第10話
もしかすると、絵里は夫とのことを話しているのではないか。坂田から聞かされたところによれば、絵里が夫と結ばれた経緯には音楽が関わっていたはずだ。
「それにしても、ずいぶん古いテープが残っていたんだね」と僕は言った。
「ロンドンに持ってくるCDやテープを選ぼうとしたとき、それが見つかったの。私をクラシック好きにしてくれたテープだし、そのために幸せになれたんだと思うと、なんだかお守りみたいな気がしてね。だから、持ってきちゃった、こんなとこまで」
やはり絵里は夫とのことを話しているのだ、と思った。音楽を通して夫と出会うことができたことを、そして、クラシック音楽に関心を持つきっかけを与えた僕に感謝していることを、いかにも絵里らしいやり方で僕に伝えようとしているのだ。
「こんなお守りは、もう無くてもいいわけだね、今の絵里さんには」と僕は言った。
「もしかしたら、ロンドンで暮らすことに自信がついたからかも知れないけど」
そうかも知れないと思った。絵里はいかにも幸せそうだし、明らかに自信をもって生きている。今の絵里には必要がないのだ、幸せを守るために何かを頼りにすることなどは。
絵里は続けた。「松井さんとここで会うことになってから、急に思いついたの、そのテープを返そうって。それがいちばん良さそうに思えたのよね、なんとなく。ごめんなさい、なんとなくだなんて」
絵里の心の内がわかるような気がした。僕が贈ったこのテープが絵里の幸せに幾分かは関わっているにしても、僕を思い出させる品物をいつまでも持っていたくはないはずだ。テープを僕に返すということは、絵里にとって好ましいことに違いない。
僕はテープに眼をとめたまま、「このテープ、今日の記念にもらっておくよ。ありがとう、絵里さん。わるいけど、僕は何も用意してこなかった」と言った。
「とてもすてきな贈り物をいただいたのよ、わたしは」と絵里が応じた。「松井さんらしい祝福の言葉。あれ以上の贈り物はないもの」
僕は機内持ち込み用の小さなバッグに、未熟だった自分を思い出させる、そして、絵里に祝福の言葉を贈った日の記念になるカセットテープを入れた。
搭乗手続に向かわねばならない時刻になっていた。絵里と語り合った時間は一時間に満たなかったけれども、僕には大きな満足感があった。
絵里に手をひかれている子供の足に合わせて、保安検査場へ向かう通路をゆっくりと歩いた。
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