第9話
どうしたわけか、運命の赤い糸という言葉が思いだされた。絵里と最後に会ったとき、涙をうかべながら絵里が口にした言葉だ。
僕は心の中で言った。「あれからも、運命の赤い糸を自分で結ぼうとしてがんばったのか、絵里さんは」
その時ふいに、絵里に祝福の言葉を贈りたくなった。
「僕は知ってたよ、絵里さんが最高に幸せになっていることを。そのことを坂田から聞いて嬉しかった。ほんとうに嬉しかったよ」
絵里が声にだして笑った。絵里の幸せな想いがそのまま表れている笑顔と声だった。
「どうもありがとう。ずいぶん大げさに祝福されたみたいだけど、とても嬉しい、松井さんからそんなふうに言われると」
胸のうちに想いが湧いた。ようやくにして、絵里に祝福の言葉を贈ることができた。ロンドンに立ち寄って絵里と再会したのは、まさにそのためだったのだ。その想いに誘いだされるようにして、安堵感に似た感情がうかんだ。
絵里がハンドバッグをあけて何かをとりだした。封をしないままの白い封筒だった。絵里はその封筒をさし出しながら言った。
「松井さんに受け取ってもらいたいと思って。もし、よかったらだけど」
封筒の中にはカセットテープが入っていた。ラベルに記された文字を見たとたんに、16年前の記憶が誘いだされた。ラベルには僕のへたな字で、〈ショパンのピアノ協奏曲第2番、シューマンのピアノ協奏曲〉と記されていた。
絵里の声が聞こえた。「覚えてるでしょ、そのテープ。何度も聴いているうちにすっかり気にいって、私がクラシックを好きになるきっかけになったテープ。その曲をもっときれいな音で聴いてみたくなって、松井さんと一緒にヘッドホンを買いに行ったわ。覚えてますか、あの時のこと」
絵里がこのテープをまだ持っていたとは、と思いながら、僕はひと言「おぼえているよ」と答えた。
「松井さんのおかげでクラシックを聴くようになったし、松井さんのおかげで勇気を出してがんばれるようにもなって、そのおかげで幸せにもなれたのよ、わたしは。そういう意味でも松井さんに感謝してるのよ」
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