第1536話「淑女協定」

 世にその名を轟かせる大家、清麗院の壮麗な邸宅。一流の庭師によって細部まで整えられた庭園には季節の花々が咲き誇り、隅々まで手の行き届いた屋敷は歴史の威容さえ感じさせる。当主である清麗院光を筆頭とした清麗院家の歴々が安寧を過ごせるようにと常に万全の支援体制が敷かれ、世界中で最も騒ぎとは縁遠い場所とさえ称されるほどの、静謐に満ちた場所である。


「あーーーーっ! お嬢様、困りますお嬢様! そんなことをされては! あー!」


 雪深い山奥の夜のような静けさが、緊迫した杏奈の声で破られた。植木の手入れをしていた庭師がむっと眉を上げた直後。


――ドカァアアアアアンッ!


「お嬢様ーーーーっ!」


 凄まじい爆発と共に芸術的な館の一角が吹き飛ぶ。紅蓮の炎が龍の息吹のように吹き上がり、飛び散った粉々のガラス片が陽光を弾く。使用人たちの悲鳴と共に警報が耳朶を叩き、即座に警備部の人員が出動する事態となった。

 爆発が起こったのは清麗院家本宅のキッチンだ。即座に火は消し止められたが、多くの使用人たちが集まり場は騒然としている。その渦中でスプリンクラーの水を浴びながら呆然と立ち尽くしているのは清麗院家の一人娘――清麗院茜その人であった。


「そんな……どうして……」

「だからガスコンロは使わないほうが良いと言ったんですよ。とにかくお怪我はありませんか? 火傷している可能性もありますし、一度医者に診てもらった方が」


 狼狽える茜に甲斐甲斐しく声をかけ、タオルで水滴を拭っているのは、侍女長の娘で茜の側仕えである杏奈だ。メイド服が濡れるのも構わず、茜の身に大事がないか入念に確認を続けている。

 そのまま救急車まで要請しそうな勢いに、むしろ茜の方があわてて彼女を押し留めるほどだ。


「わ、私は大丈夫ですから。それよりも他の皆は怪我してませんか?」

「ええ。爆発したのは圧力鍋だけですので。近くにいた者もいませんでしたし」


 どうやら爆発の原因は圧力鍋にあったらしい。近くに人がいなかったことの良し悪しはともかく、屋敷の壁が吹き飛んだ以外に被害はないと分かり、周囲の使用人たちも安堵する。


「それにしても突然お菓子作りだなんて、どういう風の吹き回しですか?」


 早速瓦礫の撤去が始まるのを横目に、杏奈は怪訝な顔で茜を見る。清麗院家の令嬢として蝶よ花よと育てられた茜は、普段から全くと言っていいほど料理をしない。たまに思い立ったように料理をしては、凄まじい思い切りの良さを発揮して料理長の佐山の心臓を揺るがしている。

 そもそも料理をする必要すらないはずの彼女が、なぜ思い立ってキッチンへやってきたのか。古今東西の砂糖を合わせて数トン買い込み、あまつさえそれらを圧力鍋にパンパンに突っ込んで火にかけたのか。奇異に映る主人の行動の理由を尋ねながら、杏奈もうっすらと推測は立っていた。


「えっと、そのぉ……」

「コンテストに参加するんですね」


 周囲の目を気にして言葉を濁す茜に対し杏奈はばっさりと切り込む。真正面から指摘されては隠し通すことも難しく、茜は観念した様子でこくりと首肯した。

 杏奈もつい最近、茜が仮想図書館ではなくFPOというゲームにログインしていることを知った。彼女自身、近頃は海釣りを楽しんでいる。そんな中で突如として公表されたスイーツコンペティション。その審査員として例の男が参加していることは、もちろん聞き及んでいた。なにより重要なのはこのコンペでは完全手動操作という特殊な行動が解禁されるということである。

 であれば、茜――レティが参加を考えてもおかしくはない。


「だからといって、わざわざ現実で練習しなくてもいいのでは?」


 大きな穴の空いた無惨な天井を見上げ、杏奈がこぼす。面目ないと茜は肩を落とす。

 しかし、コンペ中解禁される完全手動操作はスキルによらない自由な動きを可能とするものだ。反面、システムによる支援を受けられないというデメリットもあるが、これも逆に考えれば現実での手腕を制限されないとも言える。そこで、茜は現実での製菓技術を高めた上でコンペに挑もうと考えたのだった。


「杏奈って休日はお菓子とか作りますよね? 教えてくださいよ」

「えええっ!? わ、私が作るようなものがお嬢様のお口に合うかどうか……」

「杏奈のクッキー、美味しかったですよ?」

「ああっ!? この前ちょっと減ってたの、勝手に召し上がったんですか!」


 思わぬ余罪が明るみになりながらも、茜は杏奈に縋り付くようにして懇願する。

 困るのは杏奈のほうだ。側仕えとはいえ、一介の使用人にすぎない彼女に拒否権などあろうはずもない。しかしクッキー程度なら嗜み程度に作れるが、万人を唸らせるような技術は持ち合わせていない。


「普通にパティシエに頼んでくださいよ。ポールがいるでしょう」


 杏奈が名を挙げたのは、清麗院家直属の製菓職人だ。世界屈指の実力を持つ名人であり、これまでにも多くのコンテストで素晴らしい成果を打ち立ててきた巨匠である。杏奈の素人料理よりも、よほど高級なものが作れるだろう。

 しかし茜は唇を尖らせてそれに難色を示す。


「……フランス語はちょっとしかできませんし」

「お嬢様、ご堪能ではないですか」


 FPOのレティならばいざ知らず、清麗院茜という少女は名家の令嬢として相応しい才覚と素養を認められている。当然、主要な言語は一通り叩き込まれており、ポールとの意思疎通も問題などあろうはずもなかった。

 知っている者なら当然の指摘を受けた茜はうっと言葉に詰まる。なおも杏奈から視線を向けられ続けると、観念して口を開く。


「ポールには、3回冷蔵庫を壊して、7回チョコレートを鍋ごと溶かしたあたりで愛想を尽かされました」

「私がいない間に何やってるんですか……」


 側仕えとはいえ、杏奈も四六時中茜に付き従っているわけではない。どうやら彼女の主人は、側仕えという監視の目がない隙に既にやらかしていたらしい。

 語学堪能、博覧強記。麗らかな春の風を思わせる柔らかな物腰と合わせて、財界の大物たちからも親しまれている令嬢である。ほとんど弱点らしい弱点もないと言われている清麗院茜が、これほどのポンコツを晒すとは。幼少期から共に過ごしてきた杏奈でさえ意外に思うほどである。


「そもそもNPWはかなり甘い砂糖なんですよね。現実で練習してもあまり意味はないのでは?」


 本番であるコンペは、前提条件からして現実からずいぶんかけ離れたものだ。いかに完全手動操作があるとはいえ、練習がどれほど役に立つかは分からない。そして、おそらくそれは茜以外の参加者たちにとっても同様だろう。

 そんな思惑も込めて杏奈が問うと、茜は了承しかねると柳眉を寄せた。


「ラクトは実際にお料理教室に通ってるみたいですし、エイミーだって行動食には一家言あるらしいですから。レティ――じゃなくて私だけ何もしないわけにはいかないじゃないですか」

「そういうものですかねぇ」


 杏奈とて、焦燥感を滲ませる主人を無碍にしたいわけではない。とはいえ、これから練習のたびにキッチンが爆散していては、修理費用はともかく日々の食事に支障が出る。

 どうしたものかとしばし唸った後、杏奈はふと妙案を思いつく。

 そもそも茜が凄まじい被害を発するのには、清麗院の財力によるところも大きい。何も圧力鍋が30気圧もかけられる必要はないし、ガスコンロが火柱が立たせるほどの火力も必要ないはずだ。


「お嬢様、愛衣さんと一緒に練習してみたらどうです?」

「なっ!? 敵に塩を送れということですか!?」


 眉尻を上げて驚く茜。


「どちらかといえば砂糖ですよ。愛衣さんなら世間の一般常識も詳しいでしょう。一緒に切磋琢磨すれば、きっとお菓子作りの腕も上がりますよ」

「ぬぬぬぬ……」


 懊悩する茜。太刀川愛衣ことアイは、FPOにおいては〈大鷲の騎士団〉の副団長を務める傑物であり、茜自身リアルでオフ会をした友人でもある。彼女ならば信頼もおけるため、会合のセッティングも容易だろう。

 しかし、愛衣もまた――。


「いいでしょう。ライバルとも手を組むだけの度量も清麗院に必要なものです。愛衣さん本人次第ではありますが……連絡をお願いできますか?」

「かしこまりました」


 腹を括った主人を見て、杏奈は恭しく一礼するのだった。


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Tips

◇ターボスズキ

 〈怪魚の海溝〉に生息する中型の水棲原生生物。独特の排水器官を有し、その高圧排水によって凄まじい速度で遊泳する。力も強靭で吊り上げるにはかなりの技量を求められるだろう。


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