芝の浜・錆猫・弱点

昔のことである。

芝の浜の近くに小さな漁村があった。



仕事を終えた漁師たちが砂浜に舟を引き上げている。舟の上には、網に巻かれた魚。舟の面積の半分を占めているのではないかと思われるほどの量。が、漁師たちの顔色は冴えない。

漁師のうちの一人が舌打ちをする。

「せっかく大漁だってのにほとんどがとられちまうなんてよ。あのクソネ……」

他の漁師の視線が一斉に悪態をついた者に集まった。咎めるような視線。視線を受けた漁師は済まなさそうにうつむく。

数秒の沈黙の後、緊張が解け、作業が再開されようとする。しかし、再び漁師たちは凍りつく。

舳先の向く方向。日光に白く輝く砂浜。掘っ立て小屋を背景に、一匹の錆猫が座り、漁師たちを見ていた。錆猫は自分の毛色と同色の衣を身にまとっており、斑模様が海風に揺れていた。

針のような光彩が漁師たちをしっかりと捉えている。

猫の無表情さとは反対に漁師たちは動揺し始める。

そのうちの一人が駆け出して、猫の前に這いつくばる。

「許してください、こいつは半人前でまだ仕事のことが分かっていないんです。どうか、どうか」

猫は表情を変えず、尻尾を一振りする。

背後の掘っ立て小屋。その裏から斑模様をした塊が溢れ出してくる。猫の群れである。白、黒、焦げ茶、様々な毛色が群れをなして漁師たちの方に向かってくる。群れは悪態をついた漁師を瞬く間に包囲し、群れに絡めとられた漁師は小屋に引きずられていく。他の漁師たちは、「助けて助けて」という声と共に砂浜に引かれていく草履の跡をただ茫然と見ているだけであった。

その一部始終を松の木の影に隠れながら、次郎は見ていた。

錆猫が村を支配したのは次郎が生まれるより前である。人々の納めなければならないものは魚だけでなく、作物や山の幸、果ては衣服に至るまでが、錆猫のもとに吸い取られていくのだった。

他の土地に出たことのない次郎であったが、人々のただならなさは幼い次郎の目にも分かった。

なぜ錆猫を討たないのか。

次郎は祖父に疑問をぶつけてみたことがある。

梁の上を気にかけながら次郎の祖父はこう語って聞かせた。

錆猫はいわゆる猫又である。

以前、村一番の力持ちとして知られる男が、他の者と徒党を組んで猫の退治に出かけた。男たちは配下の猫たちを火で追い立て、持ち寄った槍や鎌で殺して回った。残された錆猫は槍で突くとあっけなく絶命し、男は剥いだ皮を戦利品として家に持ち帰った。

それから三日して、男が家から出てこないのを心配した隣人が訪ねてみると、男は土間で喉を噛み砕かれて死んでいた。居間に出てみると、囲炉裏の前に錆猫がいた。模様の違いから前に群れを率いていた個体とは別の個体だということがうかがわれた。そう思っていると、その猫は壁に飾られていた、血しぶきの染み込んだ皮を剥がし、それを羽織っていなくなったという。その日から再び村は猫に包囲され、ぬしを殺した腹いせか、家が数軒、猫の群れに押しつぶされることが起こった。衣服を納めることが始まったのもそのころからだという。ぬしが皮を剥ぎ取られたことに由来するという。

なにか弱点はないのか。

そう次郎は祖父に聞いた。

たとえぬしを殺してもまた別の錆猫として生まれ変わるだけなのだ。いくらぬしの弱点を探したところで生まれ変わられれば無駄である。そういう意味で弱点を見つけることはできない。暗い沈黙が二人の間に流れたことを次郎は覚えている。

陰鬱な面持ちで次郎は松の木から離れ、村に続く道を進む。

途中、見慣れない人物が歩いているのを次郎は見かけた。人物もこちらを見止めたようで、道を尋ねてきた。宿を探しているという。

その人物は、ある高名な僧の弟子だという。修行の一環として全国を行脚している途中であり、偶々道に迷っていたところ、次郎と会ったのだという。男の師匠に当たる人物は、普通の仕事の他、怪異を鎮めるなどの仕事でも有名らしい。

この人ならなんとかしてくれるかもしれないと思った次郎は、周りに監視がついていないことを確認した上で、旅人に猫のことを持ち掛けた。

旅人は少し考えたあと、一週間ほど村にとどまることと引き換えに相談事を請け負った。

次郎の家族は長い期間とどまることを訝しんだものの、次郎のとりなしによって承諾にまで持ち込むことができた。

一週間の間、旅人は家の隅で作業をしていた。時折木を削る音が聞こえた。

七日目の朝、旅人は「猫退治に出かけるが、ぬしのいるところに案内人が欲しい」と次郎に告げる。次郎以外の村人は旅人を不信がっていたので、次郎がついていくことになった。

「これを持っておいてくれ」

本物と見紛うほどの猫の木彫りである。

太刀を携えた旅人と木彫りを持った次郎は、松の林立する道を進み、先日漁師が攫われていった海浜へ向かった。

その晩は満月で、海浜で猫たちの祭りが開かれるのだった。

松の影から躍り出た旅人は配下の猫たちを一瞬で片付けた。

旅人の太刀の切っ先は海を背にした猫のぬしに向かう。

カァッと目を剥いたかと思うと、錆猫の体が見る間に大きくなった。全身の毛が逆立ち、針の山のようになり、全身から禍々しい気配が立ち上る。

猫の鉤爪と旅人の太刀が火花を散らす。

錆猫は蛇のようにぬるぬるとした動きで旅人の剣撃を受け流し、爪を急所に突き立てようとしてくる。

旅人は次郎に聞き取れない発音の文言を唱える。その瞬間、次郎には刀の輝きが増したように見えた。一瞬、光線が迸ったかと思うと、空気をつんざくような悲鳴が響いた。猫の主は切断された片腕からどぼどぼと血を流し、態勢を崩す。そこから形勢が逆転した。片耳、脇腹、脛、主の様々な部位を刀の軌跡が通り過ぎ、錆猫の斑模様に血の色を加えていく。耐えかねたぬしは一気に勝負を決そうとする。腕と口をがばりと開き、その爪と牙で旅人を八つ裂きにしようと襲いかかる。旅人はうろたえることなく、大振りな動きによって生まれた隙を使い、最後の一太刀を放つ。

ぬしの巨体がどうと砂浜に倒れる。

すると、猫の巨体から煙が立ち上る。

「次郎、木彫りを出せ」

言われた通りにすると、煙は行き先を見つけたように木彫りの中に吸い込まれていった。

「猫又は死期が近づくとそれまでの自分の肉体から魂を分離させ、別の猫に取り憑くことで生まれ変わる。今、その魂は木彫りの中にある。実際の猫と見間違えたのだ。その木彫りには強力な術がかけられており、そうそう脱け出せるものではないが」

旅人の言葉を遮るようにみしみしと片腕が動き始め、もう少しで次郎の頬が引っ掻かれそうになった。ぞぞぞ、と片腕の付け根から斑模様が浮き上がり、木目を浸食し始めていた。

「いささか強度が弱かったようだ。あとで補強しておこう」

剥き出しだった木目は呪力を封じ込めた染料で覆われることになった。白色の染料が、剥き出しの木目とその一部で燻ぶる斑を覆い隠した。

また、木彫りの目には、金色の縁取りがなされた。これも怪異を封じ込める働きをするという。

「これは私がもらっておこう」

旅人はそう言って木彫りを次郎から引き取り、猫の支配から解放された村を後にした。

それから木彫りがどこに行ったのかは誰も知らない。

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