第4話 泡沫

 Ⅳ


 人生というものは、一日で、いや、僅かな時間さえあれば、一気に変わってしまうことを、彼女は……マリア・グリヒルは嫌というほど知っていた。


 キンググラントの都心部、駅からほど徒歩五分くらいの場所に、小さな喫茶店「WATCH TOWER」はあった。サンドイッチとサラダ、それとコーヒーという簡単な朝食セットを低価格で提供しているため、朝食を食べそびれた勤め人が通勤途中に訪れることが多い。マリアの業務は主に接客だったが、やりがいこそないものの、比較的安定した生活を過ごせているのは今の職場のおかげであることは十分理解していた。


 そのニュースをマリアが目にしたのは、客が使用していたテーブルを清掃していたときだった。店内に設置してあるテレビでは、食事中でも情報収集をできるようにと、電源が入りっぱなしなのだ。尤も、店長以外でテレビを見ている人を見かけたことが無かったが。

 テレビでは、昨日の夜に発覚した、ワーナー保険会社の不祥事をどの番組も大々的に発信していた。


『ワーナー保険会社、不当契約の指示を認める』

 五日前に『警備員の人質事件』の舞台となった事務所にて、以前から疑惑をかけられていた『鱗病患者』への不当な保険契約の証拠となるものが流出していたのだ。違法な契約を結ばされた顧客リスト、隠し帳簿、さらには、『鱗病患者対応マニュアル』という、契約を結ばせる際の手順が記載されたものまで、データ化した上で、複数の大手の新聞社へ匿名で送られたのだという。


 とても、昨日の昼までは人質事件の被害者として扱われていた会社とは思えないほど、レポーターが、キャスターがワーナーを口汚く攻撃していたのに耐えきれなくて、マリアはテレビを消した。

 ワーナー保険会社に同情したわけではない。むしろ、彼らが『鱗病』を利用して多くの患者を苦しめていた報いを受けているとも思っていた。だが、それと同時に、大多数の人々がこうして口を揃えて対象に罵声を浴びせる様は、彼女の心に大きな負担となっていたのは事実であった。

 人は自分が思っているほど他人の表面しか知らないのだ。「人の価値は内側だよ」とキレイごとを言う輩ほど、見ているのは外面ばかりだ。だから、一旦レッテルを貼られたら、それを剥がせない限り自分の評価を覆すことなど不可能であるというのが、彼女がこの五年間で学んだことだ。


「あれえ?なんでテレビ消したのぉ?」


 休憩室から店長の声が聞こえる。事務作業のお供にテレビの音声を聞いていたのだろう。


「すみません……ニュースが不快で……」

「あ、そうなの?」


 店長は呑気な声を上げる。ここで働き始めて一年経ったかどうかの間柄であるが、多少無神経なところはあるものの、融通の利くゆるい性格であることは知っている。


「まあ、ワーナーなんて前から胡散臭いところだったからねえ。自業自得だよ」

「そうですね」


 店内に従業員以外がいないことをいいことに、扉越しにこちらに話しかけてくる。作業が余程退屈なのだろう。


「なんだっけ?鱗病の人に違法な契約してたんだっけ?酷いことするよなあ」

「そうですね……」


 自分の声が若干震えたのを感じた。動揺を、店長に悟られてはならない……『鱗病』と自分は無関係なのだ。少なくとも、店長の中では。ワーナーと自分につながりなどないのだ。そう自分に言い聞かせながら、マリアは業務を再開する。


「そういえばさあ」

「今度はなんですか?」

「ワーナーのことで思い出したんだけどさ、昨日の夜にうちに警察が来たんだよね。君が帰った直後に」

「警察、ですか?」


 一瞬だけ、嫌な予感が頭をよぎる。勿論、マリア自身は警察に追われるようなことはしていない。だが、ワーナー関連でとなると、ネガティブな想像しかできないのだ。


「そうなんだよね。まあ、調査というよりも、仕事の合間に一人で寄っただけみたいだったけども」

「ああ……」

「そりゃそうだ!僕は悪いことなんてしてないからね!」

「本当ですかね?フフッ」


 茶化して誤魔化すが、内心は安堵しかなかった。自分目当てだとばかり思っていたのだ。


「それで、何故ワーナー保険の話が?」

「あ~そのときにさ、丁度ワーナーの不祥事が発覚したってニュースがやっててさ、そしたら、その刑事がめっちゃ食い入るようにテレビを見始めたんだよ。直前まで見向きもしないで飯食ってたのに」

「え……」

「それで、他に客いなかったし、俺から話しかけたのよ。もしかして、契約してたの?って。そしたらさあ、その刑事さんが俺に言ったのよね。『知り合いにワーナー保険会社と契約をしていた人はいませんか?』って聞かれたのよ。俺は違うって言ったらそうですかって言ってたのを思い出してさ」

「そう、ですか……」


 私には無関係だろう……そう思うことにした。正確には、願望だったが、その方が落ち着くし、動揺だって隠せるだろう。


「そもそも、アメリカじゃあ、自分で保険会社選ぶのだってできない人が多いのに、ワーナーみたいな保険料の高いとこ選ぶ奴がいるわけないだろって話なのにな!そもそもの話、保険制度変わってから結構経ってるけども、強制的に保険会社入れられても、正直こっちは毎回税金も保険料も払うので精一杯なんだってわかってないんだよ、制度作った奴らは!」

「ですよね……」


 話題がどうやら、アメリカの医療保険制度に流れそうだったので、マリアはこう返事をする。ワーナーの話はなるべくしたくないからだ。

 普段は自分と店長の人種の違いに関して気にしていなかったが、店長がイラつきを隠せていないのを見るに、現在の医療保険制度への全員加入の強要は、「白人」の「中収入層」に取ってはやはりメリットよりもデメリットの方が強いのだろう。幼い頃、覚えてもいない故郷から、母親と一緒にこの街に越してきたマリアとしては……アメリカの外から越してきた低所得者にとってはありがたい制度だと思っていたが、それは自分達の払う保険料の補助を税金で賄っているからだろう……

 それでもなお、移民の娘であるマリアを雇ってくれるだけでなく、国の政策による苛立ちや非白人への差別感情をぶつけてこないのも、ここで働けている大きな理由の一つだろう。人種差別が表向きは無くなったと言われて久しいが、白人と有色人間には今も当人達にしか見えない溝があるのだ。白人と白人以外で対応が露骨に変わったことだって何度も目にした。だが、少なくともこの店の店長は、従業員の仲間は、肌の浅黒い彼女に対しても好意的に接してくれている。それだけでも、マリアにとっては大切な場所となっている。


 だからこそだ。


 彼女は未だに自分が、かつて『鱗病』に感染していたことを言えないのだ。この場所すら失ったら、もう、居場所がないのだから……

 春も終わるという季節であるにも関わらず長袖のインナーを着ているマリアの両腕には、今も尚、忌々しい鱗が残っている。この鱗だけは……誰にも見せるわけにはいかない……



  

 仕事が終わって、夜の帰路。

 キンググラントは治安が良い方ではないとはいえ、他の郊外の地区のように女性が一人で歩けないほどではない。電車や車でなら、首都圏へ行くのも苦になるような時間はかからないのだから、かつてはベットタウンとして有名だった。『鱗病』さえなければ、キンググラントという街は静かで、適度に栄えている、住み心地のいい街なのだ。

 だからこそ、普段とは様子が違うのなら、すぐに分かる。マリアの住んでいるアパートのそばに見慣れない車が止まっていたのだ。道路を塞がないような場所とはいえ、アパートの駐車場の出入口付近にこっそりと置いている様は、なるべく目立たないようにと苦心したかだろうか?勿論、だからなんだという話だ。他の住人に用がある可能性の方が高い。だが、それとは別に嫌な予感もしていた。仕事中に店長から聞いた話を思い返していたのだ。あのタイミングで「ワーナー保険会社」との関係を調べている刑事が出てきたこと自体、自分と無関係なはずなのに……

 だが、『鱗病』によって、自分が何回も人生を狂わされたのだ……自分が予想もしていなかったタイミングで……


 階段を上り、自分の部屋の前まで来た時だった。


「えっと、失礼、マリア・グリヒルさん?」

「ハイッ?!」


 後ろから唐突に声をかけられ、思わず声が裏返る。後ろにいたのは二人の男。一人は金髪の白人、もう一人は黒髪を短く整えた黒人だ。自分が圧倒的に不利な状況で、マリアは思わず手にしたバックを盾にして身構える。


「ああ、失礼しました……我々、キンググラント市警のものです」

「キ、キンググラント市警……?」


 背中がゾクリとした。なんでわざわざ自分のもとに警察が来たのか、理解できなかった。何故?どうして?不安ばかりが頭の中を駆け巡った。

 彼らが呈示した警察手帳を見ると、白人の方はマーティン・ベルモット、黒人の方はガービー・イメイジという名前だった。


「あの……警察の方がどうして私に?なんのようでしょうか?」

「ああ……申し訳ありません、いきなり……貴女に御報告しないといけないことがありまして。携帯にかけても出ませんし、勤め先に電話したときには既に貴女は仕事を終えていたので……」


 マーティンの説明を聞いて、マリアは今日職場に向かう際に携帯電話を家に置き忘れたことを思い出した。


「ああ……それはお手数おかけしました……それで?要件とは?」

「はい……言いにくいことなのですが……」


 マーティンは口を濁す。隣にいるガービーもよく見たら沈んだ表情だ。


「マリア・グリヒルさん……貴女のお母様が……その、つい先ほど、亡くなりました」



 不幸とは……毎回こうやって予想もしない方向からやってくる……


 マリアがその場で崩れ、泣き崩れるのは、それから直ぐのことだった。


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