第7話

 その日はハイデルベルクを観光するつもりだったが、ロンドン行きの手続きなどに時間をとられたために、予定を変えてフランクフルトで1日を過ごすことになった。

 旧市街にあるゲーテの家を訪ねて、家の内部や展示品を見てまわった。ゲーテが使った羽根ペンや、紙に残されている筆跡を見て、学生時代に読んだ〈若きヴェルテルの悩み〉を思い出した。

 ゲーテの家を出てしばらく行くと、フランクフルトの大聖堂があった。建物の内外を見てもまだ時間があったので、街を見物しながら散歩することにした。道なりに歩いてゆくと大きな橋があった。マイン川のほとりだった。

 川にそった道をそぞろ歩いていると、ゲーテが活躍した時代の景観が想われた。ゲーテがかつて散策したかも知れないその道を歩いて、僕は新市街にあるホテルへ帰った。

 今朝はアラームが鳴る前に眼がさめた。朝食をすませるとすぐにホテルを出て、フランクフルトの空港へ向った。

 飛行機は少し遅れてヒースロー空港に着いた。乗り継ぎ手続きに予想外の時間を要したために、絵里と約束した時刻に遅れることになった。絵里が電話で教えてくれた場所に着いたとき、約束していた時刻を10分あまり過ぎていた。

 絵里は約束した場所で待っていた。ひとめで絵里だとわかったが、子供をつれている姿にとまどいをおぼえた。記憶の中の21歳の絵里と子供づれの姿が、束の間のとまどいを経てから重なった。あれから16年が経ったのだ。

 絵里はにこやかな笑顔をうかべ、明るい声でよびかけてきた。僕はその声に応えながら、絵里から受ける印象が、以前とは異なっていることに気づいた。かつての絵里はどことなく心もとなげに見えたものだが、目の前でほほえんでいる絵里には、そのようなところが少しもなかった。とはいえ、僕の前にはまぎれもない絵里がいた。やわらかいアルトの声ときれいな瞳、そして、控えめなものごし。

 絵里の横で幼い子供が僕を見あげていた。僕は子供の前にしゃがんで、絵里が教えてくれた名前で呼びかけた。女の児はむじゃきな笑顔で応えてくれた。歳はいくつかと問いかけると、女の児が小さな声で「にさい」と答え、2歳になったばかりなのだと絵里がつけ加えた。そのような言葉を交わしているうちに、絵里を眼にした瞬間に覚えたとまどいが薄れた。

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