妖怪・フライパン・金粉
ユズの得物は相変わらずフライパンで、そろそろ手放してもっと良い武器を探せといっても嫌な顔をするばかりだ。ユズがフライパンを採用する理由の一つ目は切れ味や弾数など、本人の言う所によれば「余計なこと」を考えずに相手を殴れるからで、二つ目は黒くて相手に見えにくくなるからだ。二つ目の理由がどれほど説得力を持っているかは疑問だが、私達の職掌が主にフィールドとする時間帯を考慮に入れた判断だということは分かる。室内ということなら、なおさらその迷彩効果は発揮されることだろう。
入口以外の三方の壁面の大部分を使って展示された絵画は、ウィーンの画家の手に為るものだったか。写実性を部分的に排して描かれているにもかかわらず、画面一帯に並べられた裸婦像は不思議な艶めかしさを感じさせる。ということはまだ傷が浅い証拠だ。そう思いながら、視線を移動させていると、まもなく異変が起こった。
妖怪という存在、あるいは現象を記述する上での統一的な理論は、未だ存在しない。したがって妖怪ということとなると理論的な事柄よりも実践的な事柄の方が優先される傾向があり、実践面の事柄となると専ら退治ということになるので、それを担当する私達は、サンプルに飢えた研究者の目の敵にされている。どのような妖怪が存在するのか、という目録を作成することしか行うことのできない研究者の気持ちは、部外者である私にもなんとなく分かる。
登録番号二百七十六<ドリアン・グレイ>は、絵画に寄生することで、その絵画に潜在するアウラを食らう怪異の一種だ。普段は温厚だが、危害を加えようとする者には容赦なく攻撃を加え、実体化させたモチーフによって殺害された者は全世界で数百人に上る。
同定したことを視界で告げるアラーム音が合図になったかのように、先ほどまで、美女に囲まれていた毛むくじゃらの野獣が、三次元的な輪郭を持ち始めた。野獣は周囲を流れる金の滝を装具としたいのか、みちみちという音と共に絵画から抜け出そうとする。ユズの行動は素早い。野獣が完全に実体化するちょうどその時に自身の射程に取り込めるように歩幅を調整して走り寄り、野獣の脚が床についたその瞬間に最初の一撃を見舞った。
実体化し切る前のモチーフは、まだ絵画の一部にとどまっているため、その時点でモチーフの被った損傷は絵画のものになってしまう。したがって、相手に先制を許さず、こちらが後手に回らないためには、実体化のプロセスと自分の動作をシンクロさせる必要がある。ユズはそれを難なくやり遂げた。
一撃。二撃。三撃。鐘の音のように、打撃音が館内に鳴り渡る。金と焦げ茶の巨体は猛打の前に蹲る。不意に、その筋肉が大きな波打ちを見せた。それを認めた時には、脇腹に鈍い痛みが走り、生温かいものが腰から足にかけて流れ落ちる感覚が生じた。ユズは、野獣から伸びた金色の糸によって刺し貫かれた私の方に目を遣る。敵に集中していた相貌が、わずかだが、緩んでいる。
妖怪は妖気と呼び習わされる特殊な膜で、体を覆っており、通常の攻撃ではダメージを通すことができない。したがって、妖怪のそれよりも濃縮した妖気をぶつけて、彼らの防壁を破る必要があるが、現在の技術では妖気の生成は困難だ。そこで、実戦中に敵自体から妖気を削り取り、それを保持して濃縮し、敵にぶつける必要がある。特殊な「器官」の機能によって常時妖気を張り替えている妖怪と異なり、人間は激しく動くと妖気を発散させてしまう。そこで、妖気を削り取る役と貯める役が必要となり、私は後者の役を担っている。ユズと私は特殊な導線で結ばれており、ユズが削り取った妖気は、私の方に送られている。貯めた妖気を無駄にしないため、下手に身を躱すことはできない。
私はユズを一喝する。貫かれた私の装具は、妖気を吸収する仕様のため、視界に表示されたメーターはぐんぐんと臨界値を目指している。好機が迫っている時に、態勢を崩してはならない。そういった戦術的な考えもあったが、むしろもう一つの考えが、私を叫ばせた。
ユズの性格は、その体の軽やかな印象に反して、無骨だ。フライパンのこともそうだし、ファッションについてもどうしてそんなちぐはぐなコーディネートをするのかと目を覆いたくなるほどだし、話題の五割は私の興味の無いことで、残りは下ネタだ。しかし、ユズの戦う姿は、その性格を凌駕する。いや、ユズの性格の無骨さ、ファッションのまずさ、下品さがあるからこそ、あの洗練された身のこなし、息も尽かせぬ乱打が可能になっているのだ。私がユズと組んでいるのは、ユズの身体が描く、乱雑な物の集合が、一つの洗練された全体を形作っていく、その過程に惹かれたからだ。
私は、多くの醜い部分を一つの完成品に収斂していくユズのダイナミズムを見たい。そのダイナミズムの前に、自分を障害物として置き、それを遮るようなことはしたくない。だから、叫ぶ。だから、こうして立っている。
妖気が臨界に達した。その知らせを受けると同時にユズは表情を再び引き締め、野獣目掛けて得物を振りかぶる。
絵画を背景にしたその姿はとても美しい。
先ほどとは桁違いの音響が館を揺さぶった。対象の反応は消え、巨体は塵に帰っていく。戦闘で巻き上げられた金粉が金色の雨となって降り注いでいた。視界を任務終了の表示が舞い、通常モードへの移行が告げられる。その表示を透かして、雨の中に立っていた人影が微笑を浮かべながらひざまずく私の側に歩み寄ってくるのが見えた。
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