2020年、夏。定年退職して魔王始めました。

揣 仁希(低浮上)

定年魔王降臨する。



 2020年、7月16日。

 私──楠木 真樹史くすのき まきふみはこの日40年勤めた会社を定年退職した。

 大学を卒業し就職して、ほどなく結婚。

 3人の息子達も皆それぞれ家庭を持ち幸せに暮らしている。


 私は長年通った道を普段よりゆっくりとした速度で歩いて我が家へと向かう。


 部下達から貰った花束と最寄りの店で買った妻へのささやかな感謝を込めたケーキの箱を抱えて私は我が家へと辿りついた。


 35年ローンで買ったこの家も私と同じく随分とくたびれてきた様に思う。

 台所の明かりは今日も仄かに灯っていて、玄関先からはいい香りが漂ってくる。


「ただいま」


 玄関を開けるとふわりと漂ってきたのは、子供っぽいとよく笑われた私の大好物のハンバーグの香り。

 それに加えて愛する妻の軽快な鼻歌。


 妻は私と結婚した当初、売れないアイドルだった。

 今で言うところの地下アイドルといったところか。


 見た目や歌唱力に難があった訳でもなく、私としては何故花開かなかったのかが未だに不思議で仕方ない。


「あら?おかえりなさい」

「ただいま」


 台所に立つ妻が振り返って変わらぬ笑顔を見せてくれる。

 妻──なぎさは私より7つ下だが年齢より遥かに若く見える。

 もう50を過ぎているにも関わらず充分に30代でも通りそうなほどに未だ若々しい。


 結婚当初は会社の同僚に散々揶揄われたものだ。



「長い間お疲れ様でした」

「うん」


 テーブルについて缶ビールで乾杯をして、なぎさがそう労ってくれる。

 この日、私達は夜遅くまで今日までの日々を語り合った。

 楽しかったことも苦しかったことも沢山あったが、振り返るといい思い出と言ってよいものだった。




 定年退職してから特に何もやることがなくなってしまった私は趣味だったパソコンの前に座ることが多くなった。


 そんなある日、私は書斎のデスク脇に積まれた参考書や資料の数々に紛れた一枚の紙切れを見つけた。

 そこには何かのURLが一行だけ書かれていた。


 筆跡は私に間違いない。だが記憶にはない。


 はて?これは何のURLだったか……私は何気なしにそのURLを打ち込んでみた。



「なるほど……そう言えばこんなゲームもあったか」


 そのURLは10年程前に若い部下に誘われてやったゲームのURLだった。

 当時流行だったMMO RPGとかいうやつで、確か部下は招待特典とか何だかが欲しいからと言っていたのを思い出した。


 10年以上全く触りもせずにいたそのゲームは今や世界中で大人気になっているらしく……私が始めた頃の様にPCでするのではなくVRというものでする仕様に変更されており、その案内が私のパソコンに届いた。


「さしてやることもないし、ゲームもたまにはいいかもな」


 何かに引き寄せられたかのように私は翌日そのVRという物を買いに家電量販店に行ってみた。

 若い店員の男性に事情を話すと直ぐに目当ての商品を持ってきてくれた。

 彼もそのゲーム──『Crown Krown』というのだが──をしているらしく熱心に如何に面白いかを語ってくれアドバイスもしてくれた。


 そんなに有名なゲームなのだろうか?

 そう言えば妻も若い頃はゲームをよくしていたので帰ったら聞いてみようと思う。



「え?あなたも『Crown Krown』を?」

「なんだ、なぎさはこれをやってるのか?何だ……じゃあキミに聞けば良かったな」

「ふふっ」

「な、何だい?」

「いいえ、何だか楽しそうだと思って。てっきりゲームなんて興味ないのかと思ってたから」


 妻はそう言って自室から今私が買ってきた物と同じ物を持ってきた。


「家にあったのか……じゃあ買う必要もなかったな」

「違うわよ、これは私の。あなたはあなたのでやらないと一緒に出来ないでしょ?」

「へぇ、そういうものなのか?」

「そうよ。ほらほら、始めましょ」


 こうして私は10年ぶりに『Crown Krown』の世界へとログインした。


 ………………

 …………

 ……




 昔はPCのテンキーを操作して動かすようなゲームだったはずがいざ始めてみると現実と全く違わない感覚に驚かされた。

 身体の感触も肌に感じる暑さも、景色も行き交う人々も現実さながらだ。


「……これはゲームなんだよな?まるで現実じゃないか……技術はこれ程進歩していたのか……」


 パソコンが趣味とはいえやる事といえば画像を見たり音楽を聴いたりするくらいだった私にはカルチャーショックだった。


「なぎさはどこにいるんだろうか?」


 辺りを見渡しても行き交う人々の中に妻らしき姿はない。


「まいったな……」

「あらあら、あなた見た目もそのままなのね」

「え?」


 私に声をかけてきたのは若い女性だった。

 透き通る様な肌に美しい金髪、端正な顔立ちに……ピンと尖った長い耳。


「私よ、私。なぎさよ、あなた」

「え?な、なぎさ?いや……しかし、ああ、そうか。ゲームの中だったか……」

「ふふっ、あなたってここでもそのままの姿なのね」

「仕方ないだろ?別にするつもりもなかったのだから」


 なぎさ……ゲーム内ではセリナというらしいが、それは若い頃のなぎさの芸名だ。

 私は妻と街をしばらく散策した後、彼女の家へと連れてこられた。


 なんと驚いたことにゲーム内で家も購入出来るし結婚したり子供が産まれたりもするらしい。

 一瞬心配になりその辺りの事を聞いてみたが、セリナは独身だった。


 妻の家で私は色々な事について彼女から教わる事が出来たのだが……どうやら私はとんでもないことになってしまっているようだ。


 10数年手付かずだった私のキャラクターにはその間の継続特典の様なアイテムが山の様に届いていた。

 更に作った時には気にも留めなかったが、私のキャラクターの職は【魔王】となっていて妻曰く、ゲーム内に9人しかいない【魔王】のひとりなのだそうだ。

 試しに今の総プレイヤーの数を聞いてみたところ5000万人くらいと、とんでもない返事が返ってきた。


 もう何が何か分からなくなった私は妻と共に一旦ログアウトしてどうするかを教えてもらうことにした。




「まさかあなたが最後の【魔王】だなんて夢にも思わなかったわ」

「……私もだ。これはやっぱり作り直したほうが……」

「ダメよ!あなた!世界に9人しかいない【魔王】なのよ!絶対消したりしたらダメですからね!」

「あ、ああ。うん、分かったよ」

「あなたが【魔王】なら噂の『魔王プレイ』が出来るはずよ。私も一緒について行くから楽しみましょう」

「ま、魔王プレイ!?」

「ふふっ、そう魔王プレイよ。プレイヤーの敵になってやりたい放題出来るのよ!他の【魔王】はみんな自分の国を持っているし……あなたも国を作ればいいわ!」


 目を輝かせて話す妻を見ていると、それも悪くないかと思えてくるから不思議だ。

 例えゲームの中だとはいえ一緒に過ごせるし、何より妻の楽しそうな顔が見られる。


 思えば子供達が家を出てからずっと2人きりだったのに何もしてやれてなかったな。

 こんな楽しそうな妻の顔を見るのは本当にいつ以来だろうか……


 …………


 よし!やってやろうじゃないか!

【魔王】とやらを!


「決めたぞ、私は今日からしっかり【魔王】をやるぞ!なぎさ、すまないが色々と教えてくれ」

「まぁ、あなたったら。そんなに気合いを入れなくても」

「いや、やると決めた以上は私は本気だ。見ていてくれ!私はやるぞ!」

「まあまあ、あらあら」




 こうして私は9人目の【魔王マキシ】として『Crown Krown』の世界に降り立った。


 さぁ!魔王プレイの始まりだっ!!






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

2020年、夏。定年退職して魔王始めました。 揣 仁希(低浮上) @hakariniki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ