第29話
絵里を見ながら坂田が言った。「松井、どこかに寄らないか。せっかくだからさ、絵里に音楽のことを話してやってくれよ」
喫茶店をさがしながら地下鉄の駅に向かっていると、駅の入口に近いところでようやく見つかった。
コーヒーカップを手にしたまま、僕はその日の演奏会の解説をした。オーケストラの特徴や演奏曲目のこと、さらには作曲家のことなど。僕の向い側が坂田で、そのとなりが絵里だった。絵里はきれいな瞳を輝かせながら、僕の話にだまって耳をかたむけていた。
いつのまにか、坂田に向って話しかけているときですら、僕は絵里に聞かせるために話しているような気持になった。
「だったら、わたし、ラフマニノフよりも以前の人が作った曲も聴いてみたいですね」と絵里が言った。
「テープにダビングしてあげるよ、絵里さんが気に入りそうなのを。さっきも話したんけど、絵里さんのラジカセだったら、ヘッドフォンで聴いたほうがいい音で聴けるからさ、音質のいいヘッドフォンも貸してあげるよ」
「うれしいです」絵里が僕を見つめるようにして言った。「ありがとうございます」
「どんなのにしようかな」僕は絵里の気に入りそうなものを考えた。「さっき聴いたようなピアノ協奏曲ということで、シューマンとショパンのにしてみようか。他にも何か考えとくよ」
音楽の話がしばらく続いたあとで、銀行のことが話題になった。絵里が語った職場での体験談は、銀行の内部のことを知らない僕にはめずらしく、そして面白かった。
喫茶店でのひとときを、僕はうかれたような気分ですごした。自分に向けられた絵里の笑顔を意識して、僕はいつになく冗舌だった。
絵里がひかえめな性格だということは、最初に言葉を交わしたときにわかった。絵里のものごしやその口ぶりに、そして、笑顔の中の美しい眼に、誠実で優しい人がらがにじみ出ていた。そんな絵里が僕には好ましく思えた。絵里が僕の心に残したものはそれだけではなかった。僕は気がついていた、絵里もまた僕に対して好意を持ってくれたということに。佳子という存在がありながら、ほかの女から好意を持たれたという意識が、僕をうわついた気分にしていた。
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