第12話



 霧崎泉という男がいる。彼が能力者となったのは、およそ五年ほど前になる。

 酒に女にと遊び盛りの大学生だった彼は当時二十歳。ある夜にナイアーズゲームを起動し、能力者となった。

 異能を知りながら、それを振るわず秘匿する無辜の能力者。当初の彼は裏社会に足を踏み入れるより、機関の保護対象者になることを選んだのだ。

 だが、自身の素性を隠し日常を送る生活のまもなく、大事故に遭った。

 彼の怪我は一時は命に関わるほどのものだったが、この街では有名な大学病院にて緊急手術を行い、その後驚くべき回復力を持って、退院を許された。

 彼が異変を感じたのはその退院から、一か月が経過したころだった。

 強烈な飢えが彼を襲ったのだ。

 どれだけ食事をとって、腹を満たそうともなくならない飢餓。

 苛立ちで掻き毟った皮膚は、爛れてタールのように溶けていくような奇妙な違和感、腹は背中とくっついているのではないかという激痛と錯覚を起こし、食品以外も口にするほどの飢えに襲われた彼を救ったのは、一本の電話だった。

 外に出ることもままならない彼に掛って来た非通知の電話。その電話越しの声は、まさに彼にとって、地獄に垂れた蜘蛛の糸だった。

 その声は言った。


『君の飢えを満たす方法を教えよう』


 もはや相手が悪魔でも構わなかった。気が狂いそうな強烈な飢餓感の中にあった霧崎は相手が何者かも気にせず、なりふり構わずその誘いに乗った。


『君の元に、ある食品を送った。それを食べることでのみ君のその“第二の飢え”は解消される』


 その電話から三十分もかからずして、その食品は届けられた。

 丁重な包装、保存をされた送られてきたその食品は肉だった。当時の霧崎には、これで本当に飢えが凌げるのか甚だ疑問だった。なぜなら、彼はこの強烈な飢餓に襲われる中で、考えられる限りの食品を口にしたからだ。今更この赤身の肉程度でどうにかなるとは到底思えなかった彼だが、それを焼いて調理し、口にしたときに、彼の飢えは解消された。

 それだけでは無い。

 凄まじい美味と快感が彼を打ち抜いたのだ。

 かつて、霧崎の一生でどれだけの贅沢な食事をしても得られなかった美味と、まるで絶頂に至ったかのような快感。

 脳内麻薬を過剰分泌させ、これまでに感じたことのない圧倒的な多幸感を彼に与えた。

 男からの連絡はそれで一度途絶えた。

 礼を言うために電話を折り返そうとしても、非通知でかかってきたものの為、叶わなかった。

 霧崎はあの快感をわずかに惜しみながらもまた日常に戻り、普通に生活をすることとなった。

 変わったことと言えば、謎の人物から彼のもとに送られた肉を食した時の快感をもう一度味わうため、食事に凝るようになったくらいだ。

 だが一か月が経過した頃、また同じような飢えを感じるようになった。

 するとまたしても非通知の電話が鳴り、謎の人物は、彼に再び肉を提供した。

 そんな生活が続いて四ヶ月目、彼は、とうとう、その僅かな食肉では物足りなくなっていた。舌が肥えたというより、その麻薬じみた快感を常に求めるようになったのだ。

 電話の中で、彼は問う。


「一体あれはなんの肉なんだ。どれだけ高級な肉を食べてもあんたが送る肉には届かないぜ、先生」


 彼は電話越しの相手を、いつの間にか、先生と呼ぶようになっていた。自分を導いてくれた相手だ。電話の向こうの先生も、その呼び方を嫌がることなく受け入れた。


『実はあれはね――人の肉なんだよ』

「そうか……。道理で。道理でどこにも売ってないはずだ」


 彼は、その衝撃の事実を獰猛な狂気じみた笑みで受け止めた。人肉と知らずに食べさせたことに憤慨することも、驚くこともなく受け入れた。


「なあ、先生。俺はあれをもっと食べたいんだ。あれが人だと知った後も食べたくて食べたくて仕方ないんだ。とうとうイカレちまったのか俺は?」

『いいや、何もおかしい事は無い。それは君という個体の個性だ。僕はそれを尊重しよう』


 そして両者に協力関係が結ばれ、無所属だった彼は、能力者を必要としていた桜城会へと紹介を受け、所属することになる。

 それからの彼は人食いに狂うようになっていた。

 先生の協力を得て、桜城会の一員として働き能力者としても成長していく裏で、一月に一度人を殺して、その人肉を丸ごと貪るようになった。

 男、女、子供、老人、成人、関係なく食した。自殺志願者や犯罪者、時には無辜の人間も色んな者たちが先生により手配された。

 最初は恐る恐るといった様子の彼を調子づかせたのは、抗争に加わって数々の戦闘をこなすうちに彼に敵うものがいなくなっていったこと、組織として成長を続ける桜城会に所属する事実、そしてなにより、この謎の人物による支援。

 人の肉にも優劣をつけるようになった。

 男より女。老人より子供。男ならば十代前半が良く。女ならば、十代後半から二十代前半が良い。若者を好みだと気づいた。

 また食い過ぎてはあの快感は得られないことも知った。

 丁度一か月を周期に訪れる、先生曰く、普通の食事では満たされない、第二の飢餓。

 これに入った瞬間が食い時であると知った。

 食えず長引けば気も狂うような苦痛に苛まれるというデメリットもあるが手段、やり口を確立していくうちに、そんなことはまず起きなくなった。

 段々と手慣れてきた彼は、先生という補助輪を外して活動するようになった。

 何か不味いことがあれば彼がなんとかしてくれる、そういう信頼のもとの活動だった。

 桜城会傘下の団体に所属する能力者として活動しながら、その裏で霧崎は独自に活動を始める。

 一年、二年と過ぎるうちに霧崎の食人趣味はより苛烈にアブノーマルなものへと傾倒するようになった。

 霧崎は生来より女好きだった。顔も悪くなく女性経験も豊富だった彼は、犯して食べるという行為に食人の極致を見出したのだ。

 彼にとって、相手と自分のが入り混じった体液は絶品のステーキソースのようなもの、殴ることで肉はほぐれ、程よい食感を与えた。

 仲間を集った。暴力を生きがいにするような連中は、たやすくそれ以上の暴力である異能と、それを操る霧崎の前に屈した。

 女性を攫った。もはや自分が動くことも無く、勝手に手下が連れてきてくれるシステムが出来上がった。

 奴らは少しの金と褒美に抱かせてやればそれで満足した。例え逃げようとしても、異能の力の前では所詮ただのチンピラでは無力、逆らうものはいなかった。

 あとは犯して、殺して、食した。

 霧崎泉の食人生活は順調だった。今では桜城会という大きな組織の一員であり、自分自身、強力な異能を操る能力者である。

 もはや己を止める者などいないと思っていた。

 今日、ここに至るまでは。 

 霧崎は、重い身体を引きずりながら、様々な考えを頭の中で巡らせていた。

 何とかあの場を切り抜けることが出来たのは運が良かったという他ない。

 常人ならとうに死んでいる失血量と傷だ。相田が素人で、その場での死亡確認を怠ったこと。

 相田と悠莉と、入れ違いで戻ってくる手筈だったのだろう伊達含む、遺体処理用の人員の到着までにわずかにラグがあったこと。

 いくつかの要因に救われて、霧崎は窮地を脱していた。

 仮に見つかっていたら、携帯端末を取り上げられ、ナイアーズゲームを起動する術を持たない霧崎には、その状況をやり過ごす力は無い。とどめを刺されて終わっていた。

 ――――。まさかあの中年男が、相田千沙の父だったとは。

 桜城会め、さんざん貢献してきた俺を切りやがって。

 唯一、世間にまで広がった相田千沙の事件。あの時は言うなれば飽食状態だった。後にも先にも食べ残したのはあの件だけだ。

 当時は揉み消されたものの、今になってここまで追い込まれることになった。

 殺す。

 まずは俺を裏切った会長。

 身体に穴をこさえてくれやがったあの親父。

 昔から気に食わなかった伊達。全部許さねえ。

 クソガキ共が、美味しい思いさせてやったのにしくじりやがって。おかげで今月食い損ねてる上に、俺まで追い込まれたじゃねえか。

 あいつらも殺す。

 その為にもまずは、あの人に連絡を――――。

 霧崎の一縷の望みは誰にも教えていないセーフハウスに置いた予備の携帯端末だ。能力者なら、ナイズゲームの起動に不可欠な端末の予備を用意しておくのは当然だった。

 霧崎の窮地に、手を差し伸べてくれたのはいつだって先生だ。極度の飢餓に襲われた時から始まり、これまでも。

 彼はその望みだけを抱えて、室内に辿り着いた。

 期待通りに、電話のコール音が鳴る。恐ろしいほどのタイミングの良さも霧崎にとっては慣れたものだった。


『やあ、久しぶりだね。霧崎君。こうして君と話すのはあの事件以来か』

「やっぱりあんただ。待ってたよ先生。俺は一体どうしたら良い? 頼むよなんとかしてくれよ」

『非常に残念だが霧崎君、我々の付き合いもこれまでだ』

「はあ!? なんでだよ、あんたまで俺を裏切るのか!」

『裏切るなんて人聞きが悪いじゃあないか。目を付けられるべきでない相手に目を付けられた。君を追っているのは機関の人間だ。桜城会が君を切るのも止む無しという訳だ。この世界に身を置いているのなら分かるだろう、機関に追われ、素性も割れてる君を匿うメリットはこちらにない、悪く思わないでくれよ』

「そんな……そんなのってねえだろ!? 今まで俺たち上手くやってきたじゃねえか! 頼むよ先生!」

『ふむ、そうだね……では交換条件だ。もし仮に君が、今君を追っている機関の人間を始末出来たら――ああ、君の望むように僕が君を救ってみせよう。あらゆる手段、あらゆる人材を用いて』

「分かった! やってやるよ、俺はあんたの期待に応えてみせる」

『なら覚えておくといい。君が始末すべき者、名前を一宮と言う。君を追い込む我々にとっての敵の名だ』


 電話がぷつりと切れる。

 霧崎の中で、自らでも理解できない程にその“一宮”への怒りが膨らんでいく。

 先生の告げた敵、一宮。

 この一連の自らに降りかかった災難は、紛れもなくその“一宮”によるものだと確信して、彼は吠える。


「一宮……一宮ああああああああああああッ!」


 彼は電話の切れた端末から、ナイアーズゲームを起動した。

 銃弾で撃たれた痛みなど忘れて、怒りのままに彼は能力者になる。

 左手は焼かれるような熱を伴ってその甲に痕を刻み、全身は人の身体能力を上回る超人へと変わる。


「――お前を殺して、俺は生き延びる!」


 思えばいつだって彼はそうして生きてきた。人を喰わねば己が死んでいた、あの耐え難い飢えによって。

 憎しみで人を喰ったことは一度も無かったが、それも良い調味料になるやもしれない。

 彼は玄関を飛び出て、生存本能が発する直感のままに外へと飛び出す。

 自身の生存を脅かす全ての者を消すために。

 理性を失いつつある彼はついぞ気付かなかった。

 ナイアーズゲーム起動によって暗転した画面に映った自らの貌が、玄関口に置かれた姿見に置かれた自らの姿が、もはや人らしい面影を失いつつあることを。

 爪は人のそれから、獣のかぎ爪のように鋭利、人の持つ柔肌は、ゴムのような弾性を得るに至り、能力者の身体能力すら超えようという霧崎の脚力を生んだ靴の中に隠された足は、獣の足のように変化している。

 常人ならとっくに死に至っているはずの銃創は、急速に癒えようとしていた。

 本来、人に備わるはずのない二つの因子が重なることで生まれたこの醜き姿をもはや人とは呼ぶまい。

 遥か遠い時代に、かような姿を持つ種を、世界の神秘を識りながら、秘匿した者たちはこう呼んだ。

 食屍鬼グールと。

 霧崎泉は、その変異種へとなろうとしていた。

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