第35話

 演奏会の感想を語り合っていると、にこやかな笑顔を見せて絵里が言った。

「あの人の寝息、何だかとてもおかしかったですね。音楽が静かになると聞こえて」

 演奏が始まってからまもなく、絵里の前の座席から寝息が聞こえ始めた。サラリーマンらしいその男の寝息は、となりの人に注意されるまで続いた。

「あの人も、きっと音楽が好きな人だと思うよ。わざわざ出かけたんだからさ」

「この前に会ったとき、松井さんはLPを聴きながら眠ることがあると言ったでしょ。音楽を好きな人って、かえってそんなことがあるのかしら」

「LPならば子守歌にできるけど、演奏会で寝てしまったらもったいないよ」

「演奏会が子守歌っていうのもぜいたくだけど、寝ちゃったら子守歌も聞こえないから、やっぱりもったいないわね」

 絵里の言葉に僕が笑いだすと、絵里もいっしょになって笑った。抑えられたその声が、僕の耳には好ましく聞こえた。

「僕だって、場合によったら居眠りするかも知れないよ、あの人みたいに。マージャンで寝不足になったりすれば」

「マージャンをするんですか、松井さん」

「学生時代に、マージャンの好きな友達に誘われたんだ。洞察力が強くなるからやってみろって。僕もたまには遅くまでつき合ったけど、卒業してからは一度もやっていないよ。それほど好きなわけじゃないし、そんな暇もないからさ」

「兄は好きなんですよ、マージャン」

「そうか、意外な感じだな、坂田がマージャンをするとは。もしかすると、坂田の洞察力はマージャンのおかげかもしれないな」

「そんなに洞察力があるんですか、兄さんは」

「坂田の洞察力はそうとうなもんだよ。僕たちがこんな店に入ることだって、坂田にはお見通しだと思うな。だからさ、月曜日に坂田に会ったら、あいつは僕に向かって言うはずなんだ。演奏会のあとで絵里といっしょにケーキ屋に入って、二階の席でケーキを食いながら、うまいコーヒーを飲んだだろう。お前を見ただけでおれにはわかる」

 絵里は控えめな声をあげて笑い、「松井さんは、私のこともそんなふうに洞察できますか」と言った。

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