第5話

 公衆電話の受話器をもどし、手帳に記した絵里の電話番号を見ると、新しいページの真ん中に、大きな数字が並んでいた。

 絵里にはホテルからかけることにして、それまでに心の準備をしておくことにした。

 夕食には早すぎる時刻だったが、通りすがりのレストランに入り、絵里にかける電話のことを考えながら食事をとった。電話をかけたら絵里はおどろくだろう。それだけならよいが、僕からの電話を迷惑だと思うかもしれない。そんな様子がうかがえたなら、早々に話をきりあげることにする。絵里の夫が電話に出るようなことになったら、どのように話をきりだしたものだろう。その場合には、絵里の兄の友人がヨーロッパを訪れたついでに、旧知の絵里に電話をかけた、と伝えるだけでよさそうだ。とはいえ、夫がそばに居ては絵里も話しにくいことだろう。

 絵里の夫が会社から帰宅する前に電話をかけたかったので、食事をおえるとすぐにホテルへ向かった。

 部屋に入って時計を見るとまだ4時半だった。1時間の時差があるロンドンは午後の時間帯といえたが、絵里が家に居るとはかぎらなかった。

 僕は絵里が在宅していることを願いつつ、冷蔵庫から出した白ワインを持って、電話の前の椅子に腰をおろした。

 僕はワインを飲みながら、旅行案内書でイギリスへ電話をかけるための手順を調べた。それをしっかり頭に入れてから、受話器をとりあげてボタンを押した。

 呼び出し音が聞こえると、電話で話し合っていた頃の絵里の声が思いだされた。「坂田です」と静かに応える声、あるいは、「絵里です」と嬉しそうに応えるうわずった声。

 しばらく続いた呼び出し音が消え、ようやく受話器から声が聞えた。

「ハロー、ズィスイズ、ホンダ」

 英語で応える声に一瞬とまどったが、僕は懐かしさにせきたてられるまま、大きな声で呼びかけた。

「ひさしぶりだね絵里さん、松井だよ。いま、ドイツのフランクフルトに来てるんだ」

 ぎこちない会話にならないように、僕は意識してかろやかな口調で話した。

 僕が言葉を切ったとたんに絵里の声が聞こえた。

「松井さんなの、ほんとに。久しぶりねえ、松井さん。フランクフルトにいるって、松井さんも旅行なの?」

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