第1558話「太古の叫び声」
瀑布から産地直送でやってくる大量の水が中央制御区域を沈めていく。ギシギシと強化アクリルガラスと黒鉄鋼高耐久鉄骨の水槽を軋ませながら。水嵩が増すほどに、水槽の中に入った人魚たちの動きは活発になっていく。まさに水を得た魚のようとはこのことだった。
『本当に大丈夫なんでしょうね!? これ、壊れたり水漏れしたりしないですよね!?』
「安心してください。〈ダマスカス組合〉と〈プロメテウス工業〉が共同開発した水槽ですよ。数百トンの衝撃にだって耐える設計になっているんですから」
始まってしまえばウェイドとて止めることはできない。右往左往する彼女にレティが太鼓判を押すが、微塵も信用されていないようだった。
「とりあえず、解析班の皆さんの活躍を見守りましょう」
人魚たちに続いて、潜水装備に身を包んだ解析担当の調査開拓員たちも水槽に飛び込んでいく。エンジェルの言語が解読できるか否かは、彼らの尽力にかかっているのだ。
『ほー、コイツがポセイドンさんの言ってた奴か』
『ずっと笑ってて気味が悪いな』
『なんか喋りそうなツラはしてるが……』
塔に身を寄せて立ち上がった体勢のエンジェルに、水位が迫る。人魚たちが尾鰭を揺らしてその目の前にまで迫り、じっくりと観察を始める。微笑みを浮かべたまま微動だにしない白い獣は、彼らにとっても奇異に映るようだった。
「ポセイドンさん、あの方たちは?」
『〈ウェイド〉に行って謎の生物を調べるって言ったらついてきた! 学者もいるけど、だいたいみんな漁師だぞ』
「なるほど。だから銛を持ってるんですね」
エンジェルを取り囲む人魚は五人。老齢のひとりを除き、四人は屈強な体つきで手には立派な銛を携えている。彼らに共通するのは、ポセイドンの急な誘いにも即座に手を挙げた活発な人魚たちということだけだ。
『とりあえず突っついてみるか?』
『あんまり触るのはポセイドンさんに止められてるぞ』
『先っちょだけだからさ』
胸を貝殻で隠したいかにも人魚といった装いの女性が、真っ先に過激なことを言い出す。壮年の男人魚が止めようとするも、彼女は聞く耳を聞かずに銛を突き出す。
エンジェルはこれまで、どのような攻撃が向けられても反応を示さなかった。だからこそ、ポセイドンも一応忠告はしていたものの、それが大きな変化を起こすとは考えていなかった。当然、趨勢を見守るT-1たちやレティたちも。
『せいっ!』
女人魚が銛を突き出す。その鋭い切先が、エンジェルの硬い鱗に突き立てられた、直後のことだった。
『キィイイイイイイイイイッ!』
『うわっ!?』
水面を揺らす甲高い声。銛を繰り出した女人魚だけでなく、周囲の人魚たち、さらにはシュノーケルを装備した調査開拓員たちも、もろとも勢いよく後方へと吹き飛ばされる。
「ぐわああっ!?」
「ふげっ!?」
『ぎゃあっ!』
一斉にガラスへ叩きつけられる人魚たち。大きな音を立てる水槽に、ウェイドが小さな悲鳴をあげるなか、周囲に待機していた警備NPCと戦闘職の調査開拓員たちが一斉に武器を構える。
「まだ撃つな! 状況を確認する!」
アストラが咄嗟に声を張り上げなければ、凄まじい集中砲火が始まっていたことだろう。彼のリーダーシップが、緊迫した空気をぎりぎりで押し留める。
人魚たちも調査開拓員も、死んではいない。銛を繰り出した女人魚だけが気絶してぷかりと浮いているが、他は呻きつつも意識はあるようだ。すぐさま救護班が人魚を回収し、解析班の待機人員が状況を精査する。
「今の声は」
「エンジェルのもので違いないかと」
「サンプル取れてます」
「解析に回せ!」
「ただの鳴き声じゃないのか?」
「周波数になにか隠れているかもしれん」
慌ただしく動き出す人々。エンジェルが初めて発した音である。その意味を理解しようという試みはすでに始まっていた。
「人魚族の皆さん、あの声の言っていることは分かりましたか?」
『ただの甲高い鳴き声にしか聞こえんかったよ』
人魚族へのインタビューも行われるが、学者らしい人魚でさえその声に意味を見出すことはできないでいた。やはり天使語などというものは存在しないのではないか、そんな考えがアストラたちの脳裏を過ぎる。
その時、緊張感を漂わせていた群衆の中から声があがる。
「お、おい。なんかエンジェルの表情が変わってないか?」
「えっ?」
「ほんとだ……。なんか、ちょっと不満げというか……」
ざわつく気配を感じて、アストラたちもエンジェルの顔を見る。これまで変わらず微笑を湛えてきた、妙に人間的で奇妙だったエンジェルの表情。それが――。
「怒ってる?」
わずかにだが、崩れていた。
眉間が寄り、皺ができ、目が薄く開かれている。口元もわずかながら窄まり、全体の印象が微妙に変わっている。些細な変化だ。しかし、ずっと微笑を浮かべていただけに、強烈な違和感を放っている。
「もしかして、水中なら攻撃が通じるのか?」
「とはいえ攻撃を再開したところでいい結果は得られなさそうだけど」
顎に手を添えて考え込むアストラ。アイはじっとエンジェルを見つめながらそれに応じる。人間ではない存在の表情がどれほど信頼できるものかは未知数だが、ちょっかい程度の銛を突き出した人魚は気絶し、周囲の者も巻き込まれて吹き飛ばされた。たとえエンジェルが水中であれば攻撃が通用するとはいえ、積極的に攻撃するとどうなるのかは未知数だ。
このまま攻撃を続けてみるというのも一つの手ではあるが、その場合どれほどの被害が出るかもわからない。その上、レッジからの助言は完全に無視することとなるだろう。
「団長!」
解析班から声が上がる。
「さっきのエンジェルの声、いろんなサンプルデータと比較してみたんですが」
エンジェルの声が波長として分析され、騎士団が所有する無数の音声と重ねられる。調査の一環でサンプリングされた各地の原生生物の声が次々と流れていく中、一つだけエンジェルの声と波長がある程度一致するものが見つかった。
「〈剣魚の碧海〉深層のボーンシャークですよ」
「鮫の鳴き声だったのか?」
「いえ、そうではなく。ボーンシャークが身につけている大量の骨は、水底にある化石なんです。それをわざわざ集めて組み立てた物好きがいるんですが……。そのなかでエンシェントホエールという現在は確認されていない原生生物の骨格が採取されました」
「それがどうしたんだ」
結末の見えない話に、アストラが眉を寄せる。解析班の男は、興奮気味に語り続ける。
「エンシェントホエールの骨は体の3%くらいしか見つかってません。ただ、頭周りの骨が揃っていたこともあって、その物好きはエンシェントホエールの鳴き声を再現しようとしたんですよ」
「つまり……その声と一致したのか?」
「2オクターブくらいズレていますがね。波長はかなり近いですよ」
現在は存在しないエンシェントホエール。その骨格から再現された鳴き声と、エンジェルの声がある程度の相似を見せた。その事実は、解析班の男でさえもにわかには信じ難いようだった。
「アレ、元々はおっさんが作った生物が元になってるんですよね。おっさんは何を元にしてシュガーフィッシュを作ったんです?」
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Tips
◇エンシェントホエール
ボーンシャークが身にまとう大量の骨から採取された化石によって復元が進められた原生生物。現在は生存している個体の発見例はなく、かつて滅んだ種であると推測されている。
全長はおよそ40mほどと推定されるが、全身骨格の3%程度しか発見されていない。
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