第1573話「空腹の極限」
霞む意識のなか、必死に腕を動かして腰の巾着袋に入れていた白玉を手にとる。もはや平衡感覚も狂い、自分がどんな体勢になっているのかさえ分からない。まるで夢の中にいるかのような不確かななかで、腹だけが急激に減っている。全身が枯死するような感覚が、薄氷の下へと落とされるような恐怖が沸き立つ。
「はぁ、はぁ……あがっ」
ギリギリの状況で手を動かし、口を動かす。舌の上にもちもちと柔らかいものが現れ、それを噛み締める。その瞬間――。
「お、おおおっ!? おおおおおおおっっ!!!」
突風が吹き、全身の倦怠感が消し飛んだ。
視界は明瞭。いや、それ以上。世界が輝いて見える。活力がみなぎり、今なら垂直に100メートルだってジャンプできそうな気がしてきた。すさまじい全能感だ。
「いっそ怖いくらいの効果だな。しかし甘すぎる……」
口の中が蜂蜜で満たされたかのような甘さだ。舌がビリビリと痺れ、一周回って苦味すら感じ始めている。今すぐにコーヒーをぐいっといきたいところだが、あいにくそんな暇はない。
甲板の上は死屍累々。レティもLettyも、トーカもヨモギもクチナシも、みんな揃って倒れている。一応、全員生きているようだが、ステータス欄には“飢餓”という見慣れない状態異常が表示され、LPが急激に減少していた。
「とにかく、まずはクチナシだな」
優先順位はまずNPCのクチナシから。しかし、まさか彼女にも海の魔力が及ぶとは思わなかった。SHIRATAMAは調査開拓員にまず15個ずつ配布されているだけだから、彼女には俺のものを分け与える。
「クチナシ、これを食べろ。舐めるだけでもいい」
『う、うきゅぅ……。う、うわあっ!?』
SHIRATAMAの効力は覿面で、半分に割った白玉を口の中に捩じ込まれたクチナシは目を大きく開いてがばりと飛び起きた。もう半分も渡すとごくりと飲み込み、活力の漲る自身を少し不安な目で見下ろしていた。
「とにかく船の状況を確認してくれ。周囲の船が操作不能になってぶつかってくる可能性もある」
『あいあいさー!』
SCSであるクチナシは、船の操舵を含めた全機能を統括してくれている。彼女に頼んでおけば、仮に他の船が飢餓に襲われ危険な状態になっていたとしても、とりあえず回避はできる。
「っと、そういえばカミルは……」
NPCはクチナシだけではない。カミルもまた、この船に乗船していた。彼女も倒れてそのまま力尽きると大変なことになる。慌てて甲板を見渡すも、その姿が見当たらない。まさかと血の気が引いたその時、船倉に繋がる扉がガチャリと開いた。
『うわっ、やっぱりみんな倒れてるじゃない。無様ね』
「カミル! 無事だったのか!」
開口一番に毒舌を吐くカミル。とにかく、彼女は平然としているので胸を撫で下ろす。
思わず大きな声を上げた俺を見て、カミルは呆れたように息を吐き出す。
『当たり前でしょ。元々情報はあったんだから、備えておいたに決まってるじゃない』
「うん? ああっ、俺の白玉!」
彼女は懐からSHIRATAMAを取り出して見せる。まさかと思って巾着を見てみると、俺とクチナシで使ったぶん以上に減っている。
『アンタの財産の管理権限は持ってるから、いくつか貰ったわよ』
「せめて事前に一言言っててくれよ……」
カミルには、バンドの資産管理を任せている関係で色々な権限を付与している。彼女はそれを利用して、知らない間に白玉もちゃっかり確保していたらしい。事前に言ってくれていれば普通に渡すのだが、こういうところが協調性ゼロの所以なのだろう。
『それより、他の人はいいの?』
「おっと、危ない危ない」
助けなければならないのはNPCたちだけではない。レティたちも白玉を手にとる前に飢餓感が閾値に達し、気絶してしまっていた。優先するべきはLP最大量の少ない人から。〈白鹿庵〉なら機術師のラクトが最優先になる。
「ラクト、白玉だ。食べてくれ」
「うきゅぅ……」
彼女の口の中にSHIRATAMAを捩じ込む。その瞬間、電流が走ったかのようにラクトが跳ね、目を開く。
「う、うわわっ!? なにこれ!?」
「いよいよフィールドが牙を剥いてきたみたいだ。レティたちを起こしてくれ」
「れれれれ、レッジ!? も、もしかしてわたし、レッジに口移……。あわわあっ!?」
うーん、このSHIRATAMA、効果はしっかりあるみたいだが、テンションが上がりすぎる副作用もあるらしい。顔を真っ赤にさせて壊れたレコードのように声を出し続けるラクトの頭をぽんぽんと撫で、次にLPの少ないミカゲの元へ向かう。
「ミカゲ!」
「……大丈夫。復活した」
「おお。さすがミカゲだな」
しかし、こちらは俺が助けるまでもなく気怠げに身を起こす。覆面に口元も覆われてSHIRATAMAは食べにくそうだと思ったが、どうやら事前に口の中に仕込んでいたらしい。
「口の中に毒を仕込むのは、忍者の基本」
「白玉だよな?」
なぜかドヤ顔のミカゲは、とりあえず元気そうでよかったということで。
〈白鹿庵〉で一番LPが多いのはエイミーで、次いでレティとLetty。トーカ、シフォン。ヨモギ、そしてアンだ。
「アン、大丈夫か?」
「うぅ……。むぐっ、うわああああっ!?」
「ヨモギ! これを食べろ!」
「師匠!!!!!!」
「シフォン!」
「もぎゅっ。はえぁあああああっ!?」
次々と白玉を食べさせて、復活させていく。トーカもつつがななく復活したところで、次はレティかLettyだと向き直る。
「レティ――」
「レティ、白玉だよ!!」
「むぎゅううっ!?」
――と思ったら、俺がレティに向かう前にラクトが白玉を突っ込んでくれていた。
起きている人数が多ければ、助けられる人数も増える。ひとまず白玉を一つ食べておけば、30分ほどは飢餓に耐えられるらしい。
「うぅ、大変な目に遭いました……」
「おはようレティ。突然だったな」
最後のエイミーまで復活し、かなり疲れた様子のレティがとぼとぼとやってくる。
まさかこれほど前触れもなく一瞬で倒れてしまうとは思わなかった。これは常に満腹度を確認しながら進む必要がありそうだ。
『レッジ、いくつかの船が応答なし。たぶん、SCSも積んでなくて、全員行動不能になっちゃったんだと思う』
「やっぱりそういう船も出てくるか。しかたない、ぶつからないように気をつけてくれ」
飢餓による昏倒は一瞬だ。俺のようにすぐに手に取れる場所に白玉を備えておかなければ間に合わない。インベントリから取り出すという動きさえも遅すぎるほどなのだ。
今回のイベントは、思っていた以上に過酷なものになるのかもしれない。
未だに影の一つさえ見えない海を見渡し、俺は気を引き締めた。
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Tips
◇飢餓
〈黄濁の溟海〉にて発生する異常事態。急激にエネルギーが枯渇し、意識が落ち、LPが急激に減少する。高密度の熱量を摂取することで凌げる。
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