第32話
自動販売機のそばで紙コップを手に立ち話をしていると、坂田がとうとつに先日の演奏会のことを持ちだした。絵里は演奏会のことをとても喜んでおり、そのような機会をさらに持ちたがっている、ということだった。僕はそれを聞いて、佳子の存在を知らせなければならないと思った。
「実はおれのつき合っている人も音楽が好きなんだ。埼玉に住んでいるから、いっしょに演奏会に行くことはめったに無いけどな」
僕の話したことに意外な感じを受けたらしく、坂田はとまどったような表情を見せた。
「そうか・・・・でもいいじゃないか、音楽会に行く程度の浮気なら。お前にはつき合っている人がいること、家に帰ったときに絵里に話すよ。がっかりするだろうけどな」
坂田の「がっかりするだろうけど」という言葉が僕の胸にさざ波をおこした。甘美な想いを伴うさざ波は、ここちよく拡がりかけたけれども、すぐに不安を伴う予感がそれを抑えた。自分の心の不確かさをかいま見たような気がした。僕は佳子に対してうしろめたさを覚えた。
僕は心の揺れをおさえて言った。「絵里さんが聴きたがってるなら、もちろん喜んでつき合うよ。おれだって、一人で聴きに行くより、絵里さんといっしょの方が楽しいからな」
演奏会の日の別れぎわに、絵里は「もしも迷惑でなかったらですけど、いつかまたいっしょにお願いできますか」と言った。絵里の遠慮ぶかそうな声と笑顔を前にして、僕は喜んでつき合うと答えたのだった。絵里が望んでいるというのであれば、それを拒むわけにはいかないと思った。
多少のこだわりはあったけれども、僕は絵里の希望に応えることにした。そして、僕は自分に向って言いわけをした。約束通りに絵里を演奏会につれて行き、そのついでに自分も楽しいひと時をすごすのだ。そのことに問題があろうはずはない。いったんその気になると、なるべく早く絵里を演奏会につれて行きたくなった。
その日は夕食を終えるとすぐに自分の部屋に入り、プレイガイドに立ち寄るたびに持ち帰っていた、演奏会に関わる資料を取りだした。さがしてみると、どうにか良さそうなのがあったので、電話で坂田にそのことを伝えた。
坂田を介して絵里の都合をたしかめてから、つぎの日の夕方には入場券を買った。演奏会まで四日しかなかったので、良い席はすでに売りきれていた。
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