第1572話「茫洋の海」
第9回〈特殊開拓指令;月海の水渡り〉が始まった。T-1の告知から数日の準備期間を経て、いよいよ今日が開幕の日である。出発地となるのは〈エウルブギュギュアの献花台〉の集積地。そこには多くの調査開拓員たちが万端の準備で気炎をあげていた。
「いよいよ始まりますね、第9回イベント!」
「何が出てこようと斬るだけです」
久々に大々的な公式イベントの開催ということでレティたちのテンションも鰻上りだ。干潟の向こうに広がる海にはすでにクチナシをはじめとした船がずらりと並び、壮観の様相を呈している。
「それで、これが例の白玉?」
「そうだな。今回のキーアイテムだ」
ラクトが取り出したるは色も大きさもピンポン玉のような丸い物体。触るとプニプニとした弾力を返してくるこれが、先のコンペを経て開発された高効率携行食SHIRATAMAである。
見た目はただの白玉団子だが、一口食べると凄まじい甘さが脳髄まで侵食し、濃いブラックコーヒーがなければ目眩を起こすほどの衝撃を発する。それもそのはず、この大きさで5,000kcalという馬鹿げた熱量を内包しているのだ。
〈特殊開拓指令;月海の水渡り〉を遂行するためには、このSHIRATAMAが必要不可欠となる。というのも、干潟の先に広がる広大な海〈黄濁の溟海〉は何故か進むほどに激しい飢餓感に苛まれるという特徴を持つ。それを抑えるためには、超高カロリーの食品で凌ぐほかなく、わざわざこのようなものが開発された。
決して、どこかの甘党な管理者の暴走ではないのである。
「とりあえず最初は各人15個ずつ貰えるんだな」
「ちょっと少ないですよね」
「そうかなぁ」
このSHIRATAMAは工場で生産しているとはいえ、コストも高く大量に揃えられるものではない。そんなわけでイベント中はそれぞれの功績に応じて交換できる制度が敷かれていた。
参加するだけでとりあえず15個は貰えるようだが、それが多いのか少ないのかも分からない。
「とりあえず出航しましょう! もう他の方に出遅れてますよ!」
「あ、ああ。……それはいいんだが」
〈白鹿庵〉も当然ながら、今回のイベントは参加する。だが、中でも特に興奮気味に俺たちを急かすのは、少し意外な人物だ。
「アンもすっかり馴染みましたねぇ」
高そうな金属製の釣竿を担ぎ、長靴にツナギ姿と気合いの入ったガチ装備の少女を見て、レティは嬉しいやら呆れるやらの複雑な表情をする。
「何を言っているんですか、お嬢様。早く行かないと大物が釣られてしまいます!」
レティとはリアルでも親密な仲で、彼女を追いかけてやってきたアンは、つい最近〈白鹿庵〉に加入したばかり。にも関わらず、すっかり調査開拓員としての姿が板についている。
彼女は様々なプレイスタイルの中でも特に釣りという営みに興味を向けているようで、漁協連などが行う講習なんかにも足繁く通っている。そうして装備も揃えてスキルも専用に鍛え、今では一端の釣り人と成り上がった。
彼女にとって、新しい海――〈黄濁の溟海〉は新しい釣り場に他ならない。だからこそ、次々と船が発進していくのを見て焦っているのだ。
「さあ、さあさあさあ!」
「分かりましたから、押さないでくださいよう」
テンション高めのアンに背中をぐいぐいと押され、俺たちも海辺に停泊している白い船に乗り込む。甲板で待ち構えていたのは麦わら帽子を被ったクールな少女、クチナシだ。
『おかえり、レッジ』
「おう。今回もよろしく頼むよ」
「さあ、早く魚群を見つけましょう! でっかい大物でもいいですよ!」
俺たちにはお馴染みのクチナシ十七番艦には、ちゃっかり最新鋭の大型魚群探知機が搭載されている。俺が知らない間にアンがわざわざ購入して運び込んだのだ。最近は俺よりもアンの方がクチナシに乗っていることが多いまである。
「さあさあ、お祭りの始まりですよ!」
「なんかすごくテンション高くてびっくりするんだけど」
「普段はこんな子じゃないんですよ」
アンの豹変ぶりはレティでさえ困惑を隠せないほどのようで、俺たちはぶんぶんと釣竿の素振りを始める彼女を遠巻きに見つめながら、船が進み出すのに身を任せる。
「あれ、そういえば」
その時、ふと思い出す。今回の舞台になる〈黄濁の溟海〉は……。
━━━━━
「は、は、は……? な、なんにも映らないんですけど。この魚探壊れてます? え? は?」
黒一色のディスプレイを前にして、顔面蒼白になったアンが崩れ落ちる。白と黒のコントラストがくっきりしてるな、などと言おうものなら即座に拳か釣り針が飛んできそうな気配だ。
〈黄濁の溟海〉へ乗り出して十分ほど。まだ腹が減る気配はないが、異変はあった。アンが高い金を注ぎ込んで買った魚群探知機に、全くもって生命の反応が映らないのだ。
以前T-1が言っていたことを思い出す。この〈黄濁の溟海〉は途方もなく広い海だが、どこを探しても生命の痕跡ひとつ見つからないと。美しい深蒼の海は、その水面下に純然たる死の気配を満たしているのだ。
「おさかな、おさかな釣りたい……つり……つりり……」
「アン、しっかりしてください! アン!」
ぽかんと口を開けて魂を半分出したアンに、レティが悲鳴をあげてその身を揺らす。
しかし魚探はいっこうに反応を示さず、甲板から見える海も波一つ立たない穏やかなものだ。
「ある意味楽ではあるけど、味気ないわねぇ」
遮るものもない海を、クチナシは軽快に走っている。風に紫の髪をなびかせながら、エイミーが少し肩透かしを食らったような顔で言う。実際、周囲に見える他の船も、とりあえず直進しているだけだ。目新しいものもないから、どの船も速度を変えることがなく、結果として同じような景色のなかを一緒に走る他ない。
「幽霊ならば斬る自信はありますが、さすがに存在しないものは斬れないですね」
「トーカが哲学的なことを言い始めたよ。これはちょっとダメかもね」
アンと並んで大太刀の素振りをしていたトーカも心なしか悲しそうだ。
どこまでも広がる海に、敵も存在しない環境。せっかくのイベントだというのに、みんなの気持ちが沈んでいくのが分かった。ここはひとつ、俺の特別なギャグでひと笑い起こしてやろうかと思い立ったその時だった。
「うっ、うきゅぅ……」
「Letty!? どうしたんです――う、か……」
「レティ! ぐ、ぐぁあっ」
突然、Lettyが倒れる。それに駆け寄ろうとしたレティもまた、崩れ落ちるように。驚く俺は、ラクトやトーカ、更にはクチナシまでもが腹を抑えて倒れるのを見る。そして自分もまた。
「腹が、減った……!」
まるで胃がまるごと虚空へ消えたかのような。飢餓感と呼ぶのも憚られるような凄まじい空腹が身を襲う。霞む視界のなか、俺は咄嗟に懐に手を伸ばした。
━━━━━
Tips
◇フィッシュみつける君V7-MarkⅢスペシャルDX
船舶設備専門生産系バンド〈サザナミテクニクス〉が開発した新たな魚群探知機。有効範囲は水平方向に半径500m、垂直方向に300mで、30cmクラスの原生生物も正確に捉える精密性をもつ。
その特性上、起動時は周囲の原生生物に弱度の刺激を与えてしまうほか、重量と大きさから搭載できる船舶にも制限があるが、それを加味してあまりある性能を誇る。
Now Loading...
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます