第1625話「悠々自適に」

 海水というものは意外と光を遮る。真下に向かって数十メートルも泳げば、ほとんど日光は届かず、暗闇が間近まで迫ってくる。それでも泳ぎ続けていると、だんだん体が重たくなってくる。水圧だ。

 〈水泳〉スキルには副次的な効果として水圧への耐性も含まれる。つまり、レベルを上げればより深くまで潜れるわけだが、ついさっきゼロからレベルを上げ始めた俺はまだ体が追いついていないような状況だ。

 しかたがないから、少し泳ぐのをやめてその場に止まってみる。〈水泳〉スキルの効率のいいレベル上げには、適切な水深で泳ぐという条件が深く関わっているようだから、しばらくはレベル上げに専念したほうがいい。


(今のところ、〈生存〉スキルと装備バフのLP回復促進効果で窒息ダメージを相殺できてるが、どこかで釣り合いが取れなくなってくるだろうな)


 すでに酸素は枯渇し、現在はLPを削りながら潜水している。毎秒3ポイントほどのLPが削れているが、〈生存〉スキルと装備バフ、そして白玉を摂食したことによる過剰熱量によって毎秒3ポイントを若干だけ上回る回復を得ているような状態だ。

 この状況ではとてもじゃないが戦闘などできるわけがないが、〈黄濁の溟海〉にはそんな気配すらない。おかげで悠々と泳げるのだから気持ちがいいくらいだ。これは今後、〈黄濁の溟海〉が〈水泳〉スキル上げの定番となるのは必定だろう。


(レベル30になったか。早いもんだな)


 全身にかかっていた水圧の荷重が和らぐ。大雑把な目安ではあるが、レベル分の水深までの水圧ならば無効化できるという話は聞いたことがあった。となると、このあたりはまだ水深30メートル程度ということだ。深いといえば深いが、まだ浅瀬の範疇になる。


(さて、もう少し下がるか)


 レベルを上げるなら多少負荷がかかっているくらいが丁度いい。次は水深40メートル程度を目指して、再び底の見えない海を降りていく。

 前後左右どころか下にも足をつけるような場所が見当たらず、ただ深い青色のグラデーションが濃くなっていく大海は、それだけで本能的な恐怖をくすぐられる。いないと分かっていても、何かがこの闇の薄い一枚を隔てた向こうから見ているような気がする。


「もぼぼっ……。おぼぶぼぁっ……」


 追加の白玉を食べて過剰熱量状態を維持しつつ。水深40メートル地点で再びレベル上げをする。グルグルと水平方向に泳ぐだけで、面白いくらいにレベルが上がっていくのがとても楽しい。〈剣術〉スキルなんかの技術系スキルは後半になればなるほどレベル上げも大変になっていくが、〈水泳〉スキルや〈歩行〉スキルといった行動系スキルは適切な負荷をかけていれば比較的経験値効率も変わらないのが嬉しいところだ。もちろん、レベルアップに必要な経験値量はどんどん跳ね上がっていくのだが。

 有料課金アイテムである“高速学習回路”なんかを使えば、さらに獲得経験値は増えていくのだが……。そういった有料課金アイテムの購入は許可されていないんだよな。なんでも、決済が降りないらしい。それなら俺が決済システムを調整しようかと提案したのだが、烈火の如く怒られた。


 スキルレベル30帯は大体駆け出しの終盤。40レベルに差し掛かれば、中堅と言ってよい。だからか、30から40へ上げるのもそれなりに時間がかかる。グルグルと円を描くように泳ぐだけで一定量の経験値が入るとはいえ、道のりは長い。だからと言って無闇矢鱈と深く潜って負荷を上げればいいというものでもない。

 こういうときは焦らず急がず、じっくりと研鑽を積むべきなのだ。


(それにしても、本当に静かな海だなぁ)


 静寂とはこのことを言うのだろう。針の落ちた音さえも聞こえそうなほど、完全な無音。自分の拍動も感じられるかもしれないが、あいにく今の俺は機械の身だ。低く腹の底に響くような振動は、おそらく海流のうねりだろう。それも、音ではなく流れとして感じられる程度のものだが。

 人間が完璧な無音状態に身を置くことはまずない。世界は音に満ちているし、人間自身も音を発しているのだから。だからこそ、人間は完璧な無音という状態にまったく慣れておらず、そんな状況に置かれたら精神が疲弊する。

 とはいえ、俺にとってはわりと馴染み深い状況だ。FPOを始める前は、だいたいこんな感じの状況にいたからな。五感を切除して医療用ジェルの中に浮かんでいるだけの、生きているのか、死んでいるのかさえ定かではない状態。楽しみと言えるようなものもなく、精神そのものが枯れていくような、そんな実感が肌を焼くような。

 今ではそれに懐かしささえ感じているのだから、人間というのは不思議なものだ。


 沈んでいこう。底に向かって。


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◇イザナミ日報 本日の朝刊

【おっさん、行方不明に】


 先日よりログインの途絶えていた調査開拓員レッジ氏の行方が分からなくなっている。周囲の関係者へのインタビューから、現在は当人もログインしていることは分かっているが、彼がどこで何をしているのか依然として不明となっている。

 所属バンドのサブリーダー、L氏によれば、フレンドリストからログイン状態にあることは確認できるものの、現在地座標には当人の姿が確認できなかった。周辺の探索も行ったが、通信監視衛星群ツクヨミとの通信も途絶しているようで、現在もTELやメッセージを含めた連絡は一切取れていない。


 捜索活動に参加しているA氏は、レッジ氏がログインした際に、前回ログアウトした座標が海の上であったため、そのまま海中に落ちてしまったのではないかと予測。しかし、その場合は溺死によって最寄のアップデートセンターへ転送されるため、何かしらの異常事態に巻き込まれている可能性もあるという。

 一方でA氏は楽観的だ。「レッジさんならきっと無事ですよ。俺が保証します」。そう語る表情には余裕さえあった。


 有識者への取材では「レッジ氏が海中に潜っているのではないか」という意見も出たものの、大勢としては懐疑的だ。というのも、海上や海中では彼お得意のテントを展開することもできず、強力な植物の種を蒔いたという痕跡も見当たらなかった。また、レッジ氏は過去に〈水泳〉スキルを上げていたものの、現在は合計スキルレベルが逼迫している関係でゼロに戻しているという。所持重量の観点から見ても、彼が潜水装備を所持していたという可能性は低く、もし泳いでいるとするならば既に捜索に乗り出した潜水士によって発見されているか、もしくは溺死しているはずである。


 レッジ氏が消息を絶ったのは現在、第9回〈特殊開拓司令;月海の水渡り〉が展開されている最前線フィールドの〈黄濁の溟海〉。このフィールドでは定期的にSHIRATAMAと呼ばれる特殊な行動食を摂取しなければ強制死亡してしまうということもあり、当人の安否は定かではない。


 また当地では謎の植物型原生生物の出現も確認されており、それとの関連性についても調査が進められている。


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Tips

◇水圧

 水中を深く潜るほど、機体には水圧がかかる。これが閾値を超えると機体にもダメージが入り、行動も阻害されるようになる。水圧による影響は〈水泳〉スキル、〈耐性〉スキル、潜水装備などによって緩和することができる。


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