夕立・愛・無職

鉄骨が露出し、弾痕に覆われたコンクリートの塊。

かつてどのような建物に使われていたのか、確かめる術はない。その塊を遮蔽物として、一人の人影がうずくまっている。その前の戦闘のせいか、ヘルメットとゴーグルは付けていない。その兵士を、レティクルの十字と数値が取り囲む。照準はその人物にだけ合わせられているが、壁の向こうにはもう一人、兵士がいる。

二人はまだお互いの存在に気づいていない。

コンクリートと地面に染みができたかと思うと、たちまち辺りは夕立に包まれ、ライフルを取り巻く大気の湿度を上げる。

二人は数秒後に出会う。

主任の提示した予言だ。予測ではなく、予言。

肺の七割まで空気を吸い込み、私は引き金に手をかける。

「あなたにこれからやってもらうのは、世界に愛を届ける仕事です」

そう言って主任はチェロケースを渡してきた。それが最初の仕事だった。退役後、しばらく無職の状態が続いていたせいだろうか。実戦を離れた今、余生は音楽を奏でることで過ごすのもいいかもしれないと、そう呑気に思ってしまった。

主任に指定された場所(高層マンションの一室で、組織の計らいによって工事中となっていた)に着き、ケースに入っていたものを確認した時の複雑な感情は今でも覚えている。

「言ったでしょう。愛を届ける仕事と」

狙撃したターゲットは倒れなかった。ただ、向い側から歩いてきた相手と出会っただけ。

「多分、信じてもらえないと思いますが、一応証拠を見せておきます」

問い合わせられた主任は額の前で電灯の紐を引っ張る身振りをした。主任の頭上で光輪が輝き、背中に羽根が広がった。

「天使が悪魔の証明をするのはなんだかややこしいですね」

「キューピッドと天使は違うと思うが」

「まあモデルは同じです」

主任の所属する組織が(天界とか天国といった言葉は使いたくない)、企業を起こしたのは、一言でいうと人手不足だった。

「あちらに行くのにも相応の手続きが要り、手続きがあるからにはそれをレクチャーする人員が必要です。あなたのような人に改めて言うのもなんですが、紛争が増えてきたことからこちらの部署の人員もレクチャーに回らなくてはならなくなりました」

「恋に落ちるのはそこに至る脈絡が必要ですが、それだけでは足りません。脈絡を越えた、『あと一押し』が必要で、その一押しが私たちの鏃であったり、あなたの持っている弾丸なのです」

雨は水ではない。

戦地を争っていた両陣営は、膠着状態を解消する方針をとったようだった。それがこの雨として具体化された。

戦地は両陣営の緩衝地帯になることも見込まれていた。雨は毒素と共に兵士の死体や武器の残骸を泥の中に呑み込み、土地の上を流れる気流や、土地の下を流れる水流にびくともしないよう固着させる。夕立が終わる頃、ここは何者も根付かない土地であると同時に互いの陣営の干渉を防ぐ境界となる。

弾丸を撃たれて数時間ののち、雨に打たれて二人は死ぬ。主任はそう告げていた。

「争いを止めるためではなかったのか」

「人と人とが結ばれることはむしろ争いの種になります。自己への、他人への、祖国への、愛。愛には向きがあり、愛は他の愛とぶつかり、争いを呼ぶ」

「じゃあ」

「あなたを選んだのは任務の内容を越えたところに目的を求めないところに素質を認めたからです。私たちの期待を裏切らないでください」

現地に赴く車両の中で主任は告げた。

「あなたが指をかける引き金は物語を始める引き金です。異なる二者が出会い、別れるまでの一連の過程を始めるための最初の一手です。それ以上でもそれ以下でもない」

主任が最後に投げた言葉を思い出しながら私は引き金を引く。

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サンダイワ! 胆鼠海静 @nikyu-nikyu

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