目的地まで徒歩でいけるような距離でもないらしい。新たな車の手配と、怪我人の処置を考えなければいけないのだ。そして、そうなると、アーシアがそれを考えなければいけないが、鬼龍も共に考えてくれる結果となった。
「車の手配は?」
「借りてくるしかないでしょうね」
「この国に工作員はいないのか?」
「世界中にばらまけるほど私達の組織は大きくはないわ」
「リルケがいるのにか?」
「私達の主な仕事は暗殺、工作。常に少人数で動くことになっている。そのほうがいいから」
鬼龍はアーシアの表情と言葉からその裏を読み取る。つまり、少数精鋭という意味以上に、簡単に切り捨てられるという意味も含まれている。
「それに今回の仕事は、私が上層部に掛け合ったもの。協力や援軍は期待できない」
「万能薬は眉唾と判断したか。まぁ、懸命な判断だな」
その言葉は無視できるようなものではないし、鬼龍の表情をみれば、それがあえて口にしたものだとわかる。
ならば、それに乗らない理由はない。
「万能薬はないというの?」
「さて、どうだろうな」
「少なくてもあなたは万能薬が存在することを認めているわ」
「確かにそうなるな」
鬼龍は楽しんでいるようにしかみえない。自分だけが知る秘密と、それに踊らされるリアやアーシアを見て、どう判断し、どう行動するのかをまるで実験のように観察している。
それがわかっても進むしかない。
同時に、アーシアとて抱えているものがある。
「一つだけ、答えて欲しいわね」
「なんだ?」
「不老不死の人間は存在するの?」
「いないといったら?」
「……私の中には大嘘つきの血が流れていることになるわ」
そこで鬼龍は興味を持つ。つまり、鬼龍の知らない何かをアーシアが握っていることを示していた。
そして、今度は鬼龍が相手に乗る。
「ほう、お前は嘘つきの家系か。そりゃ、面白いな」
「えぇ、そうね。私の祖先の中には冒険家がいてね。一冊の本を書き記した。『桃源郷』という本をね」
「……」
鬼龍は自らの驚きを内にしまうが、それでも次なる言葉がすらりとは出てこない。今まで、リアやアーシアは何度となく今の鬼龍と同じ表情を作り続け、何度となくごまかされてきた。
が、アーシアはそれをしない。
「私の祖先の名前は、ロベルト・タルティーニ。冒険家よ」
「……なるほど……。だから、お前は俺の名前に反応し、リアにも興味を持ったか……。難儀なこったな。ずいぶん昔の祖先の言葉が真実か見極めようとしたわけだ」
「……それは違うわ。そういうものじゃない」
アーシアは表情を曇らせ、それ以上の言葉を放とうとはしなかった。祖先の言葉を証明するなどという単純なものではない。その無念さがアーシアの中に血となって受け継がれているのだ。
鬼龍はそれ以上アーシアに問おうとはしない。そんな空気ではないことを察したからでもあるが、彼自身がそれと向かいあう必要を感じなかったためでもある。
「先にカナリアを病院に運ぶための車を手配してくる。お前のレンタカーの手配はその後にしよう」
返事など期待していなかったために、鬼龍はいうべきことをいうと部屋を出て行き、今後のことをリア達に伝えに向かった。
「タクシーですか?」
「障害者用のタクシーがあるらしいからな。それにした。カナリアは歩けないからな。専用のタクシーだと車椅子がついているから、楽だろう。それに運転手もそういった人間相手になれている」
「そんなのもあるんですね」
「救急車でもいいんだが、昨日の怪我で今更呼ぶのもあれだしな」
鬼龍とリアはホテルの玄関口に立ち、カナリアを運ぶためのタクシーを待っている。アーシアにはレンタカーを借りてきてもらわないと困るが、ひとまず護衛をつけておいたほうがいいだろうということになり、人手の関係で後回しだ。
「カナリアさん一人でいかせるんですか?」
「嫌、俺がついていく。アーシアと一緒にな。その後、アーシアと共にレンタカーを借りる」
「カナリアさんは?」
「付いてきたいといえば連れて行くが、どうなろうと知らん」
「……」
リアの表情が険しくなるが、やはり鬼龍と同じ結論になる。どうにもならない……という結論だ。
「じゃあ、あたしはリルケさんと?」
「そういうことになるな。ホテルに缶詰だ。リルケにカナリアを連れていかせてもいいが、あの狂人、誰の前でもカナリアを空気と扱いそうでな。面倒を起こしたくないから、こういう配置になった。本来なら、カナリア一人でいかせてもいいんだがな。そうすれば、レンタカーを借りて病院に寄るころには診断も終っているだろうし、効率がいい。だが、ガキだからな……」
昨日のゴタゴタもあったし、それぞれの気持ちの整理もあった。さらに今後の方針も決めなければいけなかったので時間を相当ロスしている。あまりもたもたしていれば、こちらの場所も掴まれやすい。
なので、できるだけ効率のいい方法を選びたいのが鬼龍の考えだった。
目的のタクシーが到着後、運転手はその手の患者の扱いに慣れていたのか、移動もスムーズにすすみ、鬼龍やリルケが手を貸す必要はなかった。逆に邪魔になるぐらいで、二人は離れた場所からその様子を眺めている。
「カナリアさんのほうは乗り込んだみたいです。でもすごいですね、車椅子ごと持ち上げて、そのまま車内に入れるなんて……」
「あれは本来なら足腰弱った老人のためのものだがな。手が空いていたらしいから、きてくれたんだ。まっ、運がよかったな」
玄関で鬼龍とリアがその様子を眺め、リルケはその奥でホテル内にあった絵画をのんびり眺めている。
「さて、後はアーシアだが、何してんだ?」
鬼龍が背後を振り返ったとき、それが当然のように起こっていた。本来なら、ありえないことだ。
「え、あの、鬼龍さん……」
それはリアの戸惑うような声。
振り返った鬼龍はリルケがリアの傍らにいることに気付くが、同時にそれも視界に収めていた。
「おいおい、何してんだ、あの運転手……」
障害者用のタクシーがカナリアだけを乗せた状態で走り出したのだ。鬼龍とリルケが慌てて後を追おうとしたのだが、背後からその行動を遮るような声が響く。
「リルケ!」
そこに表れたのはアーシアだ。その手には携帯電話が握られている。おそらく繋がったままの携帯電話だ。
続いて、アーシアは告げてくる。
「何もしないで。あの運転手の人は一般人。危害を加えちゃ駄目」
どういうことか、鬼龍にもリルケにも判断しかねる。一般人がどうしてカナリアを連れていくのか、どんな理由があるのか。
しかし、アーシアは玄関から外に出てくると、その携帯電話のスピーカー機能をONにする。
「どういうことだ、アーシア」
「いいから」
音量が上げられ、その携帯電話から声が響いてくる。
「見事と褒めてくれるかな、リルケ・シュターナー」
「リルケ・シュターナーは尋ねるぜ。誰だ、貴様」
「忘れてしまったとは悲しいな。嫌、昔話などはどうでもいい。まずは安心して欲しい。カナリア嬢は今のところ無事だ。リルケ・シュターナー、君は素晴らしい存在だ。敵意や悪意に対して君は驚くほど敏感に反応する。だからこそ、君はまったくの無警戒だったわけだからな。あの運転手には悪意も害意もない。彼はただカナリア嬢に手紙を渡しただけだ」
「手紙だ?」
「あぁ、君が新しい護衛かい? リルケ・シュターナーとコンビを組むとは、君も相当な腕なのだろうな」
「御託はいい」
「なるほど、気は短いらしい。運転手に手紙を渡した方法は、まぁ、この際どうでもいいことだな。とにかく、カナリア嬢は自分の意思で、自分一人で私達のもとにくることを選んだ……ということだ」
「手紙の内容はなんだ?」
「単純なこと。『ご両親の遺体がどこに眠っているのか、教えてあげよう。知りたければ、国道沿いにある、Kホテル跡にこい』とまぁ、そういうものだな」
「両親の遺体?」
「知らなかったかね? 彼女の両親は彼女が幼い頃に彼女の目の前で惨殺されているのだよ。それ以来、彼女はとあるマフィアのボスに引き取られた。娘としてね。誰もが知っていたことだ。そのボスが彼女の両親を殺し、自分の物にしたことなど。そのボスは三年後にリルケに殺されたが、いまだにカナリア嬢は知らないのだよ、両親がどこに眠っているのか」
リアの表情が心痛なものになり、鬼龍も顔を曇らせながらアーシアを見る。だが、彼女とて事情は知らず、わずかに驚いている。
「娘ならば、両親がどこに眠っているかぐらい知りたいと願うのは当然のことだ」
「そりゃ、親切なことだ。だが、それは面と向かって教えて欲しいね」
「無駄なことだろう。目的がある」
「だろうな」
「そう、私の目的はリルケ・シュターナー。君との決着だよ。先ほどから一言も発しないということは、私が誰であるのか気付いた……ということでいいのだろう。そう、君にはわかっているはずだ。私がなぜこんな真似をしているのか。故に、要求しよう。カナリア嬢を返して欲しければ、リルケ・シュターナー。君一人でこの場所にくるんだ。Kホテルにな。こなければ、カナリア嬢は両親と同じ場所に眠ることになる」
そこで電話が切れ、一斉に同じ人間に視線を向けた。
「てめえをご要望だとよ」
「見ろよ。星空がこんなに綺麗だ。いつか星達は太陽を照らす月になることだろう」
「狂人。ふざけんなよ、おい。リアの護衛は俺一人でこなしてやる。お前はカナリアを助け出して、さっさと合流すればいい。それだけのことだ」
「リルケさん、カナリアさんのところにいってください。このままじゃ、カナリアさん、可愛そう過ぎます」
「……リアさんがそういっているし、いきなさいリルケ」
カナリアの過去を知ってしまったリアは当然、さらにアーシアもリアが望んだことならば……と自分を納得させ、鬼龍はリアを守りきる自信がある故にリルケに救出に向かうように要求する。
が、リルケはリルケだ。
「リルケ・シュターナーは首を傾げる。何をいっているのか、わからないってな」
全員が唇を噛む。
こんな事態になってもまだ、リルケはカナリアを空気扱いしている。
「いい加減にしろよ。てめえなら誰が相手だろうとどうとでもなるはずだ。時間もそうかからないだろう。そこにたどり着くまでに向こうがお前を狙うことはないだろうから、タクシーでいける。俺達はこれからレンタカーを借りにいくんだ。こっちも時間はかかる。行って戻ってきて合流。それだけの話だ。リアの護衛はその短時間程度俺一人で十分にこなせる。それとも、俺を信用できねぇか?」
「リルケ・シュターナーは知っている。お前が化け物だってことはな。が、それ以上は理解できない。行って戻って合流? 何のために?」
「カナリアさんのためです!」
リアが強くいうが、効き目などない。
「リルケ、いい加減にしなさい。鬼龍のいっているように、あなたがいなくてもリスクはそう上がらない。鬼龍がいなければ私も判断のしようがなかったけど、今はいる。時間をあげるから、カナリアさんを救出にいきなさい」
「エーデルワイスを知っているか? あれは俺が作曲したんだ」
「でたらめはいい」
鬼龍がさすがにリルケの胸倉を掴み上げる。
「いけといっている。あいつにはもうお前しかいないんだ。お前が見捨ててどうする」
「リルケ・シュターナーは困っているぜ。本当にお前ら何をいっているんだ? そんな奴はいない。幻聴、幻覚でも見てるんじゃないのか?」
「いい加減、カナリアを空気扱いするな」
鬼龍がさらに襟首を強く絞り込むが、効果はない。
が、そこでリアが突飛なことを告げてくる。
「リルケさん、大丈夫ですか?」
「……?」
全員がリアを見る。
言葉の意味がわからない。まるでリルケがうつったかのような物言いだ。
「リルケ・シュターナーは疑問いっぱいだ。俺は大丈夫に決まっているってな」
だが、リアは続ける。
「大丈夫なんですか? 本当に? 息苦しく(・・・・)ないですか?」
「…………?」
鬼龍がリルケの襟から手を放す。
そして、なるほど……と思い、内心笑い声をあげる。
「そうだぜ、リルケ。お前は苦しいはずだ」
「…………?」
遅れて、アーシアも気付いた。
「そうよ、リルケ。あまり急激な運動をしちゃ駄目よ」
「……?」
一人だけ、リルケだけがその意味に気付いていない。
三人とも薄々わかっている。リルケがカナリアを救出にいかないのは自分達がいるからだ……ということを。きっとリルケ一人だけなら、散歩という名目でカナリアを救出に向かうだろう。が、ここでそんな言い訳は存在しない。誰もがリルケがカナリアを救出に向かうとわかっている。
そんなわかりきったこと、リルケ・シュターナーという狂人がするはずがない。認めさせよう、いかせようとすればするほどリルケはそれを拒絶する。
困った人間だ。
しかし、リルケはカナリアを空気として扱っている。それに気付けば誘導もできる。
そして、最後の言葉を口にする。
「リルケさん、酸欠(・・)状態(・・)じゃないですか」
「そうよ、リルケ。苦しいはずよ」
「何しろ、お前の周りには空気(・・)が(・)ない(・・)」
「……!」
リルケが珍しく絶句する。
「お前の空気は国道沿いのKホテルにある。早くいかないと酸欠で死ぬぞ」
「ここで死んだら、護衛の役目もないんだし」
「早く、空気を取り戻してください」
「……リルケ・シュターナーはいっているぜ。覚えていろってな」
「それよりも先に礼をいえ、馬鹿野郎」
鬼龍の言葉に返答することもなく、短く嘆息しながらもリルケはそのまま走り出す。最初の一歩からトップギアに入れているかのような速さで、だ……。
おそらく途中でタクシーでも捕まえるつもりだろうが、そのまま目的地まで走るつもりじゃないだろうな……と思わせる全力疾走だ。
何にせよ、リルケはカナリアの救出に向かった。
「馬鹿だな、あいつは……」
「馬鹿ね」
「馬鹿ですね」
去り行くリルケの背を眺めながら、三人は深く深く息を吐いた。
狂人の扱いは難しい。
「そうか。リルケはそちらに任せてもいいということか」
「任せてもらおう。おそらくはこちらにくるはずだ」
Mと呼ばれる男は車内において、とある男と連絡を取り合っていた。景色が目まぐるしく変化していくが、それに気を取られることはない。ただ、脳裏だけは激しく巡り続ける。
「それにしても、リルケをよく引き離すことができたな」
「君にそういわれると嬉しいものだな。最も、君は彼のことをさして知らないか」
「それをいわれると悲しい気分になる。なんにしても、見事な手際だ。こちらに到着して即座に実行に移し、それが成功するというのだから。だが、早すぎると付け足してもいい」
「チャンスを物にしない手はない。我々の世界では即断即決が基本だよ。迷っていては、死人がでるだけだ」
「死人か」
「君には興味のないことか。まぁ、いいだろう。リルケ・シュターナーはリルケ・シュターナー以外の何者でもない。そちらはそちらの目当てを手に入れることだな」
「……そうさせて頂くよ、大佐」
Mはそこで電話を切る。
そして、運転席に座る女性に指示を出した。
「二つ目のインターで降りてくれ」
「……では、リア・ドレファスを?」
「あぁ、大佐のいう即断即決でいってみることにしよう。場所はこちらで見付ける」
「ローレ達に任せますか?」
「そうだな、彼らで十分だろう。グリュンは合流したな?」
「はい、昨夜合流した模様です。リア・ドレファスの居場所もある程度は把握しているようですので、見付け次第実行に移せるでしょう」
「手段を問う必要はない。たとえ目撃者がいようとも排除すればいいだけの話だ」
「はい」
女性の返事を待つこともなく、Mは携帯電話を手にローレ達に連絡をいれた。
国道沿いとはいえ、そこは山々に囲まれた場所。人気などなく、秘境という名目をつけてホテルを建設したような場所だ。かつては天然の温泉もあったようだが、設備もない今となればないも同然。
そんな捨てられたホテルの中にカナリアはいた。
「そこまで硬くなる必要もあるまい」
カナリアの眼前には、初老の男が自分と同じように車椅子に座っている。傷だらけの顔に失った片足。体格もよく威厳もあるように見える。
おそらくは元軍人なのだろう。
リルケに接してきたカナリアは、そんな印象を得た。何よりも、その記憶がそれを肯定している。ただ、自信はない。
「……あなた……知っています……」
「ほう……」
男の周囲には、リルケに勝るとも劣らない屈強な兵士達が集まっているが、二人の会話は耳に入っていないかのように周囲を警戒している。
男は胸ポケットからタバコを取り出すと、それに自ら火をつける。
「私を知っている……か」
「記憶力はあるほうらしいです」
カナリアは笑む。その笑みに男もまた笑んだ。しかし、その笑みの中身はまるで違うことを双方共に理解している。
「頭もいいらしいな。ほぼ独学だろうに、日本語も滑らかなものだ。他にはどんな言葉を使えるのだね?」
「英語にドイツ語……、後は使えるというものじゃないです」
「リルケと同じ言葉を使えるようになりたいか」
「よくわかるんですね」
「そうだな……。いくつかの面においては君以上に知っている。一つ教えてあげようか、カナリア嬢。リルケは複雑な血統を経ているということを君は知っているか?」
「……」
カナリアは沈黙で答える。
カナリアは自分のことをリルケに語るが、リルケはカナリアを空気として扱っているので自分のことを語らない。
語ればそれは独り言のようなもので、そんなことをしていれば本当の狂人だ。
「彼は数多の民族の血を引いている。彼の父方の祖父は日本人、父方の祖母はハンガリー人、母方の祖父はアフリカ系、母方の祖母はインド人。父親はドイツで育ち、母親はエジプトで育ち、リルケはイタリアで育った。また、彼は双方の祖父母達とイタリアに渡り、共に住んでいたため、それぞれの母国語を習得している。つまり、彼は、日本語、ハンガリー語など数多の言語を操ることができ、同時に、どこの国に行ってもそれなりにその土地になじむことができる」
「……よく知っているんですね」
「そうだな」
男は別段嬉しそうではない。だが、自嘲気味な笑みは浮かべる。
「あの男は傑作だよ。兵士としても、戦士としても、そして、殺し屋としてもな。狂人とされているが、ただの狂人があそこまで強くはなれん。他者からみれば無謀であり、死んでもおかしくないほど、嫌、死ななければいけないほど自分の身体を痛めつける。それも周囲に押し付けられたのではなく、自らの意志でそれをした。幼少の頃からそんなことを繰り返してきたからこそ、今のリルケがあるのだろう」
「少しは聞いたことはあります。六歳の頃にナイフ一本で木を切り倒したとか、投げたナイフで枝を切り落としたとか……」
「そうだな。冗談のような話だが、どうやら事実らしい。ただ、それは途方もない労力の結果だ。一週間、一ヶ月、どれほど時間を費やしたかわからん。その間、あれはきっとほぼ不眠不休でそれをしたに違いなかろう。傍から見れば、自殺願望があるようにしか見えなかっただろうな」
「……そんなものはないです」
「あくまで他人の視点だよ。……君はリルケがマフィアに属していたことを知っているかね?」
「……噂は聞いてます」
「そうか。確かにあれはマフィアに属していた。本来ならば売人や運び屋、もしくは単なる捨て駒とされるべき子供だ。だが、リルケは当時から常人離れした身体能力を有していてね。実は、君ぐらいの歳にはマフィアの世界で殺しを主に受け持っていたのだよ。相手が子供ならば油断もするだろう。それもあってリルケはマフィアの中でも一目おかれる存在になっていた。だが、同時に危険視される。当時から彼は狂人とされてきたからな。今は有益だが、このまま成長すれば危険な存在になる。そう思ったのだろう。その組織はリルケを殺害しようとした」
「……」
「が、リルケは生きている。つまり彼は殺されなかった。ならば、リルケはどうやって生き延びたのか……わかるかね?」
答えなどカナリアにはわかっている。
リルケが狂人と呼ばれるのもわかるが、同時に、リルケが常軌を逸した身体能力を有していることも知っている。自分がリルケと出会ったとき、リルケはまだ二〇代の前半だったのだ。
にも関わらず、あの動きができた。
「返り討ちにしたんじゃないですか?」
「その通り。まだ一五歳にもなっていなかった子供が、自分を殺しにきた殺し屋を逆に殺した。悪意や敵意に彼は非常に敏感だ。天才的なほどにな。木の枝から枝に飛び回り、ナイフで木の枝を切り落とす。意味をもって、意志をもって、目的と目標を持ちながらその一つ一つの動きを全て経験へと変えていく。それがリルケ・シュターナーであり、当時の彼はすでにそれを実践で使えるほどに成長していた。結果、彼は組織の長までを手にかけ、それが原因で組織は潰れた」
「……リルケさんがやりそうなことですね」
カナリアは笑う。
当時のリルケを想像して。
だが、ふとその表情を消した。
「なぜ、あなたがそんなことをあたしに語るんですか?」
笑みが消え、男は自分の思惑が見透かされていることを察する。それでも、それを口にした。
「せめてもの償い……とでもいうべきかもしれないな」
「……あなたを覚えています。あなたは父や母の知り合いだった。そして、あの男の知り合いでもあった……」
「……」
男は沈黙する。
「リルケさんに救出されてしばらくした時、ある人があたしの元を訪れたことがありました。リルケさんはそのとき仕事に出ていて、あたしは一人だった。その人はいいましたよ。『君を保護しにきた。しかるべき処置をして、君に普通の生活を送らせてあげよう』と。リルケさんの上司の方だといっていましたけど、あたしは覚えています。あなたとその人は、二人で父と母の前に現れ、二人であの男の前に現れた。笑顔で父と母と談笑し、笑顔であの男と談笑していた。あたしの前で……」
「……」
男は再び沈黙する。だが、目をそらすことはない。
「そういう人は多かった。いっぱいいましたよ。父と母の知り合いで、あの男の知り合い。警察の人もいましたよね。あなたのように軍服を纏った人もいた。背広姿の人も、若い人も、女の人も、老人も、子供も、あたしのことを知っていた人は大勢いた」
抑制のない声で静々と語られる。
だが、その胸の内など、当人にしかわからないほどの怒りで埋め尽くされている。
「みんなが知っていた。あなたも知っていた。父と母を殺したのがあの男であることを。その男にあたしは無理やり引き取られた。誰もが知っていたのに、誰もあたしを救ってはくれなかった」
「……」
男はわずかに息を吐く。それでも瞳はそらさない。たとえ、カナリアに気後れしていようとも……。そらすわけにはいかなかった。
「あの男の下にいた三年間。あたしがどんな生活を送ってきたのか……知りたいですか?」
辛らつともいえる言葉だが、それを口にさせてしまったのは自分を含めた権力者達なのだ。
カナリアの父は商才のある人物で一代で財を成し、母は由緒ある家柄だったが優しい女性だった。誰もが二人が結ばれたことを喜び、誰もが生まれ出でた子の幸せを信じた。だが、そのマフィアの力は絶大で、誰もがその存在を無視できなかった。そして、その男は組織のドンであり、誰もがその顔色を伺わざるを得ないほどの影響力を誇っていた。
そして、男は音楽を愛した。オペラを愛した。歌声を愛した。
そこに表れたカナリアは、その男にとっての女神に等しかったのだろう。カナリアを引き取りたいとカナリアの両親に訴えたが、それを両親は当然のように拒絶。拒絶した結果、カナリアの両親はカナリアの目の前で殺され、そして、カナリアはその男に引き取られた。実の娘として……。
そんな馬鹿げた行為を男は成し遂げ、そして、誰もがその男の行為を止めることはなかったのだ。
多くの者がカナリアを知っていた。
知っていたにも関わらず、その男にどのように扱われ、どのような生活を送っていたのかを知っていたにも関わらず、その男の性癖も知っていたにも関わらず、自分達の保身のためにカナリアを見捨てた。
皆の前で披露されるカナリアの歌声が涙に濡れていることを知りながら、その歌が終れば皆は拍手喝さいで迎えるのだ。
その拍手の雨をカナリアがどんな気持ちで受け止めていたのかなど、想像したくはない。
「あの男はいつしか君の歌声に狂っていった。君だけを欲し、君だけを望んだ。故に、組織のためには殺すのもやむなしと考えた者達が、間接的にリルケ・シュターナーを送り込み、その男を殺したのだ」
「だから、なんなんです? あたしを救出しにきたわけではなかったんでしょ。リルケさんは、たった一人できたんです。たとえ、リルケさんが殺されても失敗しても、所属不明の殺し屋で切り捨てるつもりだったんでしょ。リルケさんがあたしを一緒に連れていってくれなければ、あたしはきっと殺されていた。違いますか?」
「……その通りだろう……な。君は多くを知りすぎた。組織のことも、私達のことも……」
「リルケさんがどんな目にあったか、知っていますか? あたしを助けなければすぐに逃げられた。だけど、あたしというお荷物がいたせいで、いっぱいいっぱい傷を負った。それでも、あたしを見捨てず、病院にもいかず、あの村にまでたどり着いたんです。平気な顔をして、あたしなどいないように振舞った。『この傷はお前のせいじゃない。なぜなら、お前はいなんだ。だから、気にするな』。リルケさんはそういっていた。少なくても、あたしにはそう聞こえた」
「……リルケ・シュターナーは狂人だ」
男は、わずかに微笑む。
そして、カナリアも笑んだ。責めるような笑みではない。純粋な笑みを。
「リルケさんが狂人じゃなければ、あたしは今頃死んでいます」
「そうだろうな……」
男が小さく頷いたとき、そのホテルがわずかに震える。
「天地がひっくり返ったら、南極の氷が解けて、エベレストが折れちまうぞ!」
怒号のような叫びが、男やカナリアのもとに届いた。
「迎えがきたようだな」
「……」
カナリアとしては、少し意外だ。このまま見捨てられるとしてもおかしくないと思ったのだ。何しろ、リルケはリアの護衛としてここにきているのだから。
きっと、リアさん達がうまくやってくれたのだろう。
リルケというよりも、リア達の手腕に意識が向くカナリアだったが、すぐに矛先を戻した。
「何をしたいんですか、あなたは……」
「私は君の両親の友人だった。正確にいえば、君の死んだ祖父母に世話になっていてね。君に対する侘びも含め、両親の遺体がある場所を探し続けていた」
「なら、本当に……」
「掘り返し、場所を移して墓を作るか、そこを墓と定めるか……どちらにせよ花を添えることはできよう。それで私がした君への仕打ちがなくなるわけではないがな」
「でも、リルケさんとは何の関係もない」
男はそこで首を振った。
そして、その口調さえも変わる。
「いいや、大有りだよ。あの男は、私の傭兵団を壊滅させたのだからな。それを率いた男としては、やられたままでいられるはずもない」
兵士としての意地が、そこにはあるのかもしれないが、おそらくは男としての意地だろう。それはカナリアにも少しはわかる。リルケ・シュターナーは狂人だ。少なくても、それを否定する人間がいない。そんな何を考えているのかわからない人間に負けることを男としては認められないのだろう。
自分よりも勝る人間として受け入れがたいということに違いない。
男はすでに戦闘準備を始めた周辺の兵士達になにやら指示をすると、彼等は迅速にそこを出て行く。
「さて、カナリア嬢、君との話もここでおしまいのようだ。ここに君のご両親の遺体が眠っている」
車椅子が動かされ、男は一枚の紙をカナリアに渡す。
「……」
それを受け取ったカナリアは、わずかに沈黙していたが、そこから出て行こうとする車椅子の男に向かって明るく問いかける。
「どんな歌をご所望ですか?」
意外な言葉に、その男は車椅子を動かす手を一旦止めたが、振り返り、その名を上げる。
「ワーグナー。ニーベルンゲンの指輪の第三幕フィナーレ、ブリュンヒルデの自己犠牲と終曲を頼めるかね?」
「喜んで」
カナリアはゆっくりと車椅子から立ち上がり、その痛みを忘れるように瞳を閉じた。
そして、カナリアの歌声がそこに響き渡る。
ホテルのロビーにて、リルケ・シュターナーと相対していた兵士達が、突然響き始めた歌声に我を忘れた。
「いい歌声だとは思わないか、リルケ」
老人の言葉に兵士達は再び気を取り戻し、リルケと向かい合う。手には銃はなく、全員がナイフを手にしている。そして、リルケもまたアーシアが急遽用立ててくれた通常のナイフを両手に握っている。
だが、リルケは二階部分に現れた老人に視線を移す。
「リルケ・シュターナーは呆れているぜ。ダンテ大佐、よくも生きていたもんだなってさ」
「死んだと思ったよ、私もな。が、悪運強く生き延びた。まさか、たかが一八歳にもならない小僧に、私の傭兵団が壊滅させられるとは思わなかったよ」
「窓から裏を覗いていれば、いつかは天井から這い上がるものさ」
「その意味不明な物言いも相変わらずだ。誰もがお前を嘲った。子供に何ができるのかとな。だが、すぐにその認識は変わり、いつしか脅威としてお前を見るようになった。私の傭兵団の者達は、お前に恐怖し、その恐怖を拭う暇もなく殺された。善人になれると思ったか? 確かに私の部隊は、命令とはいえ民間人を虐殺しようとした。しかし、実行前にお前に裏切られ、壊滅だ」
「リルケ・シュターナーは呆れていたぜ。民間人を相手にするようなヘタレな部隊にいるのはごめんだってな。リルケ・シュターナーは狂人らしく、狂人にふさわしい力を得たいのさ! だから、自分の糧にもならない民間人を殺すよりも、傭兵連中を殺したほうが糧になると判断しただけさ」
「なるほど、貴様はさらなる上を望んでいるのか。今以上を……。味方も敵もないようだな、お前には」
「リルケ・シュターナーは反論するぜ。俺の前に立ちふさがる奴が敵だってな。今はあんたが立ちふさがっているよな、大佐」
「そうだな。物事は単純であればあるほどいい。今は私がお前の敵だ。それだけの話。お前が私の新たな兵士達を打ち破ることができれば、カナリア嬢は解放しよう」
「……」
リルケはわずかに笑った。ダンテ大佐のことを見透かすように。ダンテ大佐がカナリアを殺せるはずがないことを知っているかのように。
だが、リルケはナイフを構えた。
戦う場があれば戦う。
それを糧にする必要がリルケにはあるのだから……。
リルケにとっての敵とは、その先にいるのだから……。
兵士の数は二〇。一方のリルケはただ一人。しかし、兵士達は銃器を使わずリルケと同じ土俵に立っている。数の差こそ圧倒的だが、それを兵士達は卑怯とは思わない。大半がリルケのことを知っているからだ。常軌を逸したリルケの実力を。だからこそ、彼等は一斉に向かう。そして、リルケもまた彼らを卑怯だと微塵も思うことなく、それを迎え撃つ。
それはある種の芸術といえるだろう。まるで舞うようにリルケは動く。様々な角度から突き出されるナイフはリルケを掠ることさえできず、リルケのナイフは的確に相手の急所に叩き込まれていく。
どうやればあんな動きができるのか、人は動くたびに重心を移動させる。その合間を縫えば、重心はずれバランスを崩す。
戦闘にせよ、武道にせよ、終局的にはバランスの勝負といってもいい。バランスを崩すことは隙となり、そこを狙われれば劣勢になる。
しかし、リルケはバランスを失わない。どんな体制になろうと、どんな動きをこなそうと、必ず重心は安定し、次なる動きへと変化を遂げる。
蹴り上げた足をそのまま相手の肩に乗せ、それを支点に相手を飛び越えるなどという芸当が誰にできる。
膝蹴りをした足をそのままに軸足を回転させ、後方から突き出されるナイフを避け、そのまま後方の相手に蹴りを加える。それをしながら、両手のナイフで相手のナイフを受け止める。
ナイフを投げ放ったと同時に、伸ばされた手が相手の手首を押さえつけ、そのまま相手のナイフで別の誰かのナイフを受け止め、そして、そのナイフを奪い取り、相手に攻撃を加える。
真似しようとしてできるような芸当ではない。
おそらくリルケは、その全ての行動を反射で行っているとしか思えない。
気配を察知し、その動きの先を読み、自分の攻撃を相手に当てる。瞬間的に判断するのではなく、瞬間的に身体が動いているといってもよかった。
カナリアの歌声に合わせるようにリルケは踊り、踊るごとに誰かが一人床に崩れる。
急遽編成したとはいえ、ダンテ大佐が選んだ者達は、相当の腕を持つ者達だ。にも関わらず、リルケは彼らを圧倒している。
一つの……。人間が可能とされる一つの到達点にリルケは立っているのではないか……。
圧巻の戦いを見下ろしながら、ダンテ大佐はそう思わざるを得ない。初めて会ったときから凶刃ぶりは発揮していた。そして、たった数年で自分達を軽々と飛び越えてしまった……。
情けなさや、惨めさよりも、感嘆したという言葉が似合う。
「そうだな……。私は認めたくはなかっただけだ。お前のような人間が、そこに至ったという事実を……」
カナリアの歌声が高鳴りを増す中、ダンテの傍らにはリルケが立っていた。
「まさに天使の歌声だとは思わないか?」
「リルケ・シュターナーは耳を澄ます。だが、何も聞こえないっていってるぜ」
「せめて、声だけは認識してやればいいものを……」
ダンテは眼下を見下ろし、嘆息する。
「二〇人の兵士を倒したか……、しかも、皆生きているとはな。もっとも、貴様も傷は負ったか」
「リルケ・シュターナーは憤っている。あの数相手に無傷でいられるはずがないってな。それに、殺す命令を受けていない以上、殺す理由もない。何よりも知っているか? 殺すよりも、生かしたまま戦闘不能にすることのほうが難しいんだ」
「それも貴様の糧とするためか……。リルケ・シュターナー。貴様はリルケ・シュターナーであり、それ以上の肩書きは必要ない。お前の中に流れる血は、リルケ・シュターナーの血のみ。純粋なものだ」
ダンテの言葉にリルケは違和感を覚える。
不可思議な言葉。まるで、自分の鏡を見ているような物言いだ。
「お前が日本にいることを教えてもらってな。ちょうどいい機会だと思い、ここに着た。カナリア嬢に伝えたいこともあったからな。奴は私がお前を憎んでいると思っているようだが、奴は兵士ではないからな、私の心まで理解はできなかったようだ」
「……」
「私の役目は貴様の足止め。リア・ドレファスとやらを捕らえるために、お前は邪魔だと奴は判断した。奴はお前のことを高く評価しているぞ。だが、お前はお前でしかないことに奴は気付いているか、どうか……」
「リルケ・シュターナーは尋ねるぜ。一度だけ尋ねる。リア・ドレファスを狙っている奴の名はなんという?」
リルケにしては珍しく抑制された声だ。
お前もやはり人間か。
ダンテはそう思いながらも、その名を口にする。
「奴は今、Mと名乗っているようだな」
「……M……?」
それを口にしたリルケはしばらく考えていたが、突然のように笑い出した。
「はっはっはっはっは……。これはバッドなエンドじゃないか。そうかそうか、バグって、フリーズ、起動でこんにちはか!」
「まさに狂人だな。そら、これが奴の居場所だ。先ほど調べがついた。おそらくはそこにいるだろう」
それが書かれているだろう紙をリルケは受け取る。
「カナリア嬢は私が保護する。安心しろ。危害は加えない。連絡先は後ほどアーシアにでも伝えておく」
「リルケ・シュターナーはわくわくしてるぜ。ようやく見付けたってな」
弾むような言葉を残し、リルケはそこを立ち去る。
リルケがカナリア救出に向かい、残されたのはリア、アーシア、鬼龍の三人となる。リルケが帰ってくるとしても、それなりの時間がかかるのは当然だし、場合によってはリルケを数に入れるわけにはいかない。
鬼龍とアーシアが話し合った結果、アーシアはタクシーを使いレンタカーを借りに向かうことになり、鬼龍とリアはホテルを出て、別の場所で待機することになった。
「連中は、こっちの場所を掴んでいるらしいからな。ただ、気になることが一つ」
「そうね……」
アーシアがタクシーを待つ間、言葉を交わす。疑問は双方ともに同じだ。
「なんで、相手はお前の携帯の番号を知っていたんだ?」
「この携帯電話は上層部しか知らない。私用の電話ではないから、そう簡単に番号が知られることはないはずよ」
「なら、お前の上層部の人間が絡んでいるってことか?」
「……あまり考えたくはないわね」
さすがにその辺りの事情など二人には想像できない。ダンテ元陸軍大佐とアーシアの上司であるマルチェロ少将に繋がりがあること、双方ともにカナリアを知っていたこと、そこまで推理できたら人間ではないだろう。
「なんにしろ、リアの身の安全が第一だ。レンタカー屋は遠方にしかないらしいからな。リアをそこまで一緒に連れていくことは避けたい。高速で一般人を巻き込まないためにあそこまで危険を背負ったんだ。ここでまた巻き込むようなことになったら、意味がない。だから、お前には悪いが一人でいってもらう。お前一人のために車ごと襲うことはしないだろうからな」
「でしょうね。私が戦闘に関しては素人に近いことは向こうだってわかっているでしょうし……。ただ、あなたに任せても大丈夫なのね」
「任せてもらおうか。ただ、俺はリルケと違って大雑把な人間なんでな。できるだけ人のいない場所にいたほうがいい。近くにキャンプ場があるらしいから、そこまで徒歩で向かい、お前がくるまでその場に留まる。そこにいる限りは、リアの身の安全は保障してやるよ」
「任せるわよ」
「あぁ」
二人の視界にタクシーが入り込み、アーシアはそのままタクシーに乗り込む。そして、鬼龍とリアはそれを見送ると、そのままキャンプ場に向かった。
鬼龍達が泊まったホテルから数キロ放れた駐車場に一台の車が止まっている。黒塗りの車の中には三人。
今、その三人が行動を起こそうとしていた。
「Mから連絡があったわ。リアの居場所と、合流地点が決まったそうよ」
「あの男はいないのか?」
運転席にはベルニッケ、助手席にはローレが座る。そして、今、恨みの篭ったような声を発したのは後部座席に座るグリュンだ。
「リルケという男は、Mの知人が足止めしているわ」
「俺にやらせれば、あんな男……」
「一撃でやられた人間がいう言葉じゃないわね」
「……不意をつかれただけだ」
苦々しくグリュンは呟く。
あの日、地下駐車場にてグリュンはリルケにやられた。しかも窓ガラスが割れたという認識しか残っていないほど、それは突然で、刹那で終ってしまったほどだ。
「お前の実力はよく知っている。つまりはリルケという男は相当な腕前ということだ。気にする必要はない」
ベルニッケがグリュンを宥め、ローレはそれについては反論しなかった。おそらく、自分であろうと、ベルニッケであろうとグリュンと同じ目に合わされていただろうと思っているのだ。
「リルケ・シュターナーは、Mでさえ警戒している人間だ。面と向かって戦えば負けるとは思えないが、不意を付かれればどうなるかわからん。Mからの情報じゃ、敵意や悪意には敏感らしいからな。それに奴は暗殺や工作を主に仕事の内容としている。不意打ちは得意といってもいいのだろう」
「……奴がまだ生きていたとしたら、奴を殺すのは俺だ」
「そのときは邪魔はしないわ。ただ、任務を忘れないで。あたし達の任務はリア・ドレファスの確保よ。リルケ・シュターナーがリアのもとを離れた今、彼女を確保するのが最善とMは判断した。あたし達はMの指示に従うだけ」
「わかっている」
グリュンは、それには素直に応じる。
彼らにとってのMという存在は、絶対的なものなのだ。
「ただ、護衛はゼロではないのだろう?」
「アーシア・タルティーニという女が一人、もう一人は少年らしいが名前はわかっていない」
「……」
ローレはそれに関しては何も語らない。ただ、寂しそうな目をするだけだ。
「女のほうは無視しても構わない。大して障害にもならないだろう。少年のほうも、おそらくは無視できるはずだ」
「……いいえ、少年を侮らないほうがいいわ」
「ローレ?」
「何か知っているのか?」
「……えぇ」
再び、その声には虚しさがこめられる。
ただ、それを言葉にはしない。
「何にしても、少年はあたしが抑える。アーシアも少年もリアともどもMの御前に連れていくわ」
「……」
「……」
目的はリアだけだが、Mはそれ以上は何も語っていない。連れてくるなとも、連れてこいともいわれていない。それ以上は個々に判断するしかない。
「だが、リアだけでいいのではないのか?」
「Mも二人に会いたいと思うわ。きっとね……。ただ、無理をする必要がないのは確かよ。リアを確保することが最優先。残りの二人は確保できれば確保すればいい。少年のほうの判断はあたしがする。駄目だと思えば、リアだけを連れていく」
「……わかった。そうしよう」
ベルニッケは頷き、キーを捻ってエンジンを始動させた。
キャンプ場は閑散としているというよりも、誰一人いなかった。時期も外れているし、平日だったこともある。
その中央に二人がいるのだ。
護衛されている身とはいえ、さすがに不安にもなる。
「こんなところにいて、大丈夫なんですか?」
「まぁ、見通しはいいな」
「狙われやすいんじゃ……」
「大丈夫だろ。リルケほどじゃないが、俺もそれなりに敵意や殺意を察することはできる。それ以上に、リルケのような繊細な戦いは俺には向いていないんだ」
「リルケさんが繊細ですか?」
「あいつは的確に敵を倒す。無駄な動きもないし、無駄な攻撃もしない。無駄な被害はほとんどないといってもいい。狂人だがたいした奴だ。才能に加えて、ガキの頃から目的もって自分を痛めつけるようなことをしなけりゃ、ああはならないな」
「どっちが強いんです?」
リアとしては、興味本位ではあるがそれを聞いてみたかった。が、鬼龍はわずかに首を捻る。
「肉弾戦という点でいえば、やはりリルケに分があるな。あれは猿だ。が、攻撃能力という点でいえば、俺が勝る。だから、こんな場所にいるわけだしな」
「攻撃能力……ですか……」
リアとしてはよくわからない。
「あたしのお祖父ちゃんもあなたに守ってもらったんですか?」
「守った覚えはないな。あいつは別に……」
鬼龍は頭を抱えた。
何事もない、わずかに気の抜けた状態での会話。そして、自然な流れの中での言葉に思わず答えてしまったのだ。
「やっぱり……」
リアが睨みつけるが、鬼龍は視線を合わせることなく天を見上げた。
「奇特な男だったよ。アメリカの軍医として日本にきたというのに、日本人を助けようとしていやがった。第一次大戦、第二次大戦と続き、俺は少々戦いに飽きていた。関わり合いになろうとは思わなかったが、吹っかけられた喧嘩から逃げるようなこともしなかったからな。だから、あいつに手を貸したのはただの気まぐれだ。それを持って、何をするのかを見てみたかったんだな……。どいつもこいつも悪意の塊のような人間の中で、あいつは何ができるのか、見てみたかった」
リアは胸の動揺を抑えながら、鬼龍の言葉に耳を傾ける。その言葉が真実だとすれば、鬼龍はその時代から生きていたということになるのだ。可能性としては考えていたが、それが本当にあるとは信じがたい。しかし、今更、それを否定することなどできるはずもなかった。
「だがな……、あいつは屈した」
「……えっ?」
「あいつは負けたんだ。万能薬の研究を続けていたあいつは資金集めにも、その解明にも行き詰った。だが、万能薬の危険性を知っていたあいつはそれを軽々に口外はしない。それでも、それに気付いた者もいた……ということさ。奴は目前にさらされた大金と、生体を用いた実験データを前にして心が折れたんだろう。万能薬と引き換えに、奴はそれを手に入れ自分の国に逃げ帰った。まぁ、その地で成功したわけだがな」
「…………そんな、そんなの嘘……」
口ではそういうが、リアはどうしてもそれが否定できなかった。祖父は一人でいるとき、常に苦しそうな表情をしていた。
会社の経営も父に任せ、一線を退いた。何よりも、祖父は会社のことを一度たりとも自分に託すようなことはいわなかった。だからこそ、リアは祖父の後を継がなかったのだ。
おそらく、その財と会社を築いたのが、自分の敗北の証明だと忌避していたのではないだろうか……。
「おそらくあいつは万能薬そのものを譲り渡したが、核心たる部分を日本のどこかに隠したんだろう。科学は発達した。顕微鏡なんかも、昔とは比べ物にならないほどに機能を増した。当時は糸口でしかなかったものも答えに導くヒントになるかもしれない。嫌、そう判断したのかもしれないな、あいつは……」
「……」
「引き返しても構わないぞ。どうせ無駄なことでしかないのだからな」
「どうして、それがわかるんですか?」
「俺だからわかる」
鬼龍はそういう。
多分、それは真実なのだろう。この旅は無駄なのかもしれない。それでも……。
「祖父を静かに眠らせてあげるためには、あたしはそれをやり遂げなければいけない。それをすると祖父に約束したのはあたしだから……」
「……そうか。なら、お前の気がすむまで付き合ってやるさ」
鬼龍は瞳を閉じ、口元を緩ませた。
結果よりも過程が大事なときだって、たまにはある。リアはきっとそれを知っているのだ。
しかし、鬼龍とてわからないことはある。リアの祖父が何を恐れていたのか。何を回避しようとしていたのか、鬼龍はまだ知らないのだ。リアの祖父と取引人物のことを鬼龍はほとんど何も知らない。結果しか知ることができなかったのだ。
しかし、それが目前に現れる。
鬼龍が急に立ち上がった。
「いいぜ、こいよ」
殺気。それも複数の殺気が鬼龍に向かってきている。
リアも鬼龍の態度から追っ手が迫っていることに気付き、身構えるが、それは唐突だった。
キャンプ場の周囲は木々が立ち並んでいるが、その木陰から黒い影が飛び出してきたのだ。
ありえない。
リアの眼前で影が天に伸び、そして、それが迫ってくる。
鬼龍はその異常な動きに我を忘れることなどない。冷静に影の動き、さらにいまだ動いていない敵の気配に注意を払う。
しかし、影が徐々に大きくなると、その歪な形とその故がわかる。
「アーシアさん!」
影は男。そして、男が肩に背負っているのはアーシアだったのだ。
男は地面に着地する寸前に、アーシアを鬼龍に投げつけてくる。
「ちっ」
そのまま受け止めなければ、アーシアは無事ではすまない。しかし、受け止めれば隙ができる。
通常はそう判断する。リルケであってもそう判断するだろう。そして、リルケならば任務を優先させアーシアを放置し、リアの身を守ることに集中したに違いない。だが、鬼龍はリルケではない。
一方の手に自らの力を込めながら、鬼龍はアーシアを受け止める。それも後方に飛びのくことで衝撃を緩めながらだ。さらにいえば、鬼龍は片手でアーシアを受け止めた。その体格に見合わぬ力に敵はわずかに警戒する。
それでも男は間髪要れずに鬼龍に向かってくる。それに呼応するかのように傍らから別の男が飛び出てくるとリアに向かってくる。
早い。
尋常ではない速さ。人間にできるような速さではない。
鬼龍は冷静に判断し、驚愕などすることはない。故に、男の攻撃も難なく避け、アーシアをそのまま地面に落としながら、リアに向かってくる男に対処しようとした。
不可能だとは思わない。リアを守れないとは思わない。嫌、キャンプ場という場所で敵が現れたことは幸いなことだと鬼龍は思っていた。負けるなどとは微塵も思わず、だからこそ、不敵な笑みを浮かべながらそれぞれの男に手をかざしたのだ。
しかし、鬼龍の確信は破られる。
「鬼龍」
その声に鬼龍は反応する。せざるを得ない。
そして、振り返った先にいた者を視界に収めたとき、彼の敗北は決した。
「……緑華……」
鬼龍が呟いたと同時に、緑華は動く。
それが、そこにいた人物が緑華でなければ、鬼龍の描く未来図はまさに現実になっただろう。自分達は無傷で、相手は重症。しかし、そうはならなかった。
かざされた両手からは何も発せられず、そして、緑華の手套が鬼龍の腹部を突き刺していた……。
「鬼龍さん!」
リアは叫ぶが、背後に回りこんだ男の当身によって気を失い、鬼龍はかつての友を呆然と見詰めながら崩れ落ちる。
「緑華……なぜだ」
呟く声に緑華もまた呟きで返した。
「こうなってしまったのよ……」
それを最後に鬼龍の意識は遠のいていった……。
第六章 再会
彼は私を試し、私はそれに応えることができなかった。それどころか、想像しえた最悪の事態になっていることに私は気付かされる。
「人を救いたいか。どいつもこいつもこの世界から病をなくした神様にでもなるつもりか?」
「……神様になりたいわけではない。だが、私は医者であり、救うのが仕事なのだ」
「どんなに病を治しても、無駄だってことがわかっただろう? 病をなくしたところで、人は殺しあうぜ」
「争いのない世界はいつかは必ずくる。そう信じている」
「希望を抱くのはいいことだ。それを茶化すようなことはいわねぇよ。まぁいい。これだけ人が死んだんだ。多少は救い上げるのも面白い」
いつだったのかわからない。
米軍に付き添う形で日本に来た私は、その国に住まう者達を自らの力の及ぶ限り治療していた。そんな私の前に鬼龍と名乗る少年が現れた。赤い瞳をした彼は不思議な少年で、見た目どおりの歳ではないことを薄々感じていた。彼と友人であったとは思わない。彼にとって私は観察の対象だったのだろう。
『崇高な理想を持っているのなら、それを成し遂げてみろ。どうせ、無駄に終るだろうがな』
そんな風に私を見ていたに違いない。だが、そうとわかって私は彼の挑戦を受けた。
「これを使うといい」
「水?」
彼が私に渡したのは容器に入れられた水だった。ただの水のようにしか見えない。
「俺の故郷から持ってきた。結構大変だったぜ、その量を運ぶのは。かつて、ロベルト・タルティーニという冒険家に飲ませてみたことがあってな。どうやら、その水は、お前達のような人間にも効き目があるらしい。一時ではあるが、病にとって一時でも効き目があれば、その病はなくなった……といってもいいからな」
「……どういう……」
「つまりは、万能薬というものさ」
「万能薬?」
信じられない言葉を彼は口にする。人にとっての永遠の夢を軽々と口にした。
「ただし、使い方は知らん。ロベルトの命が助かったのは奴の生命力の勝利だったかもしれないし、たまたま使いかたがあっていただけかもしれない」
「……量が問題ということか?」
「さぁな。量の問題か、時期か、それとも他に必要なものがあるのか。それはお前で確かめろ。お前に与えるのはそのタンクだけだ。その水全てを一気に使い切るもいいし、病人の金持ち連中に使って私服を貯めるのもいい。もちろん、成分を調べて、万能薬をその手で生み出すのもいいだろうさ」
「信じろと?」
「知ったことじゃない。付け加えるならば、その水には少々手を加えておいた。おそらくロベルトに使ったときよりも効き目が表れやすいはずだし……。もしかしたら、不老不死の薬に使えるかもしれないぜ」
「……不老不死? 私を馬鹿にしているのか?」
「した覚えはない。お前に理想があるなら、それを使って理想を実現すればいいさ。俺はどこかでお前を見守ってやる」
鬼龍はそれ以来私の前に現れなかった。だが、時々、彼が私を見ているのではないか……そんな視線を感じたときがあった。
私は、その水を限られた最小の者だけに使い、その効果を目の辺りにした。結果、鬼龍の言葉を信じるしかない状況に追い込まれ、私はただ自分の言葉と戦う以外に道はなかった。
私は研究した。
研究を続けた。
だが、瞬く間に時が過ぎ、いつしか私は疲れていた。資金も底をつき、気力も底をついた。自分の飢えを満たすことさえ困難になっていた。
そんなとき、あの青年が現れる。
「あなたの持つ万能薬を私に譲ってくれませんか? もちろん謝礼はいたします」
理想と気力を伴った私であれば、その青年の言葉を拒絶しただろう。万能薬のことさえ秘密にしたまま彼を追い返したに違いない。
だが、私は彼から差し出される巨大なスーツケーツを手に取り、中身を確認した。
「……これは……」
そこにはケースいっぱいに入ったドル紙幣が収められていた。
「譲っていただければ、それとは別に同じものを二つ差し上げましょう。さらに、こちらもどうぞ」
今度は数十冊に及ぶノートだ。
大金を前にしながらも、私はそのノートを開き、そして再び衝撃を受ける。
「人体……実験……」
「えぇ。なかなに詳細なものだと思いますよ。軍で行われていた実験データを偶然手に入れましてね」
「……これは……違う。まさか、君が……」
「ご冗談を。私ではありません。あくまでも入手したものです。どうです? 興味があるのでは? 想像を絶するほどの数多の実験結果ですよ。外傷から、毒物、病、伝染病、内臓臓器の数多のデータ、血液サンプルのデータ。医者であるならば、喉から手が出るような代物では?」
「君は……、なぜ……、なぜこんなことができる……」
たった一人。
そう、その数十冊の人体実験のデータは、その筆跡は同一のものだった。複数のものではない。軍のものであれば、筆跡は違っていて当然なのに、これは一つしかない。一個人がこれだけのデータをそろえた。数え切れないほどの人間をモルモットとしたのだ。医術を学んだ人間がすることではない。
「何を恐れておいでです? それをもとに、あなたであれば死んだ人間の数倍、数十倍、数百倍……、いいえ、もっと多くの人間を救うための糧とすることができるはずですよ。そのための人脈が必要というのであれば、ご紹介しましょう。万能薬とはいえ、それは限られた量しかない。しかも、複製には至っていない。ですが、私の差し上げた金銭とデータがあれば、より多くの人間を救える」
「…………」
私は恐れた。
目の前の青年を……。
笑顔で話しながらも、彼は狂気に取り付かれたような鬼なのだ。どれだけ多くの人間を殺してきたのか。データをみればわかる。
たった一枚の表。そこに刻まれた二桁の数字達。それは人の命の数だ。たった一ページに数十人の命が刻まれている。
「お考えください。理想と現実を……。あなたは長い間万能薬を研究してきたが、ほぼ徒労に終っている。その間、あなたは一体、何人の命を救ってきたのです。あなたほどの人間が万能薬の研究とやらに現を抜かさなければ、数百人、数千人の命を救うことができたのではないですか? あなたは私を恐れておいでですが、あなたも同じだ。理想を追い求め、今生きている人間を見殺しにしてきた。あなたにしか治せない人間が、あなたが理想を追い求めたが故に死んでいった。あなたが殺したのと同じではないですか」
淡々と紡がれる言葉は私の心を侵食していった。理想のために、今生きている人間を見殺しにした……。
それを否定する言葉が出てきてくれなかった。
「私のデータと金銭を基にすれば、多くの人間を救うことができる。それはあなたにとってみれば、確実な未来。ですが、このまま万能薬の研究を続けても結果が出る保障はなく、見殺しにする人間の数は途方もないものになる。そうではないのですか?」
「……私は……」
「現実にお戻りください……。あなたは現実に生きてこそ、多くの人を救えるのだから」
「……」
青年はそのまま立ち去った。データと大金をそこに残したまま……それを私が拒絶できないことを知っていたから……。
私は、私の理想を裏切った……。そして、与えてはならない者に、それを引き渡してしまったのだ。
母国に戻り、青年の金と人脈、そして、データを元に私は製薬会社を興し、彼の予言の通り成功を遂げた。巨万の富を築き、作り上げた薬によって数多の人間を救うことができた。
だが、巨万の富を得た私は、かつて出会ったあの青年が何をしているのかを探り始め、愕然とした。
許されざる罪。
それが私の背負うもの。
唯一、唯一の救いだったのは、万能薬の核心部分を記したノートだけは彼に渡さなかったということだけだ。
嫌、おそらくはあの青年はそれを知っていつつも放置したのだろう。必要ないと判断したに違いない。彼にとって万能薬は使うものであり、作り出すものではなかったのだから。だが、彼はデータを簡単に私に差し出したのと同じように、万能薬をも放り出したのではないだろうか。
もし、そうであれば、万能薬を青年から譲り受けた者が他にいるとすれば、その利用が青年と似通った方法なれば、そのノートだけは渡してはならないのだ。
……私は屈した。
私は理想を裏切り、この世界に存在してはならない人間にそれを与えてしまったのだ。
だからこそ、私は苦しむ。
しかし、それに気付いたときの私はすでに老い、また動くことによってその存在を知られるのではないかという恐れのために何もなすことができなかった。
それどころか、何も知らぬ孫娘にそれを託してしまったのだ。
それでも私は望むしかない。
私の過ちをこの世界から消し去ってくれと……。
観覧車、ジェットコースター、コースター、メリーゴーランド、カート乗り場。その全てが小型のものではあるが、確かにそこには数多のものが集まっていた。だが、全てが全てさび付き、雑草が器具の隙間から太陽に向かって伸びている。
かつての夢の場所。
遊園地だっただろう場所に自分がいることを鬼龍は気付いた。
「目覚めてくれたかね? 他の二人はすでに起きている」
声がする。
鬼龍はそれに反応するが視界がぼやける。
「少し強めの薬を打ったからね、しばらくはそのままだろう。もっとも、言葉は聞けるし、喋れるだろうから、気にする必要はない」
「……てめえ、誰だ」
起き上がろうとした鬼龍だったが、自分の手足が激痛で硬直する。だが、視界がぼやけ、どうなっているのかがわからない。
「私の名は、M。そう呼ばせている。君達を連れてきたのは、ローレ、ベルニッケ、グリュンという私の可愛い傑作達だ」
「……緑華はどこだ」
「緑華? ……あぁ、ローレのことか。無論、いるよ。ただ今は少し席をはずしている。寒くはないかね。休憩所らしいのだが、壁はないのでね」
ゆっくりとしたトーン。だが、その声質から壮年の男だろうことは想像できる。さらに詳細はわからないが、髪の色がブラウンで、純粋な日本人ではないことだけはわかった。
「鬼龍さん、大丈夫ですか!」
リアの声が聞こえる。
無事であるのは何よりだが、アーシアの声がない。嫌、目覚めているとMという男はいった。おそらくは、傷の痛みが激しいのだろう。
「鬼龍……か。まさかとは思ったが、あの『桃源郷』に描かれていた鬼龍とは思わなかった。素晴らしいことだと思わないか? 龍族と屍一族のハーフが私の前にいる。素晴らしい実験体だよ」
「へぇ、何をするっていうんだ?」
「教えてしまっては意味がないだろう? 安心したまえ、簡単に死ぬことはないだろうからね。これでも父や母に比べて、死者を出した数は少ないのだよ」
どういう家族だ。
そう鬼龍が思ったとき、ある記憶が微かに脳裏に浮かぶ。
まさか……という思いがそこに浮かび上がる。
「さて、全員が目覚めてくれたところで尋ねようか。リア嬢、君が日本にきたのは祖父からの遺言があったからだね? まぁ、生前かもしれない。嫌、日本語が堪能である以上、ずいぶん前の話かもしれない。何にせよ、私は推理する。おそらくこの地には、万能薬の核心に触れたデータがあるはずだとね」
「……知りません」
「気丈だが無駄なことだよ。ここは人気がない。もし誰かがきたとしても排除すればいいだけ。君の泣き叫ぶ声も誰にも届かない。どんな方法をとって欲しいかね? 自白剤は精神的に辛い。拷問もいいが君程度ではすぐに気を失ってしまいそうだからね。できれば自発的にいってもらいたい」
「……リ……アさん……」
アーシアの声が聞こえる。
だが、弱弱しいものでしかない。おそらくは傍らにいるのだろうが、あまりにも血の匂いが強すぎる。相当な傷だということが鬼龍にはわかった。
「てめえの狙いはなんだ? 万能薬か? 永遠の命でも欲しいのか?」
「そんなものにはさして興味がない。タダで手に入るなら手に入れるが、そのために労力をかける気にはなれないな。もっとも、リア嬢の祖父は、そんな無駄なことに時間を費やしたらしいが……」
「ならば、何が目的だ。なぜ緑華が貴様のところにいる」
「見付けたからだよ。手当たり次第に特徴のある人間を捉え、調べてみた。結果、彼女はそうだった。それだけだ」
詰まらなさそうにMは語る。
「緑華がお前に協力するはずが……」
「しているのだから、仕方もないな」
Mは再びリアに語りかけようとするが、そこに足音が迫る。そして、鬼龍にとって聞きなれた声が響いた。
「M。品が届きましたが、いかが致します?」
「そうか……。万が一を考えていたが、リア嬢がここにいる以上、必要はなかったな。ダンテ大佐もリルケをうまく処理したのかもしれないが、とりあえず連れてきてもらおう。いい機会だからな。彼らにも見せてあげよう。私の結果というものをな」
Mは淡々と答えるが、それを無視するように鬼龍は口を開いた。
「緑華……どういうことだ……。なぜ、お前がこんなゲスと……」
「いったはず。こうなってしまったからと……」
「意味がわからねぇぞ」
「いっても仕方ない」
緑華の足音が再び遠ざかる。
「おい、緑華、緑華!」
「無駄だよ。彼女は君が知る緑華ではないのだから」
「何をした?」
「彼女は強い。君を覚えているだけでも相当なものだと思うがね」
「……何?」
「簡単なことだ。ロベルト・タルティーニ著の『桃源郷』に書いてあっただろう? 君も緑華も桃源郷の出身。君はハーフであり、緑華は龍族だ。共に不老不死。そうだろう? 少なくても、アーシア・タルティーニ。君の祖先が嘘つきでなければ……の話だが……」
「私……の祖先は……嘘なんか……書いていない」
「あぁ、信じている。緑華は不老だ。身体能力も優れ、再生の能力もある。切り刻んでもすぐに再生したよ」
「てめえ」
鬼龍が殺気を込めた瞳でMを見詰める。徐々に視力が戻り、Mの顔もはっきりしてきた。だが、Mは鬼龍の殺気など感じていないかのように続ける。
「難しいことはしていない。単純だ。とはいえ、彼女に何をしたのか、よく覚えていないのだがね。数多の人間に、数多の種類行ってきた。何をしたかな? 肌をかんなで削り取ったのか、それとも全身に針を刺したか……、嫌、指先からと石で削っていったのかもしれない。あぁ、違うか。緑華は皮膚を剥ぎ取り、骨を掴み出し、研磨したその骨を彼女の肺に差し込んだんだ。息をする度に彼女は苦しんでいたな。もっとも、すぐに再生されるから、刺しては抜き、刺しては抜いたな。まぁ、最終的には脳髄に電極を差し込み、服従するまで電気を流し続けた。便利だよ、彼女達は。死なないのだから。痛みでは死なないのだ、彼女達はね。ただ、多くの者は記憶を失ったがね。緑華一人だ。記憶を宿したままなのは……」
「……貴様は殺すぞ」
リアやアーシアも顔色を失う。
Mから聞かされる過去と、鬼龍の殺気によって。
だが、Mは笑う。
「皆、君と同じことをいっていたが、最後には壊れるか、服従したよ」
Mは鬼龍に興味をなくしたかのようにリアに視線を向けるが、ふとそれに気がついて振り返った。
そのときには鬼龍の視界もはっきりとしたものとなったが、それを目にすることが鬼龍にとっての不幸だったかもしれない。
「きゃああああ」
「ぁぁ……」
リアが叫び、アーシアが絶句する。
先頭には緑華が立ち、その傍らにはベルニッケ、グリュンが立つ。だが、その背後からは何十人という人間を引き連れていた。
嫌、人間といっていいのかわからない。
皆、Mという怪物によって、その肉体が壊されていた。あらぬ場所から腕が生え、あらぬところに足が生える。間接も一つや二つではない。頭さえ複数あるものもいる。筋肉は膨れ上がるが皮膚がそれに耐え切れず、それがさらされたままのものもいる。垂れ下がった内臓をそのままに歩き続けるものもいる。
共通するのは彼らには自我がないことだけだ。
「きさまぁ~!! 許さねぇ! てめえは絶対に赦さねぇ!」
絶叫を鬼龍が上げる。
当然だ。
当然だった。
木偶と化した者達の中には、見知った顔が数多含まれていたのだ。かつて、ロベルトがいった桃源郷にいた仲間。龍族であり、屍一族であったもの。選ばれた者達。不死となった者達がそこにはいたのだ。嫌、違う。おそらく、ベルニッケもグリュンも、あの村の出身なのだ。鬼龍はハーフであるが故にはぐれて暮らしていた。そのために全ての人間の顔を覚えていなかったが、鬼龍の顔は知られていた。それなのにグリュンもベルニッケも鬼龍をおぼえていなかったのは、その記憶がなくなったから。
「何、君の仲間ばかりではないのだよ。中には、万能薬によって生み出した者も含まれる。筋肉増強剤。俗な薬だが、それを極限まで濃縮し、それを体内に注射した。もちろん、通常なら死ぬが、タイミングを計って万能薬を打ち込む。それをすることで死を免れる。それを繰り返し、繰り返し、繰り返し行う。もっとも、途中で正気を失ってしまうのだがね。どうかな、リア嬢。君の祖父が残した万能薬によって作られた者達は……」
「…………」
リアはもはや何もいえない。
「どうかね、アーシア嬢。君の祖父が記した書によって、その存在を知られ、私の実験材料となった者達だよ」
「……」
アーシアも呆然としている。
「そして、どうだね、鬼龍。君の与えた万能薬によって、君の仲間は新たな種となったのだ」
「………………」
鬼龍はただMを睨みつける。
人を救うための万能薬。それを元に財を成すのはいい。それをもとに不老不死、不老長寿を解明するのもいいだろう。勝手にすればいいことだ。
だが、それを元に人の命を弄ぶような化け物を作り出した。それほどまでの狂気を宿した人間など鬼龍は見たこともない。
人とは、そこまでできるものなのか……。万能薬をそういうことに使えるものなのか。
「貴様、本当に人間か……」
「もちろんだよ。私はね、父や母にそうやって育てられた。六歳の誕生日までは普通に生活していたが、その誕生日に私に送られたものはなんだと思う?」
「さあな。どうせ、禄でもないものだろうぜ」
「いいや。最高のプレゼントさ。何しろ、私が当時好きだった、隣の女の子だったんだよ。もっとも、死んでいたがね。両親はいった。『お前の好きだった女の子だ。それで遊びなさい』とね。私は喜んで、その子で遊んだよ。その日まで共に遊んだ女の子が、一週間後には蛆虫のエサになっていたがね。万能薬も同じだ。父はリア嬢の祖父から万能薬を譲り受けたが、父はすぐに飽きてしまい、私に譲った。『好きにつかいなさい』と告げてね」
「……」
祖父の苦しみの原因が目の前にいる。万能薬を悪用どころではない。正気とは思えない使い方を正気とは思えない人間がしている。
この男に祖父の残した書を渡すわけにはいかない。
だが、リアにはどうしようもない。眼前に迫る怪物。嫌、自分達の罪が迫ってくる。
「もういい。もうわかった。理解したさ。貴様は殺す」
冷静に紡がれる言葉にMは興味を持たない。
「どのみち、君はここで死ぬ。身体能力が人間離れしていようとも、同じ龍族、屍一族がこれだけそろっている。しかも、私によって改良を施された仲間がね。特にローレ、ベルニッケ、グリュンの三人は、様々な改良を加えたにも関わらず、人の意識と形を保っている傑作だ。その拘束を解けたとしても、君に勝ち目などはない」
もはやMは鬼龍を見ない。
しかし、今度は鬼龍が首を振る。
「気付いたさ。俺も好きなんだよ、あの映画。フリッツ・ラングの作品の中でも、あれは一番好きでね」
「……ほう」
Mがそこで興味を引かれる。
「私はドイツで生まれ育ったからね。ドイツ映画は特に好きだ。だが、どうしてそれを口にする?」
「聞いたのさ。あの狂人からな」
「狂……」
Mの言葉はそれ以上、誰の耳にも入らなかった。大音量で叫ばれる言葉がさえぎったのだ。
「さ~て! これから始まるサーカスは、どこにいくのか、銀河を巡って、最後は地底にこんばんはだ!」
そんなわけのわからないことを叫ぶのは、一人しかいない。
リルケ・シュターナーだ。
声は傍らのメリーゴーランドからだ。そこの木馬に座りながら、リルケが満面の笑みを浮かべている。
「リルケ・シュターナーは喜んでいるぜ。ようやく会えたなってよ!」
ベルニッケ、グリュンがMの前に立つが、Mがそれを押しのける。
「なるほど、彼から聞いたわけか」
Mが鬼龍を見ずにそういうが、鬼龍は当然のように答える。
「いい映画だよな。フリッツ・ラング監督の作品『M』。そういえば、主演の殺人鬼はピーター・ローレだった」
「久しぶりだな、リルケ」
Mは鬼龍を無視する。そして、視線も声もリルケに向けられた。
「リルケ・シュターナーは喜んでいる。お前に会いたかったってな。ずいぶん昔にババアを取り逃がしたが、今度はきっちり殺してやるよ……親父」
その言葉に、リアもアーシアも驚愕する。無論、鬼龍もそれに気付いたときは驚いた。しかし、その予想は当たり、そして、リルケが喜ぶわけもわかる。少なくても、普通の親子の対面にはならないだろう。
「久しぶりに会ったというのに、面白いことをいう。が、さすがは私の息子というべきところだな。やはり、お前には私達の血が流れている」
「……」
リルケは返答さえしない。
確かに、Mもリルケも狂人だ。だが、質がまるで違うのだ。
「リルケ・シュターナーは答えよう。ダンテ大佐はいっていたぜ。俺はリルケ・シュターナーであり、リルケ・シュターナー以外の何者でもないってな。そして、俺はいうぜ。俺はリルケ・シュターナーであり、その血だけが俺の中に流れている。てめえらのような狂人の血は俺の中には流れていないんだよ」
「楔から解き放たれたのが我らの血統だ。その血のままに生きているお前は間違いなく私の息子だ。世界から解き放たれ、己が心の赴くままに生きろ、リルケ。お前にはその力があるのだからな」
「そうさせてもらう」
全ての言葉を省いた言葉がリルケから放たれた小型のナイフが一直線にMに向かって放たれる。
が、それは傍らのグリュンによって阻まれた。
「何をしている、リルケ。父に刃を向けるとは……、狂ったか?」
「最初から、あいつは狂ってる」
鬼龍の言葉にリアもアーシアも頷いた。
リルケもMも狂人だ。共に人の枠からはみ出ている。だが、同じ狂人といっても、双方が浸る狂人の水は、あまりにも違うのだ。
それに気付かないMは、息子を理解できない哀れな父親に過ぎなかった。
ナイフがとめられたことを確認したリルケは、木馬から降りるとゆっくりとゆっくりとMに向かって突き進んでいく。
一歩、一歩、確実に、狂人が狂人の下に近づく。
「……くっ……」
Mがわずかにたじろいだ。
MはMなりに自分の血をひくリルケを理解している。故に、狂人としての強さを彼は知っているのだ。それが人間離れしていることを……。故に、ダンテ大佐に足止めを願い、こうして予定を覆してもリアを確保した。
そう、Mはリルケの強さを知っている。
そのリルケが自分を殺そうとして近づいてくるのだ。
信じているからこそ、息子の狂人さを信じているからこそ、その殺気はより身近なものとなった。
「……殺せ。構わない、リルケ・シュターナーを殺せ」
グリュン、ベルニッケが待っていたとばかりにリルケに向かって突進する。
鬼龍は知っている。
グリュンもベルニッケも同じ桃源郷の出身。身体能力はずば抜けている。改造されているならば、なおさらかもしれない。
しかし……。
「……なっ……」
グリュンの首が飛び、ベルニッケが吹き飛ばされる。
「リルケ・シュターナーは満足している。ダンテ大佐もいいものを用意してくれた。骨を断てる剣。日本刀……。なかなかいいぜ」
日本刀というには長さが足りない。短刀というには長い。その中間。つまり脇差とされるものがリルケの手にはある。おそらくは背後に隠していたのだろう。それを引き抜く早さも業も見事なものだ。
とはいえ、数は多い。一人、二人ならまだしも、まだ大量に出来損ないとなった怪物がそろっているのだ。
「なぜ……、なぜグリュンが……。身体能力はリルケの比では……」
「馬鹿だな、お前は。研究ばかりで実戦を知らない。龍族であろうと屍一族であろうと、首を撥ねられれば死ぬ。そして、確かに俺達の身体能力はすぐれているが、数十センチ動けば攻撃を避けられるんだぜ。そこまでの筋力も脚力も必要ないんだよ。まして、自分を狙ってくるとわかっていれば、簡単にカウンターもとれるというものだ。もちろん、そんな真似ができる人間は、この世に三人いるかどうかだがな。褒めてやれよ、親父さん。息子はそんな三人の中に含まれているんだからな」
「だが、数にはかなわん」
「だから、俺が始末をつける」
鬼龍は立ち上がる。
激痛が全身を襲うが、それに構うことはない。
両手も、両足も、鉄の杭のようなものがそれぞれ貫かれ、両端は抜けられないように輪となっている。
「それで何ができるというのだね。そもそも、君一人。私の改良を受けたもの達の比ではない」
「なら、よかったんだがな。残念ながら、俺はそういう単純な存在じゃない」
おそらく始めての光景だろう。
Mでさえ、そんな光景は初めて目にしたに違いない。
鬼龍の両手、両足に炎が巻きついている。強い炎。それが瞬く間に鉄の塊を溶かしつくす。ボタボタと溶けた鉄が流れ落ち、床を焦がす。
「……なんだね、それは……」
Mの声がわずかに震える。
それに対する答えを鬼龍は視覚で訴えた。
自由になった右手をMにさらす。そしてMの目の前で鬼龍の中から宝玉が浮かび上がってきた。
「それは……まさか……」
Mと同じように、アーシアもそれがなんであるのかを悟る。
「あぁ、そうだ。桃源郷の者にとっての信仰の証。炎を生み出し続ける宝玉さ」
「……馬鹿な……。触れれば燃え上がる……貴様はロベルト・タルティーニにそういったはずではないか!」
「真実を告げる理由はない。そこが滅びるまで誰にもそれは語らなかったからな。俺はずっと呼ばれていたんだ、この宝玉にな。宝玉は待っていたのさ、自分を受け入れられる存在を……ずっと、あの場所で……。そして、それが俺だった。それだけの話であり、それが花梨を殺した」
「なぁなぁなぁなぁ! 面白い話はこっちにも聞こえるようにしてくれるかい! 俺は目が遠くて、耳はよく見えるんだ!」
リルケが叫ぶが、その足元にはグリュンだけではなく、ベルニッケの頭部も転がっていた。
「……全員だ。全員でこいつらを殺せ!」
Mが始めて叫びをあげる。動揺し、恐怖し、錯乱したようにMが叫び、そして、そのまま逃げ去っていく。
「ローレ、お前は私とこい!」
「緑華!」
リルケはまだ遠い。そして、リアとアーシアが傍らにいる以上、鬼龍はそう叫ぶのが精一杯だった。しかし、ローレと呼ばれた緑華は、鬼龍を一瞬見るだけでそのままMを守るように走り去る。
「……」
鬼龍は瞬間瞳を閉じた。
ここには緑華だけではない。多くの同胞がいるのだ。変わり果てた姿で……。自分はそれを止めなければいけない。
それを心に決める。
怪物と化した仲間達が、鬼龍目掛けて襲いかかってきた。
「燃やし尽くしてやるよ。それがお前達にとっての救いなのだろうからな」
鬼龍が決意の瞳を炎に映し、そして、自嘲気味に笑む。
「始末はお前に任せてやるよ、狂人」
リルケの姿はいつの間にか、消えていた。
「興味深い。興味深い。あの鬼龍という少年は興味深い。私の作品は壊れつくされるだろうが、構わん。次のテーマに進めばいいだけだ。そうだ。次はあの鬼龍にしよう」
雑草だらけの駐車場に走りついたMは、そこでようやく緑華に向かう。
「緑華。お前は知っていたのか、鬼龍のことを」
震えるような言葉。怒りの込められた言葉に緑華はわずかに強張った表情を作る。それでも、答えた。
「知っていました」
「そうか、知った上で、つれてきたのだな」
「……はい」
「……仕置きが足りないか。いいだろう。少しは過去の記憶があるのもヨシと思ったが、その記憶……消し去ってやる」
もはや冷静沈着なMはそこにはいない。
息子だから、血の繋がりがあるから、リルケは正真正銘の狂人であるとMは理解している。そして、そんな狂人の矛先が自分に向けられたとき、彼は初めて恐怖を感じた。全てを自分の欲求を果たすための材料と見てきた彼が、今度はリルケの標的になったのだ。
「痛覚は全てを忘れさせてくれるぞ、緑華」
「……っ……」
Mが懐にあった装置のスイッチを入れる。
そして、そこで絶叫がほとばしった。
「あああぁぁぁぁぁああああ!」
脳に埋め込まれた電流が緑華の全てを打ち砕く。しかし、それでもなお、龍族であり不死である身が、死という安息を与えてはくれない。
「どうだ? 緑華、思い出せるか? お前は私の物なのだ。逆らうことなど許しはしない」
叫びがますます深くなるが、それは突然止まった。
「……な、なんだ?」
緑華がMの眼前で倒れる。そして、その故をMは悟った。緑華の後頭部には細長いナイフが突き刺さっていたのだ。
「やりゃできるできない。ああ美味い。ピザにトースト、ラーメンにギョウザ、今日はフランス料理のオンパレードだ」
「……リルケ……」
Mが一歩後退しながら周りを見回す。しかし、自分が作り上げた傑作達はもういない。出来損ないももういない。
リルケがゆっくり近づき、その背後では濛々とした煙が立ち昇っている。
「私はお前の父親であり、お前は私の息子だ」
リルケが目の前のまで迫る。手を伸ばせば届くほどの距離。その距離でリルケがじっと父親であるMを見詰める。
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。俺の中にはリルケ・シュターナーの血が流れている。それ以外の血など流れていないってな」
熱い。
Mはそれを感じた。そして、それに気がついた。自分の右手の指がなくなっていることに。先ほどまで緑華を苦しめていた装置のスイッチが地面に落ち、その傍らに、自分の指が落ち、それが全て血で染まっていく。
「ぐあああああ!」
他人に痛みを味合わせてきたが、その苦しみが今度はM自身に降り注いでいる。その悲鳴に気を取られることなく、リルケがそのナイフをMの首に当てる。
「リルケ・シュターナーは尋ねる。取り逃がした獲物は必ず捕らえてみせる。だから、尋ねる。他の四人はどこにいる?」
「……し、知らん。私達は連絡を取り合うことなどない。どこかで、自分の好奇心を満足させるために実験と研究を重ねているだろう……」
わかっていたかのような言葉にリルケは息を吐く。
だが、次の言葉がMを締め付けた。
「リルケ・シュターナーは確実にいく。あんたは天才で、鬼子だ。だから、あんた自身も不老不死になっているかもしれない。中途半端なことをせず、念入りにミンチにしてやるぜ」
「や、やめろ」
リルケの言葉が真実に溢れていることをMは知っている。それをするのは間違いない。そして、それをされるのは自分なのだ。
リルケの手がMの肩に軽く乗せられ、そして、リルケの足が自然にMの足をかける。柔道の小外刈の要領で、Mは当たり前のように倒された。
「さぁ、解体だ」
リルケの言葉が最後。
後はただMの泣き叫ぶような絶叫が轟くだけだ。
第七章 終結
私達は自らを鬼と呼んだ。嫌、正確にいえば、私の両親、妻の父親がそれに当たる。私と妻は、鬼子でしかない。
その鬼たる父が、息子の六歳の誕生日を翌日に控えた夜、私達の前でそれを告げた。
「あれは鬼子ではない。まして鬼でもない。ただの狂った人間でしかない」
人の殻を失い。自らの好奇心と探究心に突き動かされる鬼。何者にも恐れを抱かず、ただ鬼としての道を歩んでいる父が自らの孫を否定した。
「あれは私と妻の子供です。鬼としての資質は十分にある。毎日のようにあれは自らの身体を壊れるほどに痛めつけていますよ。進む道は違えど、鬼であることに違いはない」
「わかってはいないようだな。あれは鬼ではない。命を失ってもおかしくはない日々を送っているのにはわけがある。いまだ五歳であるにも関わらず、その道を自ら選び、そのためには命さえ邪魔もの扱いしている。ただの狂人だ、あれはな」
「では、あれは何のために、それをしているというのです?」
「私達を殺すためだ」
父の言葉に、その場にいた四人がわずかに戸惑う。
「殺す? 私達をですか? 私の息子が私を殺すと? 自らの祖父を殺すというのですか? 五歳の子供が? 同じ鬼である鬼子である私達を?」
「故に狂人というのだ。あれは聡い。私達の想像を越えるほどに聡いのだ。私達の存在がいかなものなのかをあれは頭と心で理解している」
「真実だと?」
妻の父親が静かに問うが、私の父は頷くだけだ。
「なればこそ、私は去ることにする。孫の誕生日を祝うことはできなんだが、孫の世話をやくつもりもない」
「……」
私は沈黙するが、母も妻の父も席を立つ。
「あの子は鬼ですよ。いずれ必ず私達の元に戻ってくる。鬼の仲間として……」
「人の父としては誇れるものだろうが、自身が鬼子であることを忘れないことだ。父親としての立場がお前を滅ぼすぞ」
「……」
「選ぶのはお前だ……好きにすればよい。それにしても、なかなかどうして打つ手が早い」
父の言葉は最後まで耳に届くことはなかった。突然、出入り口が爆発するように燃え上がったのだ。
「寝ていると思っていたが、すでに準備を整えていたか……。だが、やはり子供。限界があるな。さて、逃げるとしよう。私達の替え玉はすでに用意済みだ。誤魔化すには十分だろう」
「あれは必ず鬼となる。私達の仲間となる。私の元に戻ってくる。それは間違いない事実ですよ」
私も妻も立ち上がり、炎がわずかに弱い裏口に向かって歩みだす。窓は炎に包まれてはいないが、予想通りに爆破炎上を始めた。
こうすることが鬼でなくて、なんというのだ。
私はそう胸の中で訴えたが、それを見透かすように父がいう。
「あれは鬼ではない。忘れるな。あれは私達の鬼の血を拒絶した存在。リルケ・シュターナーというただの狂った人間だ。気をつけろ、狂人は時に鬼を食い殺すからな」
父と言葉を交わしたのはそれが最後。それ以来、私達は偶然出会うことはあっても、連絡を取り合うこともなく、自らの鬼としての道を歩み続けた。
そう、今ならわかる。
私の息子は私や妻や祖父母達の血を受け入れず、それら全てを排除した。
そこにいるのは、リルケ・シュターナーという新たな血を有した別種の存在なのだ。
周囲は炎と煙に包まれている。だが、その炎は霧散せず、風にも揺れず目的の物だけを燃やし尽くしている。
「……あなたは一体、何者なの?」
アーシアは傷ついた身体を抑え付けながら、炎を身に纏っていた鬼龍に尋ねた。だが、返ってくる言葉は同じ。
「俺は鬼龍。でもそれ以上それ以外でもない」
「宝玉とは、何?」
「信仰の対象。炎を宿した神の落し物……とでもいっておこう。宝玉は延々と捜し続け、待ち続けていた。自分を受け入れられる人間を……」
「それがあなただったと?」
「嬉しいことじゃない。選ばれてしまったという事実は、俺がまともな道を歩むことなどできないことを意味していた。俺がそれを受け入れれば桃源郷は桃源郷ではなくなる。仲間は俺を許さなかったに違いないし、信仰の対象がなくなれば、仲間は世界に散るだろう。俺はいずれ帰る場所をなくし、宝玉の力が導くままに血まみれの道を歩むことになる。俺の傍らにはまともな人間は立つことができない」
だから、花梨を受け入れることができなかった。いずれは宝玉を受け入れ、仲間と敵対することになる。自分はそれでも構わないが、花梨を巻き込むわけにはいかなかった。それに、宝玉の指し示す道が平和なるものであるはずもない。その血まみれの道を進む中、花梨は命を落とすだろうことは疑いの余地はない。
「だが、そうなる前に桃源郷は変わった」
言葉の意味がアーシアに突き刺さる。
わかっていた。
それをしたのが自分の祖先であることを。だからこそ、桃源郷に関わりがあるだろうリアの護衛を、無理を通して引き受けたのだ。
もしかしたら、出会うかもしれない。
それを期待して。
だが、現実は壊れ果てていた。
Mの手によって、桃源郷の村人達は無残な姿に変えられてしまったのだから……。
外の世界を知らず、知らないからこそ平和だった桃源郷に、祖父は外の価値観を持ち込んだ。それが火種となり、ゆっくりと確実に火種は大きな炎となり桃源郷そのものを燃やし尽くしたのだ。
再び、そこを訪れたロベルト・タルティーニは、燃え尽きた桃源郷を見て、それに気付いてしまった。
「ロベルト・タルティーニは悔いていた。謝罪したかった……あなた達に。彼は死ぬまで苦しんだ」
「……謝罪の必要はない。いずれは同じ道を辿ったに違いないのだからな……。科学が生み出て、それが発展を遂げ、いけない場所はなくなったに等しい。あの時滅んでよかったのかもしれない。今の時代にそれが発見されていれば、もっと悲惨な結果が待っていただろう」
桃源郷が永遠にそのままでいられないだろうことを鬼龍は知っていた。ハーフとして生まれ、宝玉に選ばれ、外の世界を知っていた鬼龍は覚悟はしていた。自分が桃源郷を破壊するのが先か、外の世界が桃源郷を滅ぼすのが先か。それだけの差だった。
「それに、ロベルトを受け入れたのは村人の意思。誰もロベルトを恨んではいないし、あいつはいい奴だったよ。だから、お前もそれを背負うのは止めろ」
炎は燃やしつくす物をなくし、少しずつ小さくなっていく。鬼龍の仲間は、その欠片さえ残すことなく地上から消えていった。
「じゃあな……。あの世とやらがあれば、いつかそこで会おうぜ」
宝玉が鬼龍の中に消えていき、その身を包んだ炎もまるで最初から存在していなかったかのように消えていった。
そして、鬼龍はいう。
「さて、Mとやらの様子を見にいくとしよう」
「リルケさんは、大丈夫でしょうか……」
「狂人を心配する理由はない」
ただ、緑華はどうなったのか、それだけが鬼龍の気にかかる。
鬼龍達は、Mが逃げた先である駐車場にたどり着いたのだが、先頭を歩いていた鬼龍が足を止めた。
「お前ら、ここで待て」
「え?」
リアもアーシアも戸惑う。
はるか先に人影が見えるが、それが誰か判別することはまだできない。しかし、鬼龍にはそれができた。
「リルケの野郎は無事だ。が、お前らには少々ショッキングだからな。当分、肉が食えなくなるぞ」
「……」
鬼龍の言葉が何を意味するのか、リアもアーシアも薄々気付いた。おそらくはそういう残酷極まりないことをリルケがしたということだろう。
自ら他者に対して行ってきたことを、今度は自らの身で行われた……ということだ。しかも、自分の息子の手によって……。
ただMに対する哀れみも、リルケに対する嫌悪感も浮かんではこない。
短い期間ではあったが、リアもアーシアもリルケを知った。さらにMという人物を知ることもできた。故に、二人は確信する。
リルケはMとはまるで違うことを。そして、リルケが自分の肉親がどういう存在であるのか知っていることを。
おそらく、リルケはそれを食い止める存在なのだ。
Mを前にし、Mという存在を知った二人は、リルケだからこそ、嫌、リルケでしかそういう存在を止めることができないだろうと思った。
が、止めるだけでは飽き足らなかったのだろう……。
リアとアーシアは鬼龍のいうとおり、そこで留まった。
「自分の父親をそこまでするとはな……。狂人らしいことだ」
鬼龍の前には無残な姿となったMが転がっている。まさにミンチと呼べる姿だが、同情する気持ちはさらさらない。
「リルケ・シュターナーは否定する。これは俺の父親じゃないってな。俺は新人類。誰の血も引いていない、泥から生まれた存在だ」
「どうとでもいえ。お前がこいつとは違うことはよくわかっている。カナリアが傍らにいることを選んでいるのが証明だ」
鬼龍はMに対する感慨などなく、そのままMという存在に興味を失う。だが、傍らの緑華に視線を落とした。
「礼をいわないといけないな……」
「リルケ・シュターナーは少し驚いた。礼をいわれるということは、死んでいないってことか?」
「通常のナイフならば、死んでいたかもしれないが、こうも細いナイフならばなんとかなるだろう。こいつは龍族で不死だからな。再生能力は優れている。もっとも、これを抜いても、すぐには意識を取り戻さないだろうがな……」
「……」
リルケとしては別に緑華のことに興味を抱いてはいなかった。ただ、緑華は鬼龍をここに連れてきた。記憶を宿したまま。鬼龍の危険性を知っていたにもかかわらず。とすれば、Mの呪縛から逃れる可能性があるだろうと判断しただけだ。
完全にMに取り込まれていれば、Mが消えたとしても世界に対する毒にしかならないが、そうでなければ薬にもなれるだろう。
「リルケ・シュターナーは告げるぜ。これで仕事が終ったわけじゃないってな。無駄だとしても、人にはそれが必要なときもある」
「そうだな……。リアの役目はまだ終っていない」
祖父から託された仕事は終っていない。リルケと鬼龍の仕事はまだ終ってはいないのだ。
ただ、もはや敵となるものがいないのは、確かでもある。
二日後。
合流を果たしたカナリアも含めた面々は、目的の場所にたどり着いていた。そこは古い炭鉱跡ですでに閉鎖された場所だ。炭鉱内がどうなっているのかわからないし、空気が薄いならともかく、有害なガスが充満している可能性もある。
そのため、鬼龍が一人で中に入り、それを探し出してきた。
「……これだな。お前の祖父が隠していたものは」
鬼龍の手には金属製の箱が握られている。厳重なもので、そうそう壊れないだろうし、湿気なども中に入らないような立派なものだ。
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。中身を先に確認し、途中で燃やしたり、隠したりしてんじゃないだろうなってさ」
「そのために貴様がデジタルカメラを持たせたんだろうがよ。後でしっかり確認しやがれ。ほらよ、リア。お前の探し物だ」
リアはそれを受け取る。
「これで祖父も安心できますね……」
祖父が恐れていたのは万能薬の悪用だ。そして、それはMによって現実になっていたが、リルケと鬼龍によってそれは消滅した。後は、この中にあるものを消すことで、万能薬は消え果る。
だが、同時にいいのか……という思いもあった。万能薬は人の夢。多くの人を救うことができるのかもしれない。それを自分の一存でしてもいいのか。Mという存在がいなくなった今となればなおさらだ。
躊躇しているのが周囲の人間にもわかる。
だが、鬼龍だけが淡々と伝えた。
「おそらく、その箱の中にはお前の祖父が残した研究データが入っている。そして、その核心もな」
「核心……?」
「あぁ、そこにはきっとこう記されている。簡単にいえば、再現は不可能とな……。投げ出したといってもいいが、こうも記されているだろう。万能薬という水は、水が万能薬であると。つまり、その水自体が問題であり、その水を復元するのは不可能だってな」
「祖父の行為は無駄だと?」
「嫌、間違いなく核心だ。ただの水では役に立たない。その水を手に入れることが重要なんだ。水の成分を解析し、それと同じ水を人工的に作り出すことは不可能。ならば、その水自体を手に入れることで、万能薬に一気に近づくことができる。そう推理したんだろう。同時に……」
鬼龍は、リアの持つ箱をあけ、その中にあるノートを取り出した。
「あっ……」
開けることにためらっていたリアはわずかに動揺するが、鬼龍は構わない。
そして、笑んだ。
「お前の祖父はたいしたものだ。技術のない中、きちんと核心を得ている。奴は気付いたんだ。俺の渡した水は特殊。中でも特殊なのは、おそらくはその水には今の技術では発見不可能な微生物、もしくは細菌が含まれており、それが万能薬を生み出す糧となっている。そう書かれている」
「……でも、当時では無理だけど、今なら……」
アーシアの呟きに鬼龍は頷く。
「電子顕微鏡とかいうのもあるしな。おそらくは発見できるだろう。劣悪な環境、未熟な顕微鏡では発見不可能なものでも、今なら見つけられる」
「じゃあ、万能薬は作れるってことですか?」
カナリアが問い、リアが続く。
「鬼龍さんがいうところの、桃源郷の水。それがあれば、万能薬が作れる……」
万能薬に近づく鍵がそこにはある。
どうすればいいのか。
そう思った面々の中、鬼龍はリアから箱を奪い取り、ノートと共にそれを炎で包んだ。手の平で燃えていく万能薬の鍵。
唖然とするリア達の前で鬼龍がそれを投げ捨てた。
「いっただろ、無駄だってな。人間というのは、それがどれほど重要なものなのかわからない。わかるまでには時間がかかり、気付いた時にはもう遅い」
「……」
リルケは何を意味するのかを悟って、軽く笑む。
そして、鬼龍はいう。
その言葉を……。
「桃源郷は崩れ落ち、今じゃ立派な鉱山だ。湧き水は潰され、その水はもはや地上に上がることはない。泥に塗れた異なる水ならいくらでも沸いて出ているが、万能薬のもととなる水は二度とお目にかかることはない」
鬼龍の故郷はもうない。
それを知らぬ人間の手によって潰されてしまった。
それが現実だ。
だが、リアはそれを聞いてほっとした。どういう結果にせよ、祖父の無念は炎と共に消えていったのだから……。
「……ありがとうございます……」
リアはそっと呟いた。
終章 それぞれの居場所
まったく嫌になる。
物心ついたときには、すでに気付いていた。
自分の父親が、自分の母親が、自分のジジイ共が、自分の祖母が、どんな奴らなのか。
世界にとっての猛毒が勢ぞろいしてやがることに気付いていたさ。
それを思い返す度に俺は思うわけだ。なんで物心ついたかつかないかのガキなのにそんなのわかんだよってな。
ようするに、俺は生まれつきの狂人だってことなんだろう。
まともだったのは母方の祖母一人。哀れだったのもその祖母一人。鬼どもに囲まれて、さぞ悲惨な人生を送ってきたのだろう。が、最後の数年は、あの村ののんきなジジババに囲まれて静かに逝ったんだから、最後よければ全てヨシとしておこう。
ただ、俺はしくじった。
さすがにガキだったということだ。
鬼どもは火の手から難なく逃れ、いずこかに消え去った。残されたのは誰の物ともしれない遺体が五体。村ののんきなジジ医者はそれを俺の両親、祖父母と断定したが、それはまぁどうでもいい。
どのみち、俺は奴らを探す。
探して、追い詰め、殺すだけ。
そのための力を俺は手に入れている。
そして、きっとそれができるのは俺一人。世界の猛毒を封じ込めることができるのが狂人だってんだから、この世界はきっとどうかしちまっているに決まっている。
それにしても……俺はどうやら本格的にどうかしちまっているらしい。父を殺して清々してやがるんだから。だが、まだ四人もあんな奴らが残っているというんだから厄介なことだ。
まぁ、いいさ。
ゆっくり、のんびり探すことにしよう。
俺は狂人。
狂人の名は、リルケ・シュターナー。
鬼どもを殺すのを目的にしていたが、寄り道ばかりの駄目人間。延々一人で生きていくだろうと思ったのに、なぜか隣にガキ一人。
いっておくが、人一人いないものとして生活するのは結構しんどいものなんだぜ。
空港にて、それぞれがそれぞれの国に帰る日がくる。
「お世話になりました、アーシアさん」
「いいえ。私もあなたと出会えてよかったわ。いろいろと清算できたしね」
「リルケさんとカナリアさんも、お世話になりました」
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。仕事だしな……ってな」
「リアさんもお元気で。連絡してくださいね。手紙でしか無理だけど」
「連絡します。絶対」
「また、何かあれば、連絡を頂戴」
「はい」
飛行機の時間が近づくがリアはしばらくアリア達とそこに立つ。たった一人で日本に着たが、帰りは一人ではないためだ。
「緑華。そろそろ時間だ、リアが待っている」
「……そうね」
緑華は意識を取り戻した。リルケの投げ放ったナイフは、最重要な箇所を避けながら、埋め込まれた電極を破壊した。緑華が龍族であり、リルケが尋常な人間ではないからこその結果だ。
目覚めた緑華はMが死んだことを知らされ、仲間を失ったことを聞かされた。Mにされた仕打ちを忘れることなどできないが、それでも彼女は生きる意志を見失わない。流れるままに生きてきたが、彼女の心は常に絶望を拒絶していた。
強い心の持ち主だからこそ、鬼龍は緑華を友として時を過ごしていたのだ。
「リアを頼む。時間の問題だろうが、義母はまだリアを狙っているだろうからな」
「あなたほどではないけれど、これでもあたしは龍族よ。人一人守ることはできる」
緑華はリアと共に行くことを決めた。リアの身に何が起こったのか知っていたこともあるが、このまま鬼龍の傍らにいることはさすがにできないと判断したためだ。
心の整理がつくまで。
そして、静かな時の流れに身を浸すために……。
そんな緑華の同行をリアは了承した。緑華はMの仲間ではあったが、最後には鬼龍をMの前に連れてきた。そのままキャンプ場に置いてきていれば、おそらくリルケ一人では対処できなかったはずで、Mも逃がしていただろう。
それに、彼女の悲劇の原因が自分の祖父にあることもわかっていたためだ。
償いの意味合いもあったが、それ以上に緑華を一人にさせてはいけないとリアが感じたからでもあった。
「じゃあな、緑華。またいずれ……」
「えぇ、そのときは……」
共に故郷を訪れましょう。
言葉を飲み込み、緑華はリアと共に彼らの前から姿を消した。
そして、それから一時間後。
三人もまた母国に戻る。
「リアの義母は近いうちにこの世から消えるでしょうね」
アーシアの言葉に傍らの鬼龍はわずかに反応する。それはアーシアが数多の情報を収集して出した結論で、リアにはすでに伝えたが、彼女は自然にそれを受け入れ、それ以上の感情は持たなかった。
リアの祖父も父親も、会社の人間に殺された。リアの父親の経営方針に反対していた人間達がそれをしたのだ。遺産がリアのものになれば、経営参加に興味を持たないリアから会社株を手に入れることができる。そう判断してのことだったのだろう。だが、父親の持ち株は妻が握り、彼女は経営に介入してきている。義理の娘の殺害を企むようなド素人が経営に参加することを彼等はヨシとするはずもなく、すでに水面下では、義母を排除することが計画されているらしい。
「それに、いよいよ危ないとなれば、彼が動けばいいだけよ。彼にはそれしかできないのだから」
カナリアが空港内の店を眺めて周り、その後にリルケが続いている。
「そうだな。あの狂人にはそれしかできない」
「あなたには感謝するわ。今回のことも、祖先のことも……」
「別に、どうでもいいことさ。ロベルトは短い付き合いだったが友人だったよ……。いい奴だった。できれば、直接会って奴を慰めてやりたかったがな……」
「いつか、こちらにきて。彼の墓の場所を教えるから」
「そうだな……いつか、そうさせてもらう」
アーシアが手荷物を手に取り、カナリアに声をかける。カナリアの手には荷物はなく、リルケが村の人間に配る土産を抱えていた。
「それじゃあ、鬼龍さん。また会いましょうね」
「今度はお前一人でこい。そこの狂人はいらない」
「はっはっは。ミケランジェロは、タフスキーに出会って、眠って起きて寝て、最後は最後の晩餐だ」
「じゃあな、カナリア。せいぜい、この狂人の面倒でもみてろ」
最後までリルケはリルケのままで鬼龍はそんなリルケを無視した。できれば二度と会いたくないが、あれほどの力を持つ人間。どうせまた会うことになるだろう。
「元気でな」
鬼龍に向かって三人が手を振る。うち一人は今生の別れのように満面の笑みをうかべ、おそろしく腕を振っている。
そして、鬼龍だけが残された。
「見送りごくろうだったな」
背後から声がかかる。黒い瞳に黒い髪。鬼龍が携帯で連絡を取り合っていた少年だ。
「名残惜しいんじゃないのか?」
「別に」
「そうか。まぁ、一人とはいえ仲間が見付かったんだ。よかったじゃないか」
「そうだな。そういうことにしておこう。ただ、少し肩の荷がおりた。いろいろと過去の清算ができたからな。そうだ、お前にも礼をいっておく。いろいろと面倒をかけた」
「構わないさ。どうせ俺も暇だった。さて、そろそろいくか」
「そうだな」
少年が二人、空港から外に向かって歩みを始める。新たな故郷と呼べるその場所に向かって……。
数日後。
イタリア北部のとある森の中。
カナリアは両手いっぱいの花束をその場所に備えていた。その大地の下に両親が眠っているのだ。
少し放れた場所にはアーシアと上司であるマルチェロ少将が立っている。
「今回の仕事は大変だったようだな……」
「えぇ。少将はダンテ大佐とお知り合いで?」
「友人だ」
「ではやはり、私達の情報を流していたのですね」
「カナリア嬢を傷つけるつもりはなかった。逆に、引き離したことでカナリア嬢の身を守る意図もあった……」
確かに、そういう一面もある。それに両親の遺体のある場所も探したのだ。カナリアの身を案じていたのは確かなのだろう。
「少将は、カナリアさんのことを知っていたのですね」
「……あぁ。彼女の両親も知っていたし、その両親を殺しカナリア嬢を手中にした男のことも知っていた」
「……あなたもダンテ大佐も……」
「そうだな。カナリア嬢を見捨てたということだ。両親の前で好きなように好きなだけ歌っていたカナリア嬢を知っていた。そして、その後、あの男の前で歌わされていたカナリア嬢も知っていた。だが、当時はどうにもできなかった……。あの三年間……、彼女がどんな生活をしていたのか……私もダンテも知りたくはないさ。君は知りたいか?」
「……いいえ……」
「彼女に怯えるものは意外に多いのだよ。合わせる顔がない。子供一人救えなかったのだから。だから、リルケが彼女を救ったことを知ったときには驚いた。あの男だから救えたのも確かだろうが、本当は引き離そうとしたんだ。リルケはああいう人間だからな」
「……」
否定できない。
「だが、彼女は私を覚えていた。そして、リルケの傍らにいることを選んだ。それ以来、私は彼女に会おうとはしなかったが、できる限りのことはした。同時に、これから先もできることはしたいと思っている」
「……カナリアさんはいつも笑っていましたよ。どんなときも、傷ついたときも。それに歌がとても上手いです」
「天使の歌声……私達は彼女をそう表現した。それは今も健在か……」
「認めたくはないですが、リルケの傍らにいることが、彼女にとっての幸せなんでしょう……」
「……認めたくはないがな」
「今度、カナリアさんの歌を聞きにいきませんか?」
アーシアの問いに、少将はわずかに迷う。
だが、鼓膜に残り続ける歌声の記憶。それを否定はできない。
「そうだな……。そうしよう……」
少将は大きくなったカナリアの背中を静かに見守る。
そして、そこからわずかに進んだところにある道路には二台の車が止まっていた。その一方の車内。
そこにダンテ大佐とリルケがいる。
「……Mを殺したか……」
「……」
「嫌、殺すことができたのか……というべきかもしれないな。ありとあらゆる楔から解き放たれたあの男は、誰にも止めることができないと思っていたが、やはりお前はお前。狂人にしか奴は殺せなかったということだな……」
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。後四人残っているってな」
「……そうだな。私が知っていたのはお前の父親と、祖父だけだ。だが、侮るなよ、リルケ。彼は自らを鬼と呼び、自らの子を鬼子と呼んだ。Mは所詮、鬼子。本物の鬼はまだ残っている……。彼等は世界にとっての猛毒。たった一滴でもその気になれば世界を病に取り込むことができる」
「……ふん」
リルケは車内に出て行く。それを見、そしてカナリアが道路に戻ってくるのをみたダンテ大佐はやれやれとため息をついた。
「リルケ。貴様が私の傭兵団を壊滅させた恨みは消えることはない。だが、カナリア嬢がお前の傍らにいることを選び、それを選んだからこそ、あの歌声はいまでも天使の歌声のままでいる。だから、生かしておいているだけだ。カナリア嬢を悲しませれば、私も少将も許さないからな」
「リルケ・シュターナーはいっているぜ。何の話だってな」
「貴様に駆け寄ってくる少女の話だ」
ダンテ大佐はそこで扉を閉めた。
車内越しに、いつものようにリルケの服のすそを握るカナリアが見える。理解したがたいし、理解したくもない現実だが、認めるしかないのだろう。
ダンテ大佐はそう自分を納得させると、その車を出し、その場から去っていった。
「さて。当分の間、正規の仕事はないだろう。しばらくは骨を休めるといい」
少将の言葉をリルケは聞き流す。仕事の話しならば耳を傾けるが、仕事がないなどという話しには耳を貸す必要もない。
「あまり好き勝手なことをしないようにね、リルケ。あなたが何を目的にしているかわかってはいるし、できるだけ協力はするわ。だけど、暴走はしないで」
「さくら、うめ、すみれに、ひまわり、あぁ、日本の冬には花がいっぱいだ」
「それは全て、春から夏の花よ。冬に咲く花なんて、そうはないわ」
アーシアもさすがに今回の旅で、多少はリルケに対する業を身につけた。とはいえ、これから先も、リルケに苦しめられることになるだろう。
狂人は狂人のまま、変わるはずもない。
「では、帰りましょう。近くの町まで送っていくわ」
少将はすでに車に乗り込み、アーシアが運転席に向かう。だが、リルケはそこに留まった。
どうしたの……?
と口にするところだったアーシアだが、その必要はない。
先ほどまでリルケの傍らにいたカナリアが、空を見上げ、森を眺めながら先を歩いているのだ。
カナリアが徒歩で帰ることを選ぶのならば、リルケもまたそれに付き合うのみ。見えぬ相手に、『車に乗れ』などということはできないのだ。
「近くの町までは相当あるけど、まぁ、がんばってね」
「リルケ・シュターナーはうんざりだ」
先の言葉はない。
それをアーシアは微笑みで返し、自分は車に乗り込んだ。
そして、車が遠ざかり、仕方なくリルケはカナリアの元に向かう。あくまでも、そこにカナリアがいないという風に……。
「さぁて、ジジババばかりの村に帰るとするか」
その声がカナリアに届いたのか、駆け寄ってきた彼女はリルケの服のすそを握りながら、『はい』と返事をする。
そして、カナリアは歌う。
楽しそうに、幸せそうに、狂人の傍らで歌を歌うのだ。
それがカナリアの選んだ、彼女の幸せでもあった。
了
凶刃狂想曲 田沼和真 @uedatyouminn
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