第15話

 『もう誰に傅く必要もない、君は自由に生きていいんだ』

 それが一宮エリカが、主人である一宮和尊から受けた最期の言葉だった。

 その言葉を紡ぐ表情が、優しさより、悲痛さを孕んでいたのを今でも彼女は覚えている。

 混血で外国で生まれた彼女の出生は日本に生まれる子供たちのそれと比べたら、悲惨なものだった。

 物心ついたころに母は死に、ギャンブルとドラッグに中毒してろくに働きも世話もしない父親。犯罪率の多い街に住むまるで、絵に描いたような貧困層の家庭だった。

 家庭に愛情なんてものはなく、幼い彼女を、遊ぶ金欲しさに父は容易く売ったという。

 彼女は様々なところに身売りされ、最終的に行き着いたのは少女兵だった。飼い主のあらゆる命に従って、あらゆる悪行に身を委ねた。

 下種な客から金を巻き上げる、物乞いのフリをしたスリ、時には人殺しもした。いつからか、超人的な膂力を得ていた彼女は、二桁にも満たない年で、大の大人を簡単に殺めることが可能になっていた。

 世界の掃き溜めのような場所で、生き残るための能力が次々と培われ、最終的には兵士にまでなった彼女は、獣そのものだった。

 紆余曲折の後に、一宮和尊に命を救われる形で拾われた彼女は、一宮の姓を授けられ、侍女として育てられた。

 主である一宮和尊が亡くなった現在、彼女が十歳の頃から同じ屋根のもとで暮らして、世話をしてきた千乃と共に活動をしている。

 父の仕事を引き継ぎ、その非凡な才を以て裏社会の者たちと渡り合う千乃を支えながら、宇都宮丈の営む喫茶店で働き、三年は過ぎたころである。

 彼女は生きることに意味を見出せないでいた。

 自由に生きていいと、今更言われても彼女は自分が何をしたいのか分からなかったのだ。

 彼女の人生は恩人に尽くすことだけが全てだった。

 その恩人が居なくなってしまった今、彼女は何かを決起するわけでもなく、ただ惰性のままに恩人の娘である千乃に付き合っている。

 不満があるわけではない。ただ、毎日がなんとなく虚しくなっていた、その時である。

 およそ、二年前。

 雨が枯葉を濡らす秋の季節のことである。

 喫茶店ジョーズの戸を開けた少年。

 ロクに栄養を摂取していないことが傍目に分かる、顔色の悪い幽鬼のような顔。この世全てを憎む瞳。無力さ故にこの世の不条理や悪意といった目に見えない何かに頭から押さえつけられているかのように下を向いた、雨に濡れるその姿に。

 ――――全てを失った何も持たない少年に、かつての自分を見た。

 運命めいたものを感じた。

 何も持ち得なかった自分に、かっての恩人は名を与え、住処を与え、食を与え、知識を、力を、生きていく為に必要なものを全て授けてくれた。

 最期に与えてくれた自由というものだけは未だ持て余しているが、これをまた、彼のように誰かに与えてやることこそが、命を救ってくれたかつての主に報いるなによりの機会だと彼女は感じた。

 生涯を人の指示や意思に従うだけだったエリカが、はじめてやろうと思ったこと。

 それが、この復讐に溺れる少年に手を差し伸べることだった。

 力無き意思に、この世界は容赦なんてしない。そのことを彼女はよく理解していた。

 だから、非力な少年に力を与えたい。

 復讐を願いながら、あまりに非力な少年に戦い方を教え、鍛えることにしたのはそういう思いからだった

 はじめて自らの意思を示した彼女のそれを尊重した千乃は、エリカに一つの提案を持ち掛けた。

 この裏社会で生き延びるだけの能力者に仕上げ、そのうえで、その後の進退を彼自身に委ねること。

 千乃は復讐を諦めないことに賭け、エリカは平穏な生活へと帰ってくれることを願った。

 かくして宇都宮丈、一宮千乃、エリカの三名はこの少年と二年にわたって関わっていくことになる。

 そして現在。

 その少年、久良悠莉と一宮エリカは久良家の食卓を囲もうとしていた。鍋掴みで運んできた土鍋を卓の真中へ置く。今日の彼女は喫茶店での給仕服ではなく、彼女が自身で選んだ私服に身を包んでいる。

 二年の付き合いになるが、悠莉が訓練や喫茶店での仕事姿以外の、彼女のプライベートな姿を見るのははじめてのことだ。

 エプロンと鍋掴みを身に着けて鍋を運ぶその姿は、まるで若奥様の風体。その表情がいささか愛想に欠ける点を除けば。

「出来ましたよ」

「……雑炊か。別に風邪ってわけじゃないんだが」

 鍋の中身は、たまご雑炊。たまごと野菜の入った雑炊は、簡素なものながら彼女の腕前によるものか、視覚的にも彩色の良い、病み上がりでも充分に食欲をそそる仕上がりになっていた。

 彼の食生活は、独り身なのもあって破綻したものだった。この男、エリカが家を訪れていなかったら、フラフラにも拘わらずハンバーガーショップ等へ行ってジャンクフードを食べようかな、等と考えていたほど。

「病人のようなものです。それに、二日も何も食べてないんですから。……まあ、私が作ったものが気にいらないなら構いませんが」

 ツンと澄ました、なんでもないといった表情でありながら、絶対に構わなくない何かがその言葉には込められていた。

「そういう言い方をするなよ。食べるよ」

 悠莉が目を覚ましたことを、千乃から連絡を受けたエリカが久良宅を訪れ、養生飯を振る舞っている次第である。先んじてお椀を持って、エリカが配膳する。二人とも手を合わせて合掌する。

「「いただきます」」

 悠莉は木製のれんげで掬って一口。一口目はは味わうように食するものの、以降はがつがつぱくぱくと、お椀をさらっていく。

 瞬く間になくなる一杯目。その様子を手を止めて見つめるエリカ。

「どうした?」

「いえ、なんでも。味はどうですか?」

「喫茶店でも、あんたが作ったものが不味かったことは無い」

「それは良かったです」

 感想を受けて、エリカも手を動かす。悠莉の食べるペースから考えても、土鍋の中身が無くなるのに、そう時間はかからなかった。

「……。ごちそうさまでした」

「はい、お粗末様です。これだけ食べられるなら、もう少し量を用意すれば良かったかもしれませんね」

「いや、充分だ。……ありがとう、美味かった」

「それはさっき聞きたかったですね。……それにしても、あの冷凍食品と清涼飲料水しかない冷蔵庫と、テイクアウトしたファストフードとカップ麺、コンビニ弁当のゴミだらけのごみ箱はなんですか。いつか体壊しますよ」

「男の一人暮らしなんてあんなものだろう」

「さすがに限度がありますよ。野菜や魚はちゃんと摂ってるんですか」

「学食の定食にサラダがついてくる、あとはジョーズでの食事くらいか」

「おーけー分かりました。もう大丈夫です。なんとなく察していましたが、ここまでとは。正直食生活に関しては千乃と同レベルでがっかりです。私が最低限食事を管理してる千乃以下ですね」

「いや、マジか」

 立ち上がり、後片付けを始めようとするエリカ。

「ええ、大マジです。……あとは私が片づけますので、病人は休んでいてください」

 その一言で、続いて立ち上がって片づけを手伝おうとした悠莉はリビングのソファへと追いやられる。

 この家のキッチンを利用するのは一度目にも拘わらず、エリカは食器から洗剤まで、各種の道具や消耗品のおおよその場所を把握したらしく、てきぱきと片づけをはじめる。

 一宮エリカ。一宮家にてメイドとして、その道のプロからあらゆる英才教育を受けた彼女は戦闘から家事までを高水準でこなすハイスペックな女性なのである。

 余談だが、そんな彼女の世話を受けて育った千乃の私生活は、熟すだけのスキルがありながらやらない為、中々のだらしなさを誇っている。

 その様子を悠莉はなんとなくリビングで見守りながら、片付けも早々に終えたところで、二人は玄関前の廊下に出ていく。

「では、そろそろ帰ります。昨日の今日では千乃も仕事を寄越さないと思うので、ちゃんと養生してください」

「……エリカ」

 背中を向けた彼女を、悠莉は呼び止めた。彼が名前を直接呼ぶのは珍しいことだった。声音に含まれた真剣さをエリカも察して振り返る。

「――はい」

「前に言ってくれたことを聞きたい。やっぱり、あんたはオレに関わってほしくなかったのか?」

 どう答えたものか少し迷って、エリカは本音で語ることにした。彼がそんな風にわざわざ聞いてくることが珍しかったからだ。基本的に自分本位な彼は、他人に関心がない。あるいは示さないようにしている。

 その心境のわずかな変化を察したのもあって、彼女もまた自分の心内を見せることにする。

「そうですね。千乃は、あなたは絶対にこちらの世界に足を踏み入れると言っていました。結局はあの子の言う通りになってしまいましたね」

「……悪かった」

 少しばかり下に視線を落として謝る少年に、首を横に振って答える。

「いいえ、それだけあなたの亡くなった家族を想う気持ちが強かったというだけです。こんな明日の命さえ分からない世界に、あなたは踏み出した。並大抵の覚悟では出来ないことです。誇るべきことであって、謝るようなことではありません。あれは、あなたには、自由に生きてほしいという私の勝手な願いです」

 別に謝って欲しかったわけではない。

 少年もそのことが分かっていて、次の言葉を口にする。

「あんたの願いを踏みにじったオレが言うのもおかしな話だけども、……嬉しかったよ。そんな風に想ってくれる人は、きっともうどこにもいないと思ってたから」

「……そう、ですか」

「ああ、そうだ。……誰に言われたからじゃない、オレは自分の意思でこの道を選んだんだ。だから今までありがとう。戦い方を教えてくれて、生き方を教えてくれて。きっとあんたにはこれからも迷惑をかけると思う、もしかしたら心配もさせるかもしれない、それでも、よろしく頼む」

 不愛想に無遠慮な少年にしては腫れ物に触れるような言い方だった。

 今回の事件をを通して一つの復讐を見送った彼に、わずかばかりの変化を及ぼした。

 ただ、今までが今までだっただけに、彼には互いの距離の取り方を掴み損ねていた。

 そこにはらしくない気遣いがあって、エリカには少し微笑ましかった。

 差し出された手を見て――――どうしてこの人なんだろうと、不思議に思った。

 あの時出会って、あんな風に感じたのが、なぜ少年だったのか、彼女には分からない。

 彼と似たような悲劇を経験をした者は、裏社会を見ればきっと多くいる。

 それでも、あの日、あの喫茶店で、あの心境の只中に姿を見せたのは彼だった。

 二年で、随分と背が伸びた。鍛えられた身体は、はじめて見かけたもやしっ子のような頃から見違えたし、少し幼かった顔もしっかりと凛々しくなって、ときどき、やっぱり男の人なんだと感じる。

 肉体労働なんてなく運動部でもなかったのだろう綺麗な彼の手は、今では傷だらけで、少し物悲しい。

 能力者としてはもう十分に一人前。

 本気で闘うことになればもうどちらが命を落とすかわからない程に彼は成長した。

 千乃も、今回の件のように戦いに関しては彼に任せるようになっていくだろう。

 だけど、それ以外に関しては欠点だらけだ。

 ちょっと不似合いに気取って振る舞う癖に、コーヒーすら飲めない甘党。

 食生活は、おそらくロクに自炊が出来ないか面倒なのか、あるいは両方だろうご覧の通り壊滅的。

 話し方も過去の経験からやさぐれていて、年上相手だろうと生意気な口の利き方をする。相田さんには丁寧に話したり、ちゃんと彼なりに相手は選んではいるようだけど、たまに聞いていて恥ずかしい。

 学校でも友人を作っていないようで、誰かと一緒に居るのを二年で一度も見かけたことはない。

 放課後はいつも一人喫茶店に通って地下でトレーニング、たまに食事をしていく。おそらく、話し相手と言えば私と、喫茶店の主人である丈くらい。

 ――――本当にロクでもない少年だ。

 でも、その姿を過ごした月日のせいか、愛おしいと感じるのだ。

 どうかしていると、彼女は自分自身でも思う。

 差し出された手を彼女は握り返して答える。

「ええ、任されました」

 エリカは笑った。破顔なんて言葉が似合わない小さな笑みだけど、確かに笑った。

 かつての恩人であり、主でもある大切な人の言葉を思い出す。

 最期に、自由に生きろと彼女は願われた。

 きっと、今の彼女が目の前の少年に願うように、あの人は想っていたのだろうか。

 最期の、わずかに無念そうなあの人の表情を思い出す。今なら、その表情の意味が分かる。

 死期を悟った彼の、自らの死を惜しむ表情だと思っていたそれは、そうじゃなかった。

 言葉を手向けた少女が、未だ自由の価値すら分からぬ彼女が、自由に生きるその後に傍にいてやれないことを彼は惜しんだのだ。

――――貴方は、きっとこんな気持ちで私を見送ったのですね、旦那様。

 でも、彼女は違う。

 彼女は、少年の今からを見守ることが出来る。彼女が望み彼が拒むことがないのなら支えてやることも、傍にいることだってできる。

 誰にもその想いを、行動を止めさせることはできない。

 同じように、誰にも少年の復讐を止めることなんてできない。

 だからせめて、彼の生きる力添えがしたいと想った。

 ――――私は、自由だ。

 自由に生きることを願われ、翼を与えられた少女は、ようやく羽ばたいた。

 少女の人生は誰かに奉仕するばかりだった。父に、商人に、戦争屋に、恩人に。

 望んでそうなったわけじゃない。従わなければ命が無かったから、人の指示や命令通りに動いて気付けば、それが染みついていた。 

 それでも、今までと決定的に違うことが一つ。

 血がつながっているわけでもない、金銭が関わっているわけでもない、脅されたり命に関わっているわけでもない、生涯かけても返せない恩義があるわけでもない。

 これは自由な彼女が望んだはじめてのやりたいことだ。

 けれども。

 何をしてもいいと言われて、結局、誰かに尽くすことしか見出せないことが少しおかしくて、エリカは笑ったのだ。

 そのさまがあまりにも綺麗なものだから、安堵したような、そんな笑みを少年も微かに浮かべた。

 笑わない二人が笑った。互いを認めることで、互いの大切なモノに気づいたからだ。

 案外、大事なものは気づかぬ内に手元にあったりする。二人とも、大切な者たちを失ったからこそ、そのことを知っている。

 だから、それを二度は失わないよう手を握った。

 大きな変化が起きたわけではない、でも、確かに何かが変わった、そんな日だった。

 

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