第1526話「増殖する赤い眼」

 驟雨は急速に浮上し、やがて海面へ飛び出す。それでもまだ油断はできず、俺は急いでクチナシたちに指示を出す。


『捕マエタ!』

『サッサト逃ゲルワヨ!』


 ナナミとミヤコがテントごと俺たちを確保し、ウィンチを使って引き寄せる。その間にもクチナシは船を動かし、全速前進で海域を離脱する。すでにイソヲたち協力してくれていた船は撤退が済んでおり、残るは俺たちだけという状況だ。


「出てくるぞ!」


 甲板に転がされたテントから頭を出しながら、ウェイドたちに向かって叫ぶ。

 直後、艦橋の向こうに盛り上がる水の柱が見えた。


『オオオオオオオオッ!』


 地響きのような重く低く響く声。

 無数のシュガーフィッシュを飲み込んだ大食漢が、深海から水上へと姿を表す。

 赤い眼を爛々と光らせ、丸い口を蠢かせ。並んだ牙の隙間にシュガーフィッシュだったものが引っかかっている。それは見るだけで凄まじい寒気を感じさせ、耐性があっても長くは直視できない。

 深淵より飛び出してきた怪魚は、その急激な環境の変化にも平然と耐え、棲家を荒らした者を睨みつける。シュガーフィッシュの踊り食いだけでは飽き足らず、俺たちへの敵意も衰えていないようだった。


『環境負荷測定値、まだまだ上昇し続けてますぅ! ひぃぃんっ!』


 シュガーフィッシュがいなくなっても、砂糖を投下した事実は消えない。今この瞬間にも溶け出した砂糖が海をシロップに変えている。

 ナキサワメが涙目になって悲鳴をあげると、それを聞きつけたようにハギラがこちらに狙いを定めてきた。


『ひぃっ!? た、食べないでください、沈めないでください、襲わないでくださいぃぃっ!』

『そう簡単に沈まないから!』


 死を覚悟した顔で足元から崩れ落ちてハギラに懇願するナキサワメ。彼女の言葉に少しむっとした様子で、クチナシは船を動かす。彼女の操船技術はクチナシ型の中でも随一の精度で、ハギラの猛追にも関わらず徐々に距離を離しさえする。


『こ、これなら助かりますぅ! さすがクチナシ型ですね!』


 ハギラとの距離が離れるほど、ナキサワメが元気になっていく。顔色も良くなって、声にもハリが出てきた。素直と言うべきか、分かりやすいというべきか。


『よくやりましたね、レッジ! おかげでシュガーフィッシュの九割以上が飲み込まれましたよ。あとはちょこちょこ掃討していけば根絶できるでしょう』

「そりゃよかった。ふぅ、さすがにちょっと疲れたな……」


 驟雨から這い出ると、ウェイドが手を差し伸べてくれる。支えられながら立ち上がると、彼女は怪訝な顔をして俺の腹のあたりを見た。


『何か濡れているみたいですが、漏水したんですか?』

「うん? ああ、これは――」

「お、おぷっ」


 事情を話そうとしたその時、驟雨の奥からアンが這い出てくる。顔色はいくぶんすっきりした様子だが、まだ少し気分が悪いようでヨロヨロとしている。何歳か老けたかと疑うほどの憔悴っぷりで、口元を手で拭っている。その様子を見てウェイドも何かを察したようだ。


『えっと、船内にシャワーもありますが……』

「……ありがとうございます」


 ちょっと休みます、と言ってアンは船内に消えていく。

 まだVRの経験も浅いうちに激しい動きをさせすぎたか。リアルの方では無事だといいが。


『ところで、あのハギラはどうするんですか?』

「俺の想定だと、シュガーフィッシュと相打ちか、もうちょっと弱ってるはずだった」

『なるほど!』


 ウェイドが後方を見やる。そこには元気に眼を爛々と輝かせ、こちらを追いかけてくるハギラの姿が。丸い口に、シュガーフィッシュだったものが引っかかってプラプラと揺れている。


『めちゃくちゃ元気そうじゃないですか!』

「そうなんだよなぁ」

『何を悠長なことを言ってるんですか!』


 クチナシは全力で逃走を続けてくれているが、ハギラも諦めるつもりは毛頭なさそうだ。

 シュガーフィッシュも3,000体いればハギラといい勝負をすると思ったのだが、実際は砂糖に目が眩んで反撃もままならずパクりと食べられてしまった。少し目論見が外れてしまって、どうしようかと悩んでいたところである。


『とにかく、あれを撃退しないことには猛獣侵攻もおさまりませんよ』

「ウェイドとナキサワメの生太刀でなんとかならないか?」

『管理者兵装はそう簡単に持ち出していいものではないんですよ!』


 少し前のウェイドに直接聞かせたい言葉だが、実際その通りである。管理者兵装はあくまで最後の切り札。それは〈クシナダ〉をインストールし、大幅に使用可能時間が延びた今でも変わらない。そもそも、管理者は基本的にあらゆる戦闘行為が禁止されているわけで。

 どうしたものか、と腕を組んで頭を捻っていたその時だった。


『レッジ、前から巨大な反応!』


 クチナシの叫び。

 直後、船の前方で海が盛り上がる。


『ひぎゃああああっ!?』


 ナキサワメの悲鳴が飛沫に掻き消される。

 大海原の深くから、何かが現れる。それは赤い眼を爛々と輝かせ、丸い口に無数の牙を並べた――。


「げぇっ、ハギラ!?」

『二体目!?』


 “闇噛みのハギラ”がその威容を見せつける。

 背後には変わらず敵意を剥き出しにしたハギラが。そして前方にも同じ姿が。増殖したわけではない。凄まじい環境負荷によって、二体目のハギラが目を覚ましたのだ。

 否、それだけではない。

 クチナシが緊迫した表情で周囲を見渡す。


『大変だよ。ミオツクシがもう、ほとんど機能してない!』


 異変が起こっていた。それは各地に浮遊するミオツクシが、異常値をカンストさせてしまうほど。巨大な生体反応が海面を埋め尽くす。


「すまん、ウェイド。ちょっとやりすぎたみたいだ」

『な、なな――』


 次々と巨大なヤツメウナギが水面から頭を突き出す。ゆらゆらと幽鬼のように身を揺らし、眠りを妨げるものを探そうとしている。その数は、数えきれないほど。

 海を覆い隠すほどの悪夢が、〈ナキサワメ〉の近海に到来した。


『なんですかコレはーーーーーーッ!?』


 ウェイドが悲鳴をあげる。

 その声に反応し、無数の眼がこちらへ振り向いた。


━━━━━

Tips

◇“闇噛みのハギラ”

 光届かぬ深淵に潜む怪魚。闇さえ喰らう渇望の獣。その姿を認めた者は帰らず。故に、それが眼前に現れし時、闇さえも死を覚悟する。


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