第4話

 大聖堂を出てからのあてはなかったので、付近の道をそぞろ歩いた。厚い雲に覆われていたため、誘われるようにして入った道は暗かった。前を行くふたりづれの他には人影がなく、走る車も見られなかった。狭い裏通りに添えられたアクセサリーのように、建物のすぐ壁ぎわに赤い車があった。通り過ぎてから振り返ってみると、小さなその車は永久にそこに停っているように見えた。建物に挟まれている道は静かで、石畳を踏む音が大きく鳴った。残響をともなう音を耳にしていると、歴史を語るその道を、過去に幾度も歩いたことがあったような気がした。10月の末とは思えないほどに寒くて、歩いているうちに体が冷えた。

 表通りに出るとカフェが見えた。暖かいコーヒーに誘われるまま、僕は店に向かって足を速めた。

 客のまばらな店でコーヒーをすすっていると、女の笑い声が聞こえた。ひくく抑えられていたけれども、その笑い声はいかにもうれしそうに聞こえた。僕は思わず声の主をさがした。少しはなれた席で、若いふたりづれが肩をよせあっていた。笑い声がふたたび聞こえ、女は男に体をよせて肩をゆすった。ふたりのうしろ姿を見ながら、並んで腰かけることを望んだのは女の方かもしれないと思った。いっしょに喫茶店などに入ると、絵里はいつも僕の横に並んだものだった。絵里を喜ばせるようなことを僕がしゃべると、絵里は肩をよせながら小さな声で笑った。

 ささやき交わすふたりを見ていると、いきなり、絵里に会いたいという気持ちがわきおこってきた。絵里はロンドンにいるのだ。ここまでやって来ながら、絵里に会わずに日本へ帰るというのは、むしろ不自然なことではないか。会わないまでも、電話で言葉を交わす程度のことはすべきではないか。電話番号なら坂田に聞けばよい。そのような思案をしているうちに、絵里の声を聴いてみたいという気持ちがふくらんできた。

 フランクフルトに帰りついたとき、日本では夜の11時に近い時刻になっていた。遅い時刻が気にはなったが、国際電話をかけることのできる公衆電話をみつけ、思いきって坂田に電話をかけた。

「ドイツにいると、ロンドンのすぐ近くまで来ているような気がするんだよ。ここまで来ていながら、絵里さんに声もかけずに帰ったら、絵里さんに対して失礼だろうと思うんだ」

 言いわけがましい言葉を口にしてから、絵里の電話番号を教えてくれと頼んだ。

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