第11話

「おじさんにバイバイしようね」絵里が笑顔で子供を抱きあげた。「松井さん・・・・それじゃ、気をつけて。会えてうれしかったわ」

「僕もだよ。会えてよかった。ほんとにありがとう、ここまで来てくれて」

 僕は女の児に「バイバイ」と別れのあいさつをした。絵里は子供の手をとって、小さくふりながら「バイバイ」と言った。僕は「それじゃ、お元気で」と声をかけ、ふたりに背を向けて歩きだした。

 ゲートの前でふり返ると、子供を抱いた絵里が手をふった。僕も同じようにかた手をあげた。ゲートを通ってからもう一度ふりかえると、子供の手をひきながら歩いて行く、幸せそうな絵里のうしろ姿があった。


 客室乗務員に声をかけられて我に返った。飲みものが配られている。

 受け取った缶ビールのふたをあけ、口をつけながら窓の外に顔を向けると、夕方の雪原に似たかげりを見せて雲海がひろがり、白い波のかなたは暗い空とつながっている。かすかに赤みを帯びた色あいが、夕焼けのなごりの空を思わせる。

 ヨーロッパでは夕焼けを見なかった。初めて訪れたヨーロッパだというのに、曇っている日が多くて残念だった。それどころかケルンは寒かった。

 あの裏通りをふるえながら歩いたせいで絵里に会えたのだから、ケルンが寒かったことには感謝すべきだろう。あの喫茶店で若いふたりづれを見ているうちに、絵里に会ってみたいという気持ちがつのり、それが僕をロンドンへ向かわせることになった。その結果とはいえ、ようやくにして、絵里に祝福の言葉を贈ることができた。

 坂田や絵里と出会ったあの年から、すでに16年が経っている。さほどに長い歳月とは言えないにしろ、過ごしてきたその歳月に、さまざまな体験と記憶が積み重なっている。その中には輪郭が薄れているものすらあるはずだが、16年前のあの年にかぎれば、ひっぱり出した記憶には、どんなものにも鮮やかな形が残っている。出会った人にまつわることも、心にきざんだ想いのことも。

 新宿の大衆酒場で坂田と語り合ったとき、同じ会社で仕事に励んでいた頃のことが話題になった。

 坂田が言った。「覚えているか松井、お前が会社をやめる少し前に、こんな感じの店で話し合ったことを。仕事に対する技術者の執念を話題にしたよな」

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