第5話 呪印

 Ⅴ


 感染したのは『鱗病』が流行り始めた頃だった。感染経路が不明な新種の伝染病を、当時マリアが勤務していた病院は受け入れ、治療し、療養させていた。勿論、当時は感染の恐怖との戦いだった。いつ自分達が感染するかわからないまま、一人、また一人と増えていく患者の世話をしないといけないのだ。感情の疲労は尋常でなかったのは、今でも覚えている。

 それなのに……看護師は皆、感染がないよう心がけながら勤務をしていた。それなのに、鱗病患者を担当していた看護師の中で、マリアだけが、『鱗病』に感染した……今思い返しても、どうやって感染したのか、分からなかった。何が悪かったのか、それすらわからないまま、看護師から一転、伝染病の患者へ変わってしまったのだ。

 完治までの数日間は、地獄だった……思い返すだけでも、未だにあの時の苦痛が蘇る。微熱が出たと思ったら、半日もかからない間に意識が朦朧するほどの高熱に変わった。次の日は、一日中全身を激痛が駆け巡り、それが収まったかと思ったら、今度は腕から背中にかけて、何千本ほどの針で刺されるような痛みが何にも続くようになった。痛みだけじゃない。肌の表面が波打つように、朝晩問わず疼いた。おかげで、症状が治まるまでの間が、眠ることすらままならなかった。

 そして、痛みが引いた、その日の朝だった。鏡の前で顔を洗っていたときに、自分の腕の、背中の肌が、醜い鱗状に変質していることに気が付いたのだ。

 完全に“異物”が張り付いているとしか思えない肌の表面に生えた“鱗”。それが、両手から胸にかけて斑に敷き詰められていた。目と鼻の先で見て初めて分かったが、鱗は歪んだ菱形で、土色の混ざった黄緑色をしていて、お世辞にも綺麗と言えるものでなかった。そして、触れれば微かであるが、感触がある。


 ああ、これは自分の皮膚なのだ……


 鱗病患者は何人も見てきた。本来、人間の肌にはない“鱗”で覆われた彼らを見ていたから、外見上の嫌悪感はあれど、彼らを遠ざけたいと思うほどのものではなかった。それは、自分が完全に無関係だとどこまで思い込んでいたから、そう思っていたのだった。自分の身体にある“鱗”の存在に気が付いたときの感情は、嫌悪感を超えていた。


 自分の身体への拒絶だ。


 嫌だ……嫌だ、嫌だ!


 痛みも熱によるふらつきも忘れるほど、彼女は自分の肌を掻きむしった。何度か力強く引っ掻いて、ようやく数枚の鱗を剥がすことができたが、その頃には床に血だまりが出来るほどの流血をしていた。


 鱗病患者への偏見は無かった。だが、この鱗があったら自分がどう扱われるのか、世間が元患者をどう扱うのか、それは嫌というほど知っていた。“感染経路不明”の異常な感染症の恐怖は、患者、元患者への差別や迫害へとつながっていた。当時はまだ“鱗病”の流行の初期であったが、それでも患者、元患者が居場所を奪われたというニュースは何度も耳にしている。

 患者だけでない。鱗病患者を請け負った病院勤務者への態度も日に日に悪化していった。言葉では現場で戦う彼ら、彼女らを口では応援はしていても、露骨に距離を空けられたり、よくわからない液体を家の玄関の前にかけられたりした。

 つまり、この鱗は……これから彼女が今以上の差別の禍に巻き込まれることを証明している、呪印スティグマでしかないのだ。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 マリア・グリヒルから話を聞くことができたのは、結局、翌日の午後のことだった。場所は彼女の勤務先である喫茶店「WATCH TOWER」店内。自宅よりもここで聞かれた方が落ち着くとのことだった。そんな彼女は、現在厨房の片づけの最中だ。

 店内には他に人はいない。本来であれば営業時間真只中だが、店長が午前だけの営業に変えたのだという。相変わらず、人がいい人だ。


「って、なんでお前がそんなにここの店長に詳しいんだよ」


「一昨日も来たんだよ。普段は別の店で夕食を食ってるんだけども、あの日は臨時休業してたからさ」


 俺はガービーにそう言いながら、サンドイッチを頬張る。あの時は、ニュースで丁度、ワーナー保険会社の不祥事が報道されていたときだったな。

 それにしても、ここのサンドイッチは絶品だ。耳付きの食パンでレタス、スライストマト、ハム、エッグペーストを挟んだ、シンプルなものだが、使っている素材が違うのか、自分で作ったものよりもはるかに美味い。ガービーに至ってはお替りが欲しいなあとも言っていた。普段の夕食はハンバーガーばかりなもんだから、こういった油が少ない料理をたまに食べたくなるものだ。

 昼食後、早速俺たちは本題に取り掛かる。ミス・グリヒルへの聞き取りだ。


「昨夜は……申し訳ありませんでした……」


 開口一番、こう言ったミス・グリヒルの表情は暗い。ヒスパニックに見られる褐色肌のせいで分かりにくいが、目元が昨夜よりも皺が増えている。一晩中号泣していたのかもしれない。まあ、無理もない、いきなり警官から母親の死を聞かされたのだ、むしろ、こうやって直ぐに場所と時間を確保してくれたのは幸いだった。


「いえ、こちらこそ、このような場所と時間を設けてもらい、感謝します」


「こちらこそ、昨夜は突然申し訳ありませんでした……」


 定型的なやり取りとはいえ、俺は謝意をミス・グリヒルに伝える。


「それで……何故、警察が母の死を?」


 ミス・グリヒルは、当然思ったであろう疑問を早速口にした。丁度いい。俺達もそのことを話に来たのだから。


「お母様……セシア・グリヒル様が“ワーナー保険会社”と契約していたのは、御存じですか?」


 ミス・グリヒルは一瞬強張った表情になった。やはり……


「ワーナー保険会社のことはご存じで?」


「はい……あの……すみません」


「あ~大丈夫大丈夫!」


 ガービーが呑気な声で口を挟む。


「我々が貴女の“事情”を校外には漏らしませんよ!勿論ここの店長にもね。それは我々が保証しますぜ!」


 こうやって初対面の相手でも気楽な口調で話せるガービーが同席してくれたのは、今みたいな暗い案件のときには本当に助かる。


「失礼ながら、貴女が……正確には貴女のお母様が『顧客リスト』に載っていました」


「顧客リスト……ですか?」


 ワーナー保険会社は、不正契約の証拠を隠していたのだ。その証拠の一つが『顧客リスト』だ。勿論、ただの顧客リストじゃない。


 鱗病患者をターゲットにした、不当契約を結んだリストだ。

  


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 昨日のことだった。キンググラント市警察署は朝から険悪な雰囲気になっていた。


 前日の夜に放送されたワイドショーのせいだ。


「『ワーナー保険会社、不当契約の指示を認める』……ねえ」


 露骨に機嫌の悪い声でムーア警部は呟く。警察が持っていない事件の証拠を、放送局側が手に入れていたのだ。他にも、週刊誌などにも、その証拠の写しが渡っていたらしい。おかげで、早朝からメディアへの対応を俺達は強いられていた。


「君も災難だね。事件を担当して、今日から頑張るぞ!ってタイミングで……これだ」


「自分も驚きましたね……」


 俺は丁度「WATCH TOWER」で夕食を食べていた時だったな。


「今丁度、ワーナーへ聞き取りに……いや、こうやって犯罪の証拠が上がってきたんだ、取り調べといってもいいだろう」


「俺以外の人に、ですね?」


 まあ、俺が追うのはあくまで『鱗の男』だ。ただ……


「あの……警部?」


「なんだね?」


「この証拠品の送り主って……まさか、奴でしょうか?」


「……丁度僕もそう思っていたんだよ……『鱗の男スケイルマン』だな……」


「スケイルマン……ですか?」


「安直だが、分かりやすいだろう?鱗の男……スケイルマンだ。そのまんまなネーミングだが、まあ、かのダ・ヴィンチも『単純であることが一番洗礼されているSimplicity is the ultimate sophistication』と言っていたじゃないか」


「まあ、確かに……」


 とりあえず、奴……スケイルマンの目的を俺たちは“鱗病患者の代わりの復讐”かと仮定していたが、これでわかった。


 奴の目的は“告発”だ。


「どうした?浮かない顔だね」


「いえ……余りにその……」


 人間らしいやり方で拍子抜けしたのは事実だ。いや、本来なら襲撃されている場所や奪われたものの共通点からそれを疑うべきだったのだ。だが、それは、俺がスケイルマンに強い偏見を持っているからだろうか?

 脳裏に浮かぶ男は、弱者のために犯罪を犯す義賊ではなかった。暴力による恐怖を振りかざす……鱗の怪物だったから。


「いや、思ったよりも知的だな……と思いまして……」


「むう……マーティン君よ、君はスケイルマンを怪物だと思っているかもしれない。その気持ちはわかるよ?怖がっているともいう気はない……」


 ただね、とムーア警部は続ける。


「相手のステータスを見誤ってはダメだ。相手は怪物じゃない、確かな意思をもって罪を犯している犯罪者だ……それはわかってるね?」


「はい」


「なら、今やることはなんだね?」


「今ですか……?」


 そう問われ、しばしの思考のあと、ふと思いついたことを口にする。


「送られたワーナーの不正の証拠……どうやって送られたとかわかりますか?」


 奴も人間と同じことをせざる得ないとするのなら……その証拠はどうやっておくった?輸送で各所に送るにしても、奴の痕跡をゼロにすることはできないだろうから。


 その日の午前のうちに、証拠を送られた新聞社から、件の“証拠品”が送られた。証拠品といっても、その殆どが複写された書類、あるいは文章ソフトの内容を印刷したものであったが、問題はその内容だ。


「うひゃあ……これが顧客リスト、うわ、こっちは隠し帳簿の写しだあ。あいつら、俺の年収の何倍もの金を蓄えてやがる……許せねえな」


「ガービーの場合は、飯代と漫画代削るだけでもマシになるだろ」


「なんだよそれ!QOLクオリティーオブライフを第一に生きてるんだよ俺はよ!」


 ガービーはそう言いながら、片手で資料をめくりつつ、もう片方の手でドーナッツを頬張る。


 それにしても……丁度手が空いていたからとガービーを巻き込んでみたが、正解だった。資料の数自体はそこまで多くはないが、書かれている情報量が一人では捌ききれない程度には量があったからだ。


 それはつまり、被害者の数もそれだけ多いことを意味している。


「えっと、鱗病だけでも何百人もあるなあ……えっとここに書かれているのってみんな鱗病の患者なのか?」


「いや、正確には違う」


 ワーナーの行っていた契約は「AB契約」と呼ばれるものだ。これは、A(契約者本人)とB(被保険者)が異なる契約であり、主に、本来なら保険契約の対象外になるような人をターゲットにしているものだ。勿論非合法な契約だ。ワーナーは更に、鱗病患者向けに格安のプランを提示していたが、これも有事の際の保険適用の条件が厳しい上に、その条件をわざと見えにくい場所に記載するなど、詐欺に近い契約をして、法外な利益を得ていたのだ。


「ここに載っているのは、鱗病患者本人ではなく、その家族だ。親、兄弟姉妹、友人の代理もある。おそらく、患者本人には無断で契約させらている。鱗病は今ですら難病扱いだからな。ただでさえ入りにくい保険がより入りにくくなっている上に、鱗病の治療費だって馬鹿にならない。挙句、感染がきっかけで失業した人だってかなりの数だ。そら、無理矢理に搾り取ってれば、結構な額になるさ」


 俺はそう一席ぶる。つい昨日ネットで調べた知識しかないが。スケイルマンと出会わなければ、自分から調べなかっただろう。


「へえ……詳しいんだなあ……俺にはさっぱりな話だ……」


 少なくとも、俺よりもキンググラントに住んでいるはずのガービーが呑気に言う。同じキンググラント市民でも、鱗病が身近だった人間とそうでない人間とでは、やはり感じ方が違うのだろうか?ガービーは鱗病の流行当時は、日本式の衛生管理……つまり、手洗い、うがいをしっかりしてたから大丈夫だったとは言っていたが……


「てことは、この中にもしかしたらアイツと何か関係がある人がいるのかもしれないって思ってな」


「アイツ?もしかして鱗の?」


「そうだ。ワーナーの直接の被害者だからな。無理矢理な契約を結ばされた恨みだってあるはずだ。そんなときに、復讐を代行してくれる存在がいたら……」


 そう考えると、人質事件をわざわざ起こした理由も推測できる。世間の目がワーナーに集まっているタイミングで不祥事の証拠をばらまけば、社会的な制裁もより強くなる。


「とりあえず、片っ端からここに記載されている人たちについて調べるしかない……奴につながる手がかりは今はこれしかないからな……」



 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「つまり……そのリストの中に、私の母の名前があったのですね?」


「はい……」


 顧客リストの中にはマリア・グリヒルの母親、セシア・グリヒルの名前もあったのは事実だ。つまり……目の前にいるミス・グリヒルは、元鱗病患者だということだろう……

 俺は正直、鱗病の存在最近まで忘れていた程度には鱗病のことに詳しくはないし、差別意識だってないと言える。だが、彼女はどうだろうか?俺の考えなど、分かるわけないだろう。鱗病患者の受けた差別、偏見がどういったものなのか全く知らない……考えるだけで憂鬱になる。


「ワーナーが母にしたことは……少しだけですが聞いています……私が……はい、ご想像通り、数年前に鱗病にかかった私の治療費、生活費のために、母が保険契約を結んだと言いました」


「それが違法なものであることには?」


「母も薄々気が付いてたようです……元から良い評判は聞かない会社でしたから……だけど、少しでも私たの生活が楽になるならって……」


「胸糞悪いぜ……」



 ガービーはそう呟くと同時に舌打ちをする。


「それで……」


 ミス・グリヒルは続ける。


「母の死が……その……ニュースの件と何か関係があるのでしょうか?」


「……」


 さて、ここからがキツイ場面だ……緊張で肩が強張ったのを俺は感じた。ガービーも、ミス・グリヒルの問いを聞いて、表情が硬くなる。だが、捜査のためには、言わないわけにはいかないのだ……


「ええっと……落ち着いて聞いてもらえますか?」


「はい……」


「昨夜、貴女のお母様が亡くなったと言いましたが……」


 あの時、俺たちは正確には全てのことを言うことができなかった。比較的彼女が落ち着いている今でも、言ってしまうことに抵抗はあるくらいだ。

  

「死因は他殺です……貴女のお母様、セシア・グリヒルは、何者かに殺害されていたのを、昨日、発見したんです」


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