星明かりの夜

 暗い空には稲妻が光り、どす黒い色をした厚い雲達が大粒の雨を大量に降らせている。

 天候に関係なくいつも薄暗い森の中。肌寒く、何度もはく息を白く染めて走る少女がいた。

 少女は走り、何かから見付からないように、逃げるように空を見上げる。


「っ…もう!あいつらに見つかるなんて…さいあく!」


「見つけたわよ!この小娘!!」


「いつもいつも伯爵様に色目を使う人間め!」


「今日こそ八つ裂きにしてあげるわ!」


 暗い空に先の尖った真っ黒な翼を広げ、少女を逃がしまいと飛んでいるのはドラキュラ伯爵の花嫁達だ。少女は人間であるため彼女達と戦うような術も何もない。


「っ…どうしよう、追い付かれた…!」


 必死に逃げるが、空を飛ぶドラキュラ伯爵の花嫁達には敵わない…。

 空を旋回していたドラキュラ伯爵の花嫁達はやがて少女を切り裂くための、鋭い爪をむき出しにして急降下しながら少女を切りつける。


「っ…!いった…」


 少女の腕や顔を、ツーっと赤い線が無数に走る…遅れて感じる痛みと共に、赤い線からポタポタと雨水で薄まり地面に落ちる。


「人間など所詮赤子も同然!」


 ドラキュラ伯爵の花嫁達の高笑いが良く響く。

 それでも、冷たい風で吹き付けるようになった雨の中でも、少女は前の見えない中を必死で走り、木の根っこらしき物につまずいて足を滑らせたて顔から地面に転けた。


「ぁ!……っ…逃げなきゃ・・・」


 すぐに立ち上がって走り出そうとするが、足を豪快に擦りむいたようで痛みが走った。

 とても痛い…そう思っても走って逃げなくてはいけない。そうしないと、私がいなくなると悲しむがいる。


 ーーーえ…?


 必死の思いで立ち上がり、逃げようと足を踏み出したその瞬間…少女はバランスを崩し、頭から下に落ちていく。少女が足を踏み出したその先は、岩が鋭く剥き出している高い崖だった。


「いっ……きゃぁぁーーーーー!!」


 忌々しい、ドラキュラ伯爵様に色目を使う人間の小娘が崖から落ちるのを確認した花嫁達は、“いい様だ!”と高笑いしながらドラキュラ伯爵の住まう城へと帰って行った。


(…落ちる……助けて、ゼネルガ!)


 崖から落ちる、気持ち悪い浮遊感とこのまま死ぬかもしれない恐怖の中で、少女はドラキュラ伯爵の真名を心の中で叫んだ…助けてと・・・・・。






 ◆◆◆


 落ちる、落ちる、おちるッ_____。

 周りの景色が高速で過ぎてゆく…もう終わりだと、少女は後悔か鋭い風に泣かされたのか、涙の止まらない目を強く閉じた。


「キ…ルキ!」


 誰かが私を呼ぶ声がきこえる気がする。もしかして幻聴だろうか。でも、バサバサっ…と近付いてくる風を掴む聞き慣れた翼の音がする気がする。


「大丈夫だ、ルキ」


 すると、耳元で聞こえた男性の言葉…私を守るように抱き締める優しい腕、大丈夫だと私を慰めるように何度も何度も紡がれる愛しいひとの声。


「ゼネルガ…」


 少女は彼、ドラキュラ伯爵の存在を認めると、安心しきって意識を手放した。


 ーーーゼネルガあなたの傍なら大丈夫…


 そう安心した少女、ドラキュラ伯爵に“ルキ”と呼ばれた彼女の頬を温かい涙がキラキラと伝い落ちた。

 冷たい雨に混じる前のルキの涙を、ゼネルガは親指で拭い落とした。ルキのこの涙は不快だ。


「ルキ、わたしはお前を……」


 ゼネルガはルキを大事に抱くと自身のマントの中に包み込んだ。




 なぜ、わたしはで、お前はなんだ…


 それに、何よりも、なぜ世界はこんなにも、わたしが“ルキ”を愛することを許さないのだ・・・・・







 ◆◆◆


 ドラキュラ伯爵の所有する、もう1つの古城がある。

 ゼネルガは、その城の中央で1番高いところにある窓から部屋に入ると、ルキをベッドの上に優しく寝かせた。それでもずっと触れている自分の手を愛しい彼女から放すことはない。


「ルキ…わたしのルキ」


 彼女を起こしたいような起こしてしまいたくないような、そんな思いで髪を、頬を撫で…ドラキュラ伯爵はそっとルキの唇に口付けた。


「…ゼネルガ?」


 するとルキの瞳がゆっくりと開き、ドラキュラ伯爵をとらえる。どうやら起こしてしまったらしい。

 それと同時に、また同じ種族の女…伯爵の花嫁達に恐い思いをさせられてしまったルキに謝罪の言葉を贈ることしかできない。


「すまない。花嫁達が、また…」


 雨の音はしないが、もう外は暗いようだ。ドラキュラ伯爵の能力で部屋の中央にあるシャンデリアのロウソクに火がついているが、うつむく彼の顔は陰になっていて見えにくい…でも、ルキには彼が悲しんでいるように感じ取れる。


「ゼネルガ、泣きたいのなら涙を見せてもいいんだよ…?」


 ルキの手は傷の痛みを我慢しながらドラキュラ伯爵の頬にそっと触れた。彼は自分の弱味を誰にも見せないから…すると、つーっと彼の頬を涙が伝う。


「すまない…わたしはお前を守れなかった…」


 ぎゅっとルキを抱き締めて、まるで小さな子供のようにすがる彼をいとおしく見詰めるルキの目はとてもあたたかく優しい…そして、少し悲しそうでもある。


「大丈夫。私はちゃんと助けてもらったよ?」


 そうでなければ、今ここに私はいないのだから。きっとあのまま崖から落ちて死んでいたに違いない。


「駄目だ!お前は、傷だらけだ!わたしがっ……」


 ああ、そうやっていつもあなたは自分をせめる。きっと、私がいなくなったら…あなたはまた元の、人間に恐れられるドラキュラ伯爵あなたに戻ってしまう気がする。

 ルキはドラキュラ伯爵の頬を撫で、そして途中で言葉を遮遮るように唇をふさいだ。


「…大好き、ゼネルガ」


 ドラキュラ伯爵に触れたルキの唇は彼よりも冷たく、そしてよく見れば顔色も悪い…花嫁達につけられた傷口からの出血と雨にうたれて体温を奪われたのだ。

 それに、なっている原因は他にもあることをルキは知っていた。


「ルキ!今すぐにわたしの血を…!このままでは死んでしまう」


 ーーーあなたはいつもそうやって…


 いつものように、ドラキュラ伯爵は手際よく自分の服の袖をまくり自分の鋭い爪で傷付けた腕をルキの前に差し出す。

 そうするドラキュラ伯爵を、ルキは目の前に差し出された彼の腕を両手で包み込んで撫でながら笑顔で止めた。


「ごめんね、ゼネルガ…私はもう、肉体がダメなの」


 今までにも花嫁達や魔と関わった人間として村人達に襲われ、大怪我の度に“ドラキュラ伯爵の血”を体内に入れてきた。

 だが、たかが人間であるルキの肉体には傷は治ったとしても“毒”なのだ。どうやっても、愛しい彼とはにはなれない。


「いやだ!ルキ…わたしを置いてゆかないでくれ!!」


 痛いくらいにルキを強く抱き締めるドラキュラ伯爵の腕…それと同じくらいルキの胸が締め付けられる。

 この寂しがり屋を置いていって大丈夫だろうか。ああ、でも彼にとっては私と出会う前むかしに戻るだけだろうか。


「ごめんね、ごめんなさい…私が人間じゃなかったら、あなたのそばにもっといられたかもしれないのに…」


 ルキの瞳から、いつしか大粒の涙が溢れている。それは頬を流れ落ちてドラキュラ伯爵の手に落ちた。


「そんなことを言わないでくれ…わたしはルキ、お前がいてくれれば何もいらないんだ!」


 必死にルキにすがるドラキュラ伯爵をぎゅっと抱き締め返し、ルキは再び伯爵の唇に口付ける…。


「ありがとう。ゼネルガ…私はあなたを…ずっと、愛してる・・・・・」


 それを言うとルキの腕はだらっと落ち、動かなくなる…やがて心臓の鼓動が止まる。

 ドラキュラ伯爵には、もうルキが生きていない事が分かった。いつかこうなることも、分かっていたはずだった。


「…キ…ルキ……ルキ…ルキ……キ……」


 それでも、何度も何度も愛しいルキを呼ぶドラキュラ伯爵の声が、窓から星明かりの差し込む古城にこだまする。

 いつの間にか雨は止み、雲が晴れていた。







 ◆◆◆


 6年前、わたしはこの古城に迷い込んだルキを見付けた…


『あなた誰!?私を食べてもおいしくなんてないんだからね!!』


 美味しそうな血をしている人間の小娘。いや、とても興味深い可笑しな人間の少女だった。


『わたしはお前達人間の言う“ドラキュラ伯爵”だ。お前の名は何という?』


『ルキ…』


 わたしに怯えながらも名前を答えたかと思うと、お前は可笑しなことを口にした。今でもよく憶えている。


『ねえ、あなた空を飛べるでしょ?私ね高いところ大好きなの!空を飛んでみたい!!』


 久方ぶりに面白い人間を見付けた。このドラキュラ伯爵わたしにこんなことを言うとは・・・


『気に入った、ルキ。お前にわたしの真名を教えてやろう』


 だから、わたしはーーー


「わたしの名はゼネルガだ…」


 記憶の中の言葉を、音にした。

 腕の中のルキはもう、わたしの真名を呼ばぬ…

 ルキと初めて出逢ったのはこの古城だ。まだ幼かったが、確か歳は12だと言っていたはずだ。

 最初は恐がっていたくせに、わたしの翼を見た瞬間に目を輝かせた。


「散歩にでも行くか?お前は高いところが大好きなのだろう…」


 わたしは温もりのないルキをしっかりと抱き、窓から外へ出た。


 星明かりがルキの顔を照らす。


「…もう一度だけ、わたしを呼んではくれぬのか?」


 解っている…もう、お前の声を聞くことは叶わない。



 わたしは、ルキ…




 お前を…




「愛していた…」



 ドラキュラ伯爵はその名の通り、少女の首筋に牙を立てた・・・・・







 その日は、星明かりの強い夜だった。


 わたしの隣には今でもルキがいる。あの日、わたしが血を吸いつくしてしまったために体は干からび、時間がたつにつれて肉が崩れ落ちて骨が剥き出しになってはいるが、“わたしのルキ”はにいる。

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