第1508話「大切だからこそ」
「はええ……。おじちゃん、大丈夫?」
「別にダメージは入ってないさ。とりあえず、手を貸してくれないか」
恐る恐るこちらを覗き込むシフォンに手を引っ張ってもらい、樽の中から脱出する。まさかいきなり初対面の女の子に蹴り飛ばされるとは思わなかったし、中央制御区域の片隅に置かれていた謎の樽に頭から突っ込むと予想すらしていなかった。
「な、何やってるんですか杏奈!」
「ふんっ」
躊躇ない暴挙に凍りついていたレティが動き出す。しかし少女は反省の色もなく、むしろこちらに敵意をバリバリと向けていた。
レティがうっかり本名で呼んでいるが、彼女はリアルお嬢様であるレティの使用人をしている少女だ。年齢はレティと同じくらいで、オフ会の時にも顔は見たことがある。直接話したわけではないが。
「ゲーム内ではアンとお呼びください、お嬢様」
「ほとんど一緒じゃないですか……。もっと分かりにくい名前の方がいいと言ったのに」
「どうせすぐにデータ削除しますので。その前にまずは、この男に天誅を下すべきかと」
「レッジさんは何も悪いことしてませんよ!」
Lettyによるサプライズが失敗に終わったのかと思ったが、どうやらアンは俺に個人的な恨みを抱いているらしい。
「とりあえず、ちょっと場所を変えようか」
往来の激しい中央制御区域では立ち話というわけにもいかない。俺が見知らぬ初心者にぶっ飛ばされた様は衆人環視に晒されているし、今も続々と野次馬が集まって来ている。
アンも注目を集めるのはまずいと思ったのか、案外素直に従ってくれた。
場所を移し、向かったのは久しぶりの〈新天地〉。瀟酒で落ち着いた喫茶店で、背の高いパーテーションによって区切られている。〈白鹿庵〉八人とプラスで一人となるとなかなかの大所帯だが、テーブル一つでなんとか収まった。
「コーヒーでも飲みますか? ここのマスターは豆からこだわっているんですよ」
「どうせ仮想現実のものじゃないですか」
「そ、それはそうですけど……」
ぷいっと顔を背けるアン。レティが困り顔で、まるで主従が逆転しているかのようだ。オフ会で見た時はもっと使用人然としていた気がするが、本来はこれくらい砕けた仲なのかもしれない。
「とりあえず自己紹介といこうか。もう知ってると思うが、俺はレッジだ」
「ラクトだよ。リアルの方が先っていうのも変な感覚だね」
とりあえず場を整えようと、自己紹介を始める。ラクトが気を利かせて続き、エイミーたちもそれに従う。
「Lettyです。初めましてですね。えっと、レティさんのファンで、フォロワーなんです」
先ほどは失礼しました、とLettyが頭を下げる。レティのリアルの知り合いがやって来ると聞いて、Lettyがレティのフリをするというサプライズを考案したのが彼女だ。結果は、俺は見ていないのだが、どうやらあまりうまくいかなかったらしい。
「レティとLetty、よく似てると思うんだけどな。すぐバレたのか?」
「まあ、うん。――詳しいことは彼女の尊厳に関わるから話さないけど」
そっとラクトに耳打ちすると、彼女は微妙な顔をして頷く。身長も体格もほとんど同じ二人だが、やはりリアルでも付き合いの長い相手だとすぐに分かるものなのか。例えば俺のフォロワーがいたとして、シフォンはすぐに看破してくれるのか。
「Lettyさんは先日のオフ会にはいらっしゃいませんでしたね」
「その後で加入したので。ぜひリアルのレティさんとも会いたいんですけどね」
「お嬢様もご多忙な身ですので、ご了承ください」
「リアルメイドさんがいる時点で十分分かってますよ」
Lettyはレティが清麗院家の一人娘であるとは知らない。とはいえ、かなり上流の家庭であることは察しているようだ。
「アン、まずはレッジさんに謝ってください」
「ですが――」
「謝りなさい」
全員が名前を述べたところで、レティが口を開く。渋っていたアンだが、いつになく強い口調のレティには逆らえず、ぎこちなく頭を下げてきた。
「申し訳ありません、レッジさん。レティの責任ですので……」
「いや、そんなに怒ってないからいいんだが」
使用人の落ち度は主の落ち度と言うように、レティも揃って謝罪してくる。そこまで真面目になられても、正直反応に困るのだが。むしろその姿勢はアンに見せていたようで、主人に頭を下げさせてしまった彼女はばつの悪そうな顔をしていた。
「お嬢様……」
「アンも熱くなりすぎです。た、たかがゲーム内のことですし。そ、そもそもマウストゥーマウスじゃ、ないですし……。ていうかレッジさんあんまり覚えてないみたいですし……」
「レティ、自分でダメージ受けてるじゃない」
アンが怒っていたのは、先の調査開拓員企画の顛末のことだろう。額に、とはいえレティが俺にキスをして、その写真が出回った。彼女がここまでやって来たのも、ゲーム外にまでそれが流出したのが発端である。
アン自身はレティがFPOというゲームをやっていたとは知らず、オフ会で集った俺たちの共通点も理解していなかったという。正直、彼女に詳細を伝えていなかったレティもどっこいといった感想が浮かぶ。
「ともかく、アンもFPOの魅力を知れば、きっと――」
「やりませんよ」
淀んだ空気をさらっと流そうとするも、アンがきっぱりと言い切る。てっきり彼女もレティと共にFPOを始めるのかと思ったのだが、そういうわけではないのか。
レティの方を見ると、彼女もぽかんとしていた。
「私はあなたを一発殴って、お嬢様を連れ帰るだけです。お嬢様、早くログアウトしましょう」
殴られたというか、飛び蹴りだったのだが。
という些細なところはこの際無視だ。レティがあたふたとしてアンを見る。
「は、話が違いませんか!? アンも一緒に遊びましょうよ!」
「そんなことを話した覚えはありません。お嬢様にはするべきことがあります」
「や、やるべき事はやってます!」
アンはレティがVRMMOにうつつを抜かす現状を良く思っていない。清麗院の娘ともなれば、確かに忙しい日々を送っているはずだ。とはいえ……。
「まあ、ちょっと落ち着けよ」
ヒートアップする二人に口を挟む。
あまり人様の家庭の事情に首を突っ込むというのも誉められないが、レティは大切な友人だ。たとえその使用人と言えど。
「何も知らないでこのゲームを判断するのも早計だろ。とりあえずお試しでいいから、ちょっとくらい体験してもいいんじゃないか?」
FPOも無料ではない。パッケージだけでもそれなりの値段だ。それをレティをやめさせるためだけに使うというのももったいない話だろう。
「結構です。私、ゲームはやりませんから」
「だったら尚更だ。初めて触れるゲームなら、レティと一緒にやった方がいい」
「しかし――」
頑なな態度を崩さないアン。その時だった。
「もうっ! いい加減にしてください!」
したたかに天板を叩き、レティが立ち上がる。珍しく感情を露わにした彼女は、ルビーの瞳をアンに向ける。怒る様はアンにとっても慣れないものだったようで、その顔には怯えと戸惑いの表情が浮かんでいた。
「お、お嬢様……?」
「ゲームを楽しむことの何が悪いんですか。お母様も認めてらっしゃるんですよ。そもそも、自分で体験もしていないのに一方的に悪いと決めつけるなんて失礼です。貴女は私のことを思っているようですが、その行動は迷惑です!」
「あ、え……」
一呼吸のもとに捲し立てられた言葉。
ラクトたちも呆然とするなか、一番突き刺さったのはやはりアンだ。オロオロと周囲を見渡し、レティを見上げ、しゅんとする。
「貴女の歪んだ独断と狭い偏見で、私の大事な人たちを傷つけないでください」
怒り心頭とはこのことだろう。いつもの様子をかなぐり捨てて、レティは毅然と言葉を放つ。それほどまでに〈白鹿庵〉を大切に思っていることは嬉しいが、同時に心配でもあった。
アンも、レティにとっては大事な存在であるはずだ。どちらかを選ぶとすれば、彼女を選ばなければならない。仮想現実よりも、現実の方が重要なこともある。
「まあ、なんだ。――ちょっと釣りでもしないか?」
どうこの場を切り抜けるべきか考えあぐね、結局飛び出したのは自分でも予想外の言葉だった。あまりにも脈絡のない提案は、怒りや悲しみといった感情を吹き飛ばすようで、レティもアンもそろって不思議そうに首を傾げた。
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Tips
◇プライベートモード
一部の飲食店やレンタルスペースでは、追加料金を支払うことで会話や音声が周囲から遮断されるプライベートモードを設定することが可能です。スキルやアイテムによって盗聴される心配もありませんので、周囲に聞かれたくない話などをする際にご活用ください。
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