第1538話「爆発しないで」
愛衣が通されたのは学校の教室三つ分はあろうかという広々としたキッチンだった。アイランド式の設備がずらりと並び、壁には大型の業務用冷蔵庫やオーブンなどが揃っている。明らかに一般家庭のそれとは乖離した充実の設備に、愛衣はトートバッグを握りしめて唖然とするほかない。
「それじゃあ早速始めましょうか!」
「すごい……。ここなら何でも作れそうだね」
「必要なものがあれば言ってくださいね。ある程度は買い揃えてますが、なければ買いに行かせますから」
「あ、うん。ありがと」
事前に用意された材料は、小麦粉や卵、砂糖といった定番のものから、生のカカオ豆、キャビア、人工甘味料まで。この世の全てを集めてきたような雑多ぶりだった。少なくとも愛衣が持参したレシピブックにあるものは、全て余裕で作ることができる。
改めて清麗院家の財力に圧倒されながら、愛衣は早速準備を始める。手を洗い、エプロンを身につけ、レシピブックを机上に広げる。
「まずは何を作るんですか?」
「とりあえず簡単にアイシングクッキーでもどうかなって」
「クッキーですか! いいですねぇ。焼くだけで簡単ですし!」
レシピブックを覗き込んだ茜が声を弾ませる。そんな彼女の頭部にウサギの耳を幻視しながら、愛衣も誌面に印刷された可愛らしいハート型のクッキーと、その下に連ねられた原材料を見る。
アイシングクッキーは混ぜて焼くだけのシンプルなお菓子だ。その上、砂糖もそれなりにたくさん使うことになる。これならばお菓子作りが苦手らしい茜でもできるだろうとの考えから選ばれた。まずは肩慣らしと言ったところである。
「それじゃあ茜さん、粉類を振るってくれますか?」
「粉を振る……? わかりました!」
小麦粉の下処理を茜に任せ、愛衣はバターをレンジで温める。更に手際良く、アイシングの材料を揃えようと――。
「てぇああああああいっ!」
「うわーーーーっ!?」
突如茜の声。同時に白い煙幕が室内にぼわんと広がる。
愛衣が驚いて振り返ると、そこには小麦粉の空袋を握ってきょとんとしている茜が立っていた。
「ちょっ、茜さん!? 何やってるんですか?」
「何って、粉を振って……」
「粉は篩で振るうんですよ!」
「そうなんですか!?」
全身を真っ白にした茜が目を丸くする。お菓子作りの基本だと思っていた愛衣は、予想以上の展開に呆然としていた。
「お嬢様! って、何やったんですかこれは!?」
騒ぎを聞きつけ、杏奈が飛び込んでくる。一面雪が降ったように真っ白に染まったキッチンを見て、彼女も飛び上がって驚いていた。すぐさま応援のメイドたちが呼び寄せられ、瞬く間に小麦粉が片付けられる。
「うぅ、申し訳ありません……」
「いえ、その、じゃあバターの様子を見てくれますか?」
「分かりました!」
レンジを使ってバターを常温に戻していた。その様子を確かめるくらいならば茜でもできるだろうと愛衣は過信していた。
「うーん、ちょっと冷たい気がしますね。もうちょっと温めますか。えっと、3,000Wで……」
「うわーーーっ!?」
レンジから出てきたのは黒焦げになったボウル、茜は再びしょんぼりし、愛衣は言葉を尽くして慰める。リアルではそれなりに年齢も離れた二人だが、そんな失敗とフォローを繰り返すうちに距離は縮まっていく。
「あ、茜さん、オーブンの予熱をお願いします」
「2000℃くらいでいいですか?」
「170℃でお願いします」
もはや茜のぶっ飛んだ発言にも動じなくなり、テキパキと指示を出す。茜もわざと失敗したいわけではなく、むしろ一度教えればしっかりと学んでくれる。愛衣の方も、彼女が特に数字を全体的に大きめに見積もっていることに気付いてからは、具体的なデータで指定するようにした。
「クッキーが完成したら、アイシングでデコレーションしていきましょう」
「いいですよぉ。ここからが腕の見せ所です!」
クッキーが焼きあがれば、いよいよアイシングによるデコレーションだ。それ以外にもチョコペンやアラザンなども一通り揃っている。これだけあれば、色々な表現ができるだろう。
茜もテンションを上げて、早速愛衣が作ったアイシングを手にとる。
「ぬぬぬぬ……」
「いい感じ! こういうの得意なの?」
ハート型のクッキーに縁をつくり、薄いピンクを流し込む。更に赤色で小さなハートを散らし、チョコスプレーを飾る。
茜の手際はこれまでの動きが嘘のようにテキパキと無駄のないものだった。出来上がっていくクッキーも、丁寧で素晴らしい完成度だ。
「爆発しない作業はできるんですよ」
「爆発しない作業……」
後ろで杏奈が額に手を当てている。その姿を見て、愛衣も普段の茜を少し察することができた。
「完成です!」
「おー、美味しそう!」
ついにアイシングクッキーも完成し、茜と愛衣は手を取り合って飛び跳ねる。
なんということはないシンプルなクッキーだが、それなりのものが完成したというのは自信に繋がる。
「よーし、この調子で次はケルノン・ダルドワーズを」
「待って待って。私の知らないお菓子を作り始めないで」
物事には順番というものがある。愛衣は勇足で次へ向かおうとする茜を慌てて止めて、レシピブックからアイシングクッキーよりもう少しだけ難しそうなお菓子を探し始めるのだった。
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Tips
◇アイシングクッキー
糖衣によってデコレーションしたクッキー。甘くて美味しく、見た目にも楽しい。
食べると3分間、アーツの消費LPが3%軽減される。
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