第16話
霧崎泉の件など、世界にとっては本当に小さな出来事でしか無くて、いざ日常に戻ると彼が起こした事件など大多数の人間には何の影響もないことを殊更実感する。
あの一件で発生した被害は世間に知れ渡ることも無く、ごく普通に日常は動いている。
三日ぶりの登校になるが、特に友人もいないオレは誰に心配されるわけでもなく、これまで通りのぱっとしない生徒の一人だ。
だが、この教室では少しだけ変化があった。
柳田篤は転校したらしい。両親の都合とのことだが、実際はどうだろうか。奴の行いは到底許されるものじゃない。それなりの対応があったということなのだろう。
柳田が消えても、あのグループは健在なようで四人でよく話している。とはいえ、柳田は女子と男子の間の橋渡し的な役割も担っていたのだろう。集まっていても大木と小林、日野と月山。それぞれが同姓の二人と話すシーンが多く見られるようになった気がする。
まあ、オレとしては横柄に振る舞う五月蠅い集団が少し大人しくなってありがたいが。
無論、彼らが周囲へ与えたオレへの印象も不動のものとなっており、柳田が消えても、こいつなら何してもいいだろといった、ぞんざいな扱いは改善されることはなかった。
そして。
「やっほ。こんなところでいつもご飯食べてるの?」
昼休み。本来なら立ち入り禁止の屋上にオレは侵入して、昼食をとっていたところ。一人の女生徒が声をかけてきた。
明るい髪色に染めて、ギャルっぽい雰囲気の少女、日野燈花だ。
「いいや、今日はたまたまだ。購買でパン買って来たら席を奪われてたから」
少し席を外している内に、自分の席が勝手に座られている。カースト下位の人間はそれに口出しする力はない。もう慣れたものだ。
「なにその情けない理由」
呆れたような表情をみせる日野。確かに情けないこと極まりないが、現状の学校でのオレの立ち位置はこんなものだ。悪目立ちするのは避けたい。
「どけって言ってどかせるんじゃない? いざとなったらやっつけちゃえばいいじゃん」
オレの本性を少しばかり目の当たりにした日野はそんなことを言うが、とても実行に移そうとは思えない。そんなしょうもないことの為に腕を鍛えてきたわけではないしな。
「オレをなんだと思ってるんだ。学校でまで面倒事はごめんだよ」
「私が言ってあげようか?」
「別にいい。で、なんか用か?」
「うーん……特に用ってわけじゃないけど、一人で教室出て行ったの見えたから、なんとなく追ってきちゃった」
言いながら、オレの隣にぺたりと座りこむ。ここで食事をするつもりなのだろうか。ふと、いつもの顔ぶれが一緒に居ないことを疑問に思う。
「いつもの面子や月山はいいのか?」
「まあたまにはねー。お互い別に仲良くしてる子だっているし、いつも一緒ってわけじゃないよ」
言いながら、日野は校内自販機で購入できる紙パックのコーヒー牛乳にストローを指してちゅうと吸う。
「そういうものか」
ストローから唇が離れて、それが妙に艶めかしく見えた。
「そーいうものだ。あ、てゆーか、今朝の酷くない? 手振ったのに無視して」
片手に紙パックの飲料を持ったまま、空いた手でこちらを指さして批難する。なんのことかと思うが、すぐに思い至る。
「ああ、あれオレにだったのか」
今朝、教室に入った時である。席に着くときに教室の前側の方の席に座る彼女が、目立たない程度に小さく手を振っていたのを思い出す。
視界には入っていたが自分に向けられていたとは露知らず。先の件からお互いのため、挨拶も交わす必要はないとオレの方は判断していたが、彼女は違うらしい。
あの所在なさげな表情は、そういうことだったのか。
「そーだよ、あーいうの無視された側はけっこー傷つくんだからね!」
「じゃあまあ、悪かったよ。ごめん」
「その仕方なくって感じすっごいむかつくー。なので、こいつを頂きます」
「あ、おい」
言いながら、オレが購買部で買った幾つかの菓子パンの一つのメロンパンを奪いとる。オレも驚くほどの速度で、包装を開けてかぷっと小さな口でかぶりつく。勢いの割に一口では大して減らせないのが、女子っぽいというかなんというか。
ああ、オレのメロンパンが。
「そんな顔しないでよ。返そっか?」
唇を尖らせて、拗ねたような不満げな表情をしながら、一齧りされたメロンパンが差し出される。それを返されても困るんだが。
「……あげるよ。他にまだあるし」
「てゆーか、久良って弁当とか持ってこないの?」
「学食か購買だな、いつも」
「ふーん……じゃあ今度なんか作ってきてあげるよ。助けてもらった恩もあるし、こう見えて私料理けっこ―出来んだよね」
「マジか。それは意外だな」
「でしょー。期待しててよね」
そのあとは日野と二人で昼食を過ごした。今までだったらありえない組み合わせだ。でも、たまには悪くない。少し外へ目を向ければ、少しずつ日常も変化していくのだと、そんな風に思った。
日が傾きかけた頃、喫茶店ジョーズにて、宇都宮丈は一人のある常連客を待っていた。その客の名前は久良悠莉。
「まあ、昨日の今日だ。流石に来るわけねえわな」
用意したグラスの中には、彼の好きな飲み物であるココアが注がれていた。彼が日課通りに出向いてくるなら、そろそろだろうと、先んじて用意したものである。
「それに、もう毎日来る道理はねえか」
この二年、基本的に宇都宮と悠莉は毎日会っていた。彼が喫茶店の地下でトレーニングを行っていたのもあるし、その行きがけ帰りがけに客として一服していくことも多く、顔を合わせない日の方が少なかっただろう。
だが、それはあくまで少年が能力者としての、言わば千乃とエリカによる育成期間にあったからだ。
それが過ぎ、正式に一宮探偵事務所に所属し、能力者として活動することになった彼がもはやここに足繁く通う理由はない。用があっても、上階の事務所の方だろう。
「あのガキがねえ……」
もはや顔馴染みとなった彼は、宇都宮にとって、二年の歳月を経て単なる客以上の距離感を感じていた。雨に濡れた子犬というには凶暴過ぎたが、こんな世界だ、はじめて当喫茶店の戸を叩いた時の彼はまさしく、この裏社会の洗礼という雨に打たれた、小さくて非力な存在だった。
復讐を掲げて、捻くれてはいるが、その根っこの部分には確かに善性が残っているのを毎日顔を突き合わせていた宇都宮は知っている。
手のかかる子ほど可愛いなんて言葉がある。そんなもの全く信じてはいなかった宇都宮だが、なるほど少年を見ていると強ち間違いではないのかもしれないと感じている。
この国で活躍する武器の調達人として、裏社会の活動に従事しながら、その内容から特別措置的に保護対象にある宇都宮丈。
悠莉の装備や訓練の場所を提供したのは、仕事の一環でしかなく、千乃やエリカがはじめたことに巻き込まれただけのもの。
彼にとって少年は、はじめは単なる面倒な客の一人でしかなかった。
それがいつからか、宇都宮にとって“客”という他人じゃなくなっていた。
なにか心象が大きく変わるような出来事があったわけではない。ただ、カウンターを挟んで、注文をやりとりして、たまに口を利く程度の仲である。それでも、見えてくるものがある。
まず彼は子供舌だ。ハンバーグやオムライスにカレー、まるで小学生の子供みたいなものが好物。
そして、意外と義理堅い。毎度、場所を借りた礼と言わんばかりに、飲み物の一杯でも頼んで時には食事をして帰っていく。
口の利き方からなにまで捻くれ拗らせているが、根は良いことは会話の中から感じる。
こんな客の来ない喫茶店に通って、痣だらけになってまで人を殺める技術を研ぎ澄ますことなんて有り得ない年齢だ。
本来なら、他人に大なり小なり迷惑をかけながらも友人や恋人と青春というものを謳歌することが許される、そんな年の頃の少年が、ただ家族の仇をとることを願って直向きに努力するその姿に、絆されていた。
そんな甘い情はとっくに捨てたものだと感じていたのに。
「ったく。捨てんのも勿体ねえけど、俺が飲むには甘すぎんだよなこれ」
そう言って、グラスの中身を捨てようか迷っている内に、チリン、と客が入ってきたのを知らせるドアベルが鳴った。そうして入ってきたのは待っていた少年だった。いつも通り、カウンターの決まった席に座る少年。
宇都宮は軽口を叩きながら、用意していたグラスを運ぶ。
「よう、調子はどうだい“お客さん”」
それを受けた少年は、自分の前に置かれたグラスを見てから答える。
「やけに準備がいいな、マスター」
「なんでい。いらないなら捨てちまうぜ。たまには甘いもんでも飲もうと思って用意してみたら、たまたまお前さんが来たんでな。仕方ねえからタダでやるよ」
「……そうかよ」
「他に注文あるか?」
「そうだな……あんたが出せる、一番うまいコーヒーを頼む」
「はん、甘党が飲めんのか?」
「たまにはいいだろ、そういう気分なんだ」
「まあ、客の注文なら断りはしねえけどよ、仕方ねえな、残すなよ」
口調はいささか乱暴なものの、片手で後頭部を掻く宇都宮の表情はどこか嬉しそうだった。
「そういえば、あんたがオレを運んでくれたんだってな」
「あん? まあ。ぶっ倒れられたまま店の中に置いとく訳にもいかねえしな」
外側の傷だけは千乃の、異能とは別の力によって癒されたが、その意識だけは回復する様子が無く、口にはしないが随分と心労を患わされていた。
「ありがとうな」
柄にも無く礼を言う少年にも驚いたが、それ以上に、その光景に宇都宮は驚いた。
「大したことはしてねえよ。無事そうでなによりだ。まあ、ゆっくりしてけ」
言いながら、エプロンのポケットに手を突っ込んで、客席からは確認できないキッチンの方へと引っ込む。彼からは声も届かない程度の距離になったのを確認してぼやく。
「ったく。驚かせやがって。あの何話してもくすりとも笑わねえガキが、あんな笑い方どこでおぼえやがったんだか」
その感想も当然である。二年間毎日顔を突き合わせてきたが、悠莉は一度だって笑うことが無かった。いつだって、無愛想に無表情。
世の中全てを仇とでも思ってると言わんばかりの少年。
その彼が、礼を言うその瞬間。
遠慮がちに、優し気に、微かだが口元に弧を描いてみせたのだ。
手のかかる子ほど可愛いと、よく言われる。自分がかけた気遣い、手間や苦労が報われたその一瞬。長い時間を費やして見届けてきた者にしか理解できない、この感情。
一言で言い表せれないそれを噛み締めるように、宇都宮丈はコーヒを注いだ。
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