第1525話「深海に凄む闇」
凄まじい勢いで燃料を消費しながらバックブースターが火を吹き上げる。勢いをつけて沈み続けていたテントがギシギシと悲鳴をあげる。アンが真っ青な顔で俺にしがみつく。
「逃げろ逃げろ逃げろ!」
「何か大きいのが動いてる!」
「それが今回の目的だ。ちゃんと起きてくれたみたいだな!」
〈怪魚の海溝〉とは、このフィールドのことをよく表したものだ。今だ水底すら見えないほど深く暗い海は、深度を増すほどに怪しく不思議な魚が増える。そして独自の環境に適応した生態系は、その変化に対して非常に敏感だ。
暗闇がぐらりと動く。
『環境負荷、レッドゾーン。〈
ナキサワメが宣言し、土地が反旗を翻したことを知る。
不可侵の領域へ土足で踏み込んできた相手に、その住民たちは容赦しない。周囲の海水が大きく揺らぎ、捻れる。その向こう側からシュガーフィッシュさえ霞むほどの巨大な影が現れる。呑鯨竜ではない。だが、大きい。
「アン、鑑定できるか?」
「まだ名前しか分からないけど――」
強い光を放つテントへと、巨大な牙の並んだ丸い口が迫る。強い水圧に耐えるため、鱗のないゴム質の表皮。体は細長く、しなやかにくねる。
妖しく輝く赤い瞳が口の周りに無数に並んでいる。
まるで異星からやってきたかと思うような奇特な姿。
「“闇噛みのハギラ”」
アンがその名を呼ぶ。
『ゴァアアアアッ!』
その声が届いたとは思わないが、ハギラは凄まじい声量で咆哮をあげる。水中にも関わらず耳朶を叩くその声は、凄まじい威圧を放っていた。
「ぴぃぃっ」
「じっとして掴まってろ。大丈夫。俺たちは襲われないさ」
非戦闘職のアンは、ハギラのプレッシャーになす術なく身を硬直させる。状態異常“狂乱”の一歩手前といったところまで追いやられているのか、唇まで青くなっている。
そんな彼女の背中を撫でながら、急速浮上を続ける。後ろから追いかけてきていたシュガーフィッシュにとっては、わざわざ踵を返して口に飛び込んできた間抜けな獲物に映っているだろう。彼らは歓喜に吠えて口を開ける。
「欲しいならくれてやるさ。冥土の土産ってやつだ」
その口に、砂糖結晶を突っ込む。
ガリンッと硬いそれを容易く噛み砕き、嬉しそうに咀嚼するシュガーフィッシュ。その真横をすり抜けて海上を目指す。
『プルグァ――ガッ!?』
『ガアアアアアアアッ!』
砂糖結晶に群がっていたシュガーフィッシュたち。彼らが一瞬にして闇に消える。
否、猛烈な勢いで上ってきたハギラの巨大な口に飲み込まれたのだ。
“闇噛みのハギラ”はその名の通り、巨大な口で全てを区別なく飲み込む。ヤツメウナギのような禍々しい外見に違わず、恐怖を周囲に振り撒きながら。
「なんなんですか、あの化け物は! このゲームってダークファンタジーでしたっけ!?」
「深海はちょっとジャンル変わってくるらしいんだよなぁ。あとアン、それは俺じゃなくて砂糖の袋だ」
状態異常“畏怖”を受けたアンは、俺に背を向けながら声を荒げている。ハギラの周囲にいると、耐性がなければ様々な状態異常が襲いかかり、調査開拓員といえど
深海はまだまだ探索の途上にある。血気盛んな調査開拓員といえど、深海の環境では思うように動けない。その上、待ち構えるのがハギラのような冗談じみた原生生物なのだから。
『プルグァアッ!』
『グァアアグッ!』
今更になってハギラの存在に気付いたシュガーフィッシュたちが慌てて逃げようとする。だが、ハギラの恐怖は彼らにも問答無用に襲いかかる。半狂乱となり、冷静な判断力を失ったシュガーフィッシュは自らその空虚な口に飛び込み、また蛮勇を発揮して噛みつこうとして失神している。
水中水族館から脱走した時は、ハギラも彼らに気付いていなかった。しかし大量の砂糖を落として環境負荷を上げ、調査開拓員が一定の深度へと到達すると、ハギルがポップする。そこに全身砂糖まみれの見慣れぬ魚がいたらどうなるか。
「踊り食いだ。思い切り食べてくれ」
ハギルは歓喜に震えているようだった。口を大きく広げ、海水もろともシュガーフィッシュを飲み込んでいく。当然、彼はシュガーフィッシュと俺たちに区別を付けていない。逃げる速度が鈍れば、俺たちもあの口に飲み込まれることだろう。
「うぷっ」
急激な水圧の変化は、テント内にまで影響を与える。狂乱と畏怖のダブルパンチで満身創痍になっていたアンに、その刺激は耐え難いものだったらしい。彼女は顔を真っ青にして震えている。
「その袋、使っていいからな」
「だ、大丈夫です……。メイドが吐くわけには……」
よく分からない理由だが、彼女は必死に堪えている。
その時、少しアンに注意を向けていたのが悪かった。逃げ惑うシュガーフィッシュの尾鰭がテントを強かに叩いた。
「うおっ、と。大丈夫か?」
「んぷっ。――ふくろ、かります」
「ちょ、ちょっと待て! それは袋じゃなくて俺――」
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Tips
◇状態異常“畏怖”
理解不能、論理の破綻した存在を目の当たりにして全ての推測がままならなくなった状態。あらゆる判断が揺らぎ、世界の現実性が崩れてゆく。
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