第1605話「腹が減った」

 気がつくと、俺たちは青空の下にいた。穏やかな海にクチナシ級がばらばらと浮かんでおり、調査開拓員たちもそこに倒れていた。


「おぼっ、おぼぼっ!?」

「うわーーーっ!? 浮き輪、誰か浮き輪持ってこい!」


 いや、大部分が甲板の上に倒れているだけで、数人は海でバシャバシャともがいている。同じように目を覚ました何人かが慌ててオレンジ色の浮き輪を投げ、彼らも一命を取り留める。


「これは……」

「時間切れってことなんだろうな。腹の具合をすっかり忘れてたよ」


 隣でレティが目を覚ます。彼女も同様に困惑していたが、俺は〈黄濁の溟海〉の表世界へ戻ったことを直感していた。常夜の裏世界とは異なり、ここは爽快な青空がどこまでも広がっている。

 次々と他の調査開拓員たちも目を覚まし、周囲がにわかに騒がしくなるなか、突如ザバァッ!と大きな飛沫が立ち上がる。膨大な海水を掻き分けて、巨大な何かが浮上してくる。

 すわ敵襲かと周りが身構えるなか、現れたのは濡れた黒髪の間から立派なツノを突き出させたイザナミである。


『パパ、みんな無事みたい。良かった』


 龍の下半身のままスイスイと器用に泳いできたイザナギは、落ち着いた様子だ。しかし、その全身は海面上に見える範囲だけでも目を背けたくなるほど痛々しい。おそらく、特定禁忌武装の使用による反動なのだろう。強靭な龍の肉体であっても、ミミズが這い回ったような焼け爛れた傷跡が全身に残っている。

 その表情も平静を保っているように見えて、実際には少し体を動かすだけでピクリと眉が揺れている。痛むのだ。


「誰か、〈手当〉スキルを持っている奴はいないか。イザナギの傷を診てほしい」

「俺でよければ。とりあえずアロエは持ってきたぞ」


 近くの船に呼びかけると、すぐに渡し板が甲板にかけられ、ズシズシとそれを軋ませながらガタイの良い白衣の男が現れた。彼は付いてきた部下らしい調査開拓員に指示を出し、早速治療を始める。イザナギも素直にそれを受け入れているあたり、実際辛いのだろう。


「レッジさん、大丈夫ですか?」

「アストラ。おかげさまで、なんとかな」


 すたり、と甲板に降り立ったのはアストラだ。彼も空腹と同時にこちらへ戻ってきたのだろう。心配そうにこちらを窺っているが、俺自身はピンピンしている。シフォンが力尽きて真っ白になっているくらいだ。


「これはいったい、何が起こったんでしょうか」


 アストラは状況がまだ掴めていない様子で首を捻る。

 彼からしてみれば、突然イザナギが灼熱の閃光を放ったかと思えば、それで倒れたはずのイザナミが生き残り、凄まじい熱線を返してきた、かと思えばシフォンがそれをパリィしている間にトーカが首と認定して斬り、直後に腹が減って倒れてしまったのだ。うん、よく分からないな。


「白玉の時間まではまだ余裕があったはずです。それなのに、個人差もなく一斉に飢餓で倒れるなんて……」


 とはいえ彼も騎士団長だ。何も状況が分からないままというわけではないらしい。

 アストラの指摘した通り、今回の空腹には不可解な点がある。白鹿庵と騎士団、それ以外も含めて数百人規模の調査開拓員がそこにいた。当然、全員が全員同じタイミングで腹が減るはずがない。最後に白玉を食べた時間もマチマチで、本来なら数分から数十分程度の誤差があるはずなのだ。にも拘わらず、俺たちは一斉に空腹で倒れた。不可解な現象だ。

 そして、その答えを俺は察している。


「たぶん、彼女が助けてくれたんだ」


 グルグルと大きな体に包帯を巻かれているイザナギ。彼女が視線を一点に向ける。何もない海が広がっているように見えるそこを、じっと見つめる。すると、観念したようにはらりと透明のカーテンが広がり、その向こうから桃色の髪の少女が現れた。

 カーテンに見えたのは、大きな白い翼だ。彼女は羽ばたくことなくその場に浮き上がり、こちらを見下ろしている。その背中には、ずっしりと重たげな風呂敷があった。


「トヨタマ、来てくれてたんだな」

『うぅ……』


 空腹に倒れる間際、彼女の声がした。裏世界のあの場所は、トヨタマ達がいる作戦本部と座標が同じだった。何かしらの手段で、彼女は裏世界へ行けるのだろう。

 彼女が俺たちを助けたのか、それとも彼女自身でもある白龍イザナミを助けたのか。それはこれから聞かなければ分からない。それでも、彼女が介入してきたことは確かだった。


『と、とりあえずこれ、食べて! お腹空いてるでしょう?』


 甲板へ降り立ったトヨタマは、どさりと風呂敷を置く。二メートル近い彼女の体格を考えると、風呂敷もかなりの大きさだ。結び目が解かれると、大量の食料が雪崩を起こした。

 不思議なもので、それまで空腹を忘れていたはずなのに、食料を目にすると腹の虫が鳴き始める。特に隣のレティがソワソワと落ち着きを無くし始めた。

 しかしトヨタマが持ってきたのは生米や丸のままの魚など、食事というより食材という方が正しいようなものばかり。このままで食べられないわけではないだろうが……。


「おおーーーいっ!」


 その時、また新たな声がする。その方向へ顔を向けると、小さな船が快速でこちらへ近づいてくる。その屋根の上に胡座をかいているのは浪人風の着物を纏った青年で、その背後に虎柄の猫型ライカンスロープの少女が立って大きく手を振っている。


「ちょうど良いタイミングで来てくれたな」

「げぇっ!?」


 レティが何やら悲鳴をあげるなか、船の操舵室から二人の女性が現れる。一人は黒髪を風になびかせるタイプ-ゴーレム。もう一人は金色の特大盾を背負った小柄な少女。ゴーレムの女性――投擲師のモミジがおもむろに大盾の少女、光を持ち上げ、


「てりゃあああああああああっ!」


 勢いよく投げる。


「うわーーーーーっ!?」


 それはまっすぐにレティに迫り、二人は激突して甲板の上に転がる。


「よし、ちゃんと狙い通りの軌道でしたの!」

「衝突事故起こしましたけど!?」


 レティのツッコミを華麗に無視して立ち上がった光。彼女はトヨタマを見てニコリと笑う。


「ひとまず、そちらは首尾よく進められたようですね。こちらも、ミツルギさんを通して〈ダマスカス組合〉に話をつけましたの。積もる話もありますでしょうが、まずは腹ごしらえと参りますの!」


 〈紅楓楼〉を乗せた船が軽快に警笛を短く鳴らす。彼らの小船の背後から、巨大な艦船群が勇壮な隊列を組んで現れた。〈ダマスカス組合〉のマークを掲げたその船は、大量の支援物資と、充実した調理設備を有する支援艦隊だ。


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Tips

◇風呂敷

 シンプルな一枚布。使い方次第で様々便利。

 所持可能重量+15kg


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