第1626話「探しに行こう」
泳ぎ続けてどれほどの時間が経っただろうか。しばらくは気持ちよくて熱中していたので気付かなかったのだが、少々様子がおかしい。
(なんか……飢餓が来ないな)
おおよそ30分に1回のペースで訪れていた飢餓の波がだんだんと遅くなっている。おかげで俺は白玉の消費量が減って嬉しいのだが、その理由がよく分からない。〈黄濁の溟海〉を進むほど飢餓の頻度は上がっていくらしいが、底に進めば逆に遅くなるのか。それなら、奥に向かいながら沈んでいけば……?
(もしかして、そういうことなのか?)
どうだろう、自分の予想は当たっているだろうか。
この海を巨大な円筒形と仮定する。円の中心に向かうほど飢餓は強まり、円の底へ向かうほど飢餓は減る。飢餓の頻度が一定になるようにポイントを取っていけば、中心に向かいながら深く潜っていくような直線が取れる。
この直線を辿ることこそが、俺たちの目指すべきルートだったのではないか、という説だ。
船で水平方向に進んでいく場合は円筒の中心には辿り着けるが、飢餓の影響が甚大になり、さらにはニルマたちを襲ったような何者かが存在する。垂直方向に沈んでいった場合は飢餓の影響こそ緩和されるが、今度は目的地に辿り着けない。
いや、逆に考えることもできる。
円筒の中心、底の部分に何者かがいる。それが飢餓の波の発生源だ。それは直上に向けて飢餓の波を発生させ、それは周囲に広がりながら展開する。円錐状に飢餓の波がプロットできるのではないか。
いずれにしても、円筒の底の中心――〈黄濁の溟海〉の深部へ向かわなければ。
(とはいえ、泳ぎだけで海の中心には行けないだろうが。とりあえず進めるところまで進んでみるか)
遠洋は、ニルマたちの推測でも500km地点からだ。流石にその距離を人力で泳ぎ切れるほどの実力も物資もない。とはいえ、飢餓さえ襲ってこなければかなりの距離を泳げるはずだ。〈水泳〉スキルのレベルも順調に上がっていることだしな。
そう思って気合いを入れ直したその時、俺は思わず水中で口を開けてしまう。
「おぼぁ!?」
暗闇の中に、何かが動いたような気がした。
依然として水中は静寂だ。陽の光も全く届かず、ほとんど完全な闇が広がっている。たとえ鼻先に何かがいたとしても気づけないほどの暗闇だ。にもかかわらず、その向こうで何かがゆらめいたような気がしたのだ。
エネルギー残量を気にして使っていなかったライトを点灯させて周囲を探ってみるが、それらしいものはなにもない。
(気のせいか……?)
こういった環境には慣れていると思っていたが、いつの間にか弱くなっていたのか。自覚していないが、恐怖があったのだろうか。
とはいえここで周囲をがむしゃらに泳ぎ回るほど取り乱しているわけでもない。何かに襲われた時は、その時に考えればいい。
俺は方角を確認し、水をかいた。
━━━━━
「全然レッジさんが見つからないじゃないですか!」
〈黄濁の溟海〉海上。〈塩蜥蜴の干潟〉から400km地点。レッジの位置情報消失ポイントに急行したレティたちは、その周辺10kmを隈なく捜索したものの、成果はいまだ上がっていない。無情に過ぎ去る時間に急かされ、ついにレティが声をあげた。
「こちらも全力を尽くしているんですが、機体のパーツさえ見つからなくて……」
しょんぼりと肩を落としているのはアイだ。彼女も優秀な部下たちを引き連れて捜索隊に参加し、懸命に周囲を探っていた。しかし、レッジがいたという痕跡すら見つけることができず、その焦りが表情にも現れ始めている。
レッジが消息を絶ってから、少なくとも三時間は経過している。もし海に沈んだのだとすれば、とっくにLP切れでアップデートセンターに戻っているはず。にも関わらず、全国各地のアップデートセンターでそのような事実は記録されていない。
「ねえ、ウェイド。レッジの位置は常に捕捉してるんでしょ? ほんとにここにいるの?」
『そ、そのはずです……』
淡々とした口調ながら明確な圧力をもってウェイドを詰問しているのはラクトだ。クチナシの甲板に置かれた木箱を椅子とテーブルの代わりにして、テーブルの上には美味しそうなショートケーキが一つ。ラクトはそれをゆっくりとフォークで削り取っていく。
「じゃあなんで分からないのかな? 守秘義務?」
『だから、違うと言っているではないですか! あ、ああっ! ちょっと、取りすぎですよ!』
フォークがクリームとスポンジを切り取り、ラクトの口へ運ぶ。ウェイドはその様子を目の当たりにして悲鳴をあげた。掴みかかってでも止めたいところだろうが、あいにくとケーキの所有権はラクトにある。管理者といえど、調査開拓員の私有物を強制的に徴収するのは難しい。
「ちゃんと答えてくれたら残りはあげるって。ウェイドも砂糖の禁輸で結構厳しいんでしょ?」
『それは……。うぐぅ』
ぺろり、と唇のクリームまで舐めとって見せつけるラクト。ウェイドは歯を食いしばり、屈辱に耐えようとしていた。
『だから、何度も言っているように通信ができないんです。レッジが調査開拓団からのコンタクトを全て拒絶しているとしか思えません』
「そんなことができるの?」
『それは……その、普通はできないというか……』
レッジと通信監視衛星群ツクヨミとのコンタクトが途切れたということは周知の事実となっている。しかし、レッジは現在も管理者および指揮官から要注意人物として監視対象となっている。
そもそもツクヨミとの通信途絶というものも、完全な遮断を意味するわけではない。既にツクヨミはイザナミ全域をカバーしている。しかし、一定の通信強度が保証され、かつ調査開拓団員たちに使用が許可された帯域というものがあるというだけの話なのだ。
つまり、管理者であればレッジの位置情報をどうにかして調べられるだろう、とラクトは予測していた。そして、ウェイドもそのつもりだったのだ。
『ですが、今回は完全に途絶していて。そんなことがありえないとは分かっているんですが、あの人なら……』
もう全て話したでしょう、とウェイドは木箱の上のショートケーキを見る。ラクトによって1/3ほどが食べられたものの、切り分けた扇形の鋭角部分から切り進めれていたおかげで、今ならまだクリームもたっぷり残っている。
ウェイドは必死だった。自身の分かることは全てラクトに話したと誓ってもいい。あの甘くてふわふわの生クリームを口いっぱいに頬張れるのであれば。
「ウェイドたちが何かを隠してるって説は?」
『ありません!』
ラクトが皿を左右に動かすと、ウェイドの目もそれに追随する。
「……わかった」
『じゃあっ! いただき――』
「それなら一緒に探しに行こうか。レッジが見つかるまで、ケーキはお預け」
『そんなぁあああっ!?』
すっくと立ち上がるラクト。ウェイドは悲痛な声をつきあげ、膝から崩れ落ちた。
━━━━━
Tips
◇ホワイトホイップショートケーキ
みんなのお菓子屋さん〈ポップ&ホイップ〉の定番商品。優しい甘さが特徴で、ふんわりと空気を含んだホイップクリームをたっぷりと使ったショートケーキ。新鮮なイチゴが色にも味にもアクセントとなっている。懐かしさも感じるような、基本を忠実に守り続ける一品。
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