第1537話「普通の少女」
唐突に送られてきた茜からの誘いを受けた愛衣は、待ち合わせ場所として指定された駅前の広場で時間を待っていた。暑いくらいに日差しの降り注ぐなか、忙しなく歩き行く往来を眺めながら、少しの緊張に頬を引き締める。
レティの正体が清麗院家の一人娘であることは、彼女もすでに理解しているところだ。とはいえ、その豪邸にお邪魔したのは一度だけであり、今回が二度目となる。愛衣もFPOでこそそれなりの知名度を持っていると自認しているものの、それはいわゆる廃人に片足を突っ込んだプレイによるところが大きい。リアルではただの一般家庭の高校生でしかなく、あまりにも格が違いすぎる。
「はぁ。なんでお菓子作りに誘ってくれたんだろ。って、もしかしなくてもコンペの為だよね」
持参したトートバッグには、一応レシピブックを入れてきている。調理道具などは一通り揃っていると言われているため荷物は軽いが、気持ちは重たい。
茜の思惑は愛衣でも推測できる。近々開催されるFPO内でのスイーツコンペティションに彼女も参加するのだろう。完全手動操作が解禁されるため、戦闘職であるレティでも参加自体は可能だからだ。
そして何より、愛衣自身も参加するつもりだった。向こうもそれは織り込み済みのようで、郵便受けに入っていた招待状には『共同戦線』という文字も記されていた。
「リアルお嬢様と私とじゃ、全然敵わない気がするんだけど……。レティの優しさかなぁ」
お嬢様がキッチンの壁を爆砕したことを知らない愛衣は、今回の招待が自分への救済だと思っていた。茜が清麗院家の素晴らしい調理設備を貸してくれると言われたのだから、そう考えるのも無理はない。
だからこそ彼女の緊張はあくまで、自分が清麗院茜を前に大変な失敗を起こさないかという点に起因していた。
「太刀川愛衣さんですね。お久しぶりです」
「あ、わっ。えっと――アンさん?」
木陰の中で思考に集中していた愛衣は、不意に名前を呼ばれて飛び上がる。いつの間にか目の前に、現代日本では珍しいメイド服に身を包んだ少女が立っていた。彼女の顔は知っている。茜の側仕えであり、前回のオフ会の際にも見たことがあった。それと同時に、愛衣はゲーム内での少女の面影も感じていた。
「こちらでは杏奈とお呼びください。美園と呼んでいただいても構いませんが」
ゲーム内で顔を合わせた時よりも落ち着いた物腰で、彼女は軽く礼を繰り出す。愛衣も慌てて頭を下げると、杏奈は近くに停まっている黒塗りの高級車へ促した。
「本日はご足労いただきありがとうございます。あちらへどうぞ」
「は、はひ……」
愛衣はトップバンドのサブリーダーとはいえ、リアルでは一般家庭の一般JKである。周囲のどよめくような気配に追い立てられるようにして、急いで高級車へと飛び込んだ。
「こんにちは、アイさん。来てくれて嬉しいです」
「レティ……」
車内で待ち構えていたのは、黒髪を長く伸ばした細身の少女だ。落ち着いた軽い雰囲気のワンピースを着て、ニコニコと目を細めている。いかにも深窓の令嬢といった様子
で儚げな可憐さを醸しているだけに、愛衣は困惑を隠せない。
「本当にレティだよね?」
「なんですか。疑ってるんですか?」
「いや、そうじゃないけど……」
ぷっくりと頬を膨らませる様子を見て、ようやく確認も取れる。愛衣がソファに身を沈めると、高級車は静かに走り出した。
「いやぁ、それにしても愛衣さんが引き受けてくれて助かりました」
全く揺れることのない車内で紅茶のカップを手に、茜がしみじみと溢す。
「私も嬉しかったよ。ウチの台――キッチンかなり狭いから。お菓子作りしようとするとFPOに課金するぶんの小遣いも減っちゃうし」
太刀川家はマンションに両親と兄妹の四人で暮らしている。キッチンも一般的な広さとはいえ、基本的には城主たる母が管理しており、愛衣がお菓子作りをしようにも不都合が多い。そもそも、お菓子作りの材料や道具を買い集めようとすると、お小遣い制の女子高生にはなかなか辛い負担がのしかかることとなる。
そんなわけで、茜からの誘いは思わぬ幸運だったのだ。
「でも、私が行っても良かったの? 一緒に作るのはいいけど」
「大変助かります。お嬢様を制御できるのは愛衣さんだけだと思っていますので」
「へ?」
唯一不明瞭な点として、なぜ自分が誘われたのかという理由が分からない。そこに不安を覚える愛衣だったが、食い気味に頷く杏奈にさらに困惑を深める。
「キッチンの修理も終わりましたし、ぜひ辣腕を振るってください!」
「修理? 辣腕? 私、人並み程度にしか作れないけど……」
愛衣の製菓経験は、せいぜいがバレンタインデーやホワイトデーの友チョコ文化によるもの程度。あとは時折、週末など気が向いた時にちょっとパウンドケーキを作ってみるかと思う程度のものである。
「大丈夫です。むしろそういうものが良いのです。爆発しなければ」
「爆発……?」
杏奈の言葉の端々から不穏な気配を感じるが、もはや車は動き出している。今更降ろしてとも言いづらい。
「そういえば愛衣さんは課金もしっかりなさってるんですよね。どういうアイテム買ってるんですか?」
側仕えの気持ちを知ってか知らずか、当の茜は無邪気にFPOのことを話題に上げている。FPOはパッケージ購入型のタイトルだが、課金要素もある。とはいえ、有料課金装備などはトッププレイヤー層にとってはもっと強いものが無課金で手に入るということもあり、さほど見向きもされていない。ペットを効率的に鍛えられる“教科書”や、スキル減少ペナルティなしで機体回収ができる“有料回収券”などが主な購入品目となる。
「私は楽譜なんかを買ってるかな。リアルの楽曲を歌ったりするから」
愛衣が挙げたのは、現実世界のアーティストが発表している実在の楽曲の楽譜データだ。こちらは実際の権利関係などもあり、ゲーム内で演奏するために必要なものだった。
「最近ミネルヴァの新曲が入ってきたんだよね。“シュガースマッシュ”聞いた?」
「聞きましたよ! 爽快感のある曲で大変良かったです」
話題はさらに逸れて、ミネルヴァの楽曲談義へと移る。FPOでは、以前ゲーム内専用楽曲“フォートレスハート”をリリースしたことなどもあって実際にミネルヴァがプレイヤーとしてログインしている説などもまことしやかに囁かれており、ミネルヴァファンを公言する愛衣としてはワクワクが止まらない。
最近リリースされた彼女の新曲“シュガースマッシュ”は、ロトの神話を下敷きにしているのではないか、という自説を持ち出しながら、その魅力について語る。すると茜も持ち前の教養の深さで、打てば響くように言葉を返す。
「最後に砂糖の町が回転しながら滅んでいくところは、いっそ爽快でしたね」
「あのメロディは私も好き!」
ミネルヴァらしい深いストーリー性の隅々までを語り合うことができるのは、愛衣にとって素晴らしく至福のひと時だった。兄は音楽を聴いても『にぎやか』『ゆったり』くらいの解像度でしか感想を吐き出さない役立たずなのである。
「お嬢様、屋敷に到着しました」
「おっともう着きましたか」
ミネルヴァについて語り合っているうちに二人は時間を忘れ、あっという間に清麗院の邸宅へと辿り着いた。車窓から見える広大な庭園だけでも、愛衣は再び緊張を取り戻してしまう。
「さあ、愛衣さん! 一緒に素晴らしい画期的なお菓子を作りましょうね」
「えっ、あ、うん。頑張ろう」
ニコニコと満面の笑みを浮かべてやる気十分の茜とともに、愛衣は清麗院家のキッチンへと向かう。
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Tips
◇原生生物生態記録書
原生生物の生態を詳細に分析し記録した書物。調教師が手懐けた原生生物を鍛えるさいに参照することで、より効率的な鍛錬が可能となる。
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