第34話
「この次も僕のほうが先に来て待つことにするよ。近づいてくる絵里さんを、どきどきしながら見たいからさ、今日みたいに」
それを口にしたとたんに、僕はかすかな狼狽をおぼえた。絵里の気持ちをほぐしてやるつもりの言葉の中に、自分の気持ちがまぎれこんだような気がした。
「ごめんなさい、先にお礼を言わなくちゃいけないのに」と絵里が言った。「ほんとにありがとうございました、あのテープ。とっても素敵です、ショパンもシューマンも」
絵里に贈るために、ショパンとシューマンのピアノ協奏曲をダビングし、一週間ほど前に坂田に渡しておいた。それがよほど気に入ったのか、絵里はそれら二つの協奏曲のことを夢中になって話した。
「そんな風にして、ヘッドホンであのテープを聴きながら小説を読むのって、ほんとに素敵ですよ。BGMみたいな感じですけど、くりかえして聴いてます」
「気に入ったクラシックでも、そんなに聴けばあきるだろうから、別のものをダビングしてあげるよ」
「ごめんなさい」と絵里が言った。「なんだかおねだりしちゃったみたい」
しばらく話しているうちに、絵里の笑顔からかたさが消えた。二週間ぶりの二度めの出会いだったが、僕たちをうちとけた雰囲気がつつんでいた。
演奏が始まっても、僕は音楽に集中することができなかった。横にいる絵里を意識しながら考えた。会場を出てからそのまま駅に向かうというのでは、絵里に淋しい想いをさせるような気がする。どこかに立ち寄って、演奏会の余韻を楽しむとしよう。ふたりとも食事はすませていることだから、飲み物だけでいいだろう。
会場を出ながら絵里に誘いかけると、絵里はうれしそうに同意した。
地下鉄の駅へ向かう途中にケーキ屋があり、その2階が喫茶室になっていた。飲み物を注文すれば、特製のケーキがついてくる店だった。店の中の階段をのぼって、僕たちは喫茶室にはいった。
コーヒーとケーキはすぐに出てきた。絵里はケーキをながめ、それから僕を見て嬉しそうにほほえんだ。笑顔を絵里にかえしてから、僕はコーヒーカップをとりあげた。絵里はケーキの皿を両手で引きよせた。
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