第1389話「日常の中」
1,000円越えのカフェオレは、正直コンビニで売っているものとの違いが分からなかった。レティ――目の前のソファに腰を下ろして、優雅にティーカップを傾けている、清楚な美少女――は気後れした様子もなく、それどころか高そうなティーセットも霞むようなオーラを放っているように見えた。
いまだに現実味がないというか、彼女が〈白鹿庵〉のレティだという確証は持てていない。でも、動作の端々に彼女らしさを感じた。
「ごめんなさい、愛衣さん」
「はひっ」
緊張しきっている私を見かねてか、レティが眉尻を下げて口を開いた。何か気に触るようなことをしてしまっただろうかと肩を跳ね上げる私を見て、彼女はぺこりと頭を下げた。
「本当はもう少し、カジュアルな雰囲気にしたかったんですけど。色々と制約もありまして」
彼女はそう言って、壁際に立っているメイドさんの方を見た。メイドさんの方は澄ました顔のままだ。
そういえば、彼女は初対面にも関わらず私の本名を言い当てた。おそらく事前に調べていたんだろう。というか、事前に調べられるだけの力があるという方が合っているかもしれない。
「私だけ正体を明かさないというのも、不公平ですよね。できれば他言無用でお願いしたいのですが……」
そう言ってレティが口を開く。明かされた彼女の名前。それはこの世界で一番有名な家の名前だった。
開いた口が塞がらない。比喩ではなく、文字通り。VIPどころの騒ぎではない。むしろなぜ私がそんな大物御令嬢とお茶会しているのか分からない。これが夢?
「夢じゃないですよ。――ともかく、今の私はただのレティです。私も愛衣さんではなく、アイさんとして接しますから。よろしくおねがいします」
「よ、よろしくお願いします」
彼女がそう言うのならば、そうするべきだ。
その名前が本物ならば今の状況にも納得がいくし、彼女ができるだけ警備を抑えたと言った言葉にも真実味が出る。向こうがそれだけ歩み寄ってきてくれているなら、こちらも心を開くのが礼儀だろう。
カフェオレを飲んで、腹を括る。流石に殺されることはないだろう。――ないよね?
「それでアイさん、わざわざオフ会でレティを誘ってくれたのはなぜなんです?」
「そ、それは……」
決意を固めた瞬間にクリティカルな質問が投げ込まれた。向こうは口元に笑みを浮かべて、大体分かっているのだろう。
「その、レッジさんは何をされているのか、気になりまして」
「ま、そんなことだろうと思いましたよ」
先日の大型イベント終了後、レッジさんが消息を絶った。物々しい言い方だけど、実際のところは十日ほどログインしていないだけ。それだけとはいえ、これまで基本的にずっとログインしていたレッジさんが、これだけ活動していないのは十分な大事件だ。
レティたち〈白鹿庵〉のメンバーは一度レッジさんとオフ会もしている。リアルで顔を合わせたことのある彼女たちなら、何か事情を知っているのかと思った。
「でも、すみません。レティたちも詳しいことは知らないんですよ」
「えっ、そうなの?」
力をなくすレティに思わず声が出る。レティがただの一般人なら仕方ないと思ったけれど、彼女はかの清麗院家の一人娘だ。私の本名を調べたようにレッジさんのことも調べられると思ってしまった。
「レッジさんは少々特殊な事情を抱えていまして、普段は入院生活を送っているんです」
「そうですか」
そこに驚きはない。平日の昼間からずっと仮想空間に入り浸るというのは、ただ時間的な余裕があればいいというわけではない。VRヘッドセットだと一日五時間くらいが限度と言われている。レッジさん並に長時間活動しようとすれば、専用のVRシェルを用意しなければならないはずだけど、到底個人で所有できるような代物でもない。
だからこそ、そのあたりの事情に詳しいプレイヤーの間では、真実味を帯びた噂話として語られるようなことだった。
「今更ですけど、レッジさんの事情を教えてもらってもよかったんですか?」
レッジさんのことが知りたくてオフ会を企画しておいて本当に今更だけど。普通に考えて個人情報を聞き出そうとするのはマナー違反どころの騒ぎではない。けれどレティは意外にもすんなりと頷いた。
「いいですよ。どうせこの店に入った時点でアイさんには守秘義務がありますから」
「ひょええ」
そういえばそうだった。というかまあ、私がいくらレティが清麗院家の一人娘だと言っても、信じてもらえるわけがないけど。副団長が発狂したと思われるのが関の山だろう。
「それとなく調査したところによると、レッジさんは今、検査入院を行っているとかで」
「検査入院?」
「はい。それ以上のことは分かりませんが」
レティも当然レッジさんの安息は気になっていたんだろう。すでに調査は行われていた。それによると、レッジさんは今、どこかの病院で検査入院中とのこと。そう聞けば脳裏に嫌な考えが浮かぶ。
「その、」
「一応命に別状はないと聞いています。外部との接触が断たれているのは、安全のためとかで」
「はぁ。安全……?」
本当にレッジさんはよく分からない。ドローンを一度に何十機も動かしてみせるあたり、普通の人だとは思っていなかったけど。私や他のプレイヤーが予想しているよりもはるかにすごい人だったみたいだ。
「レッジさんって脳みそだけってわけじゃないですよね?」
「あはは。とりあえず人の形はしていましたよ」
少し不安になって尋ねると、レティは笑って首を振る。そういう噂もまことしやかに囁かれていたけれど、ひとまず安心だ。
「でも、面白い話ですよね」
レティがパンケーキを切り分けながら言う。
「FPOってVRMMOゲームなのに、レッジさん一人がいないだけでサーバー全体の活気が落ち込んだような気がします」
彼女の言葉は真実だった。
〈白鹿庵〉はもちろん、〈大鷲の騎士団〉をはじめとした攻略組と呼ばれるようなトップ層の活動は如実に鈍化しているし、市場に流通する作物も新しいものが出てきていない。植物研究所は爆発していないし、管理者たちも起こっていない。
……あれ、平和になっているのでは?
でもやっぱり、みんなどこかで物足りなさを感じているはずだ。
「改めて、レッジさんの存在の大きさを実感します。冗談抜きで、あの人がいなくなったら引退するプレイヤーも多いんじゃないでしょうか」
「あはは。それは困りますね」
彼ほどプレイヤーにもNPCにも強い影響を与えているプレイヤーというのは稀だ。先のイベントでは、おそらくシナリオAIが組み上げたストーリーさえ捻じ曲げて、結末を変えてしまったと言われている。
運営的には不穏因子がいなくなってやりやすくなったのかもしれないけど。
「検査入院は長くなるんでしょうか」
「さて、それも分からないんですよ。せめてメッセージくらい送れるといいんですけどね」
レッジさんは地底にでも封じられているのだろうか。メールどころか手紙さえ送れないような状況で監禁されているというのは、法律的に大丈夫なのだろうか。
自分にはどうしようもないけれど、色々と考えてしまう。自分でも驚くほどに、私は彼と会えないことにストレスを抱えているようだった。
もやもやした気持ちを紛らせるように半分に切ったパンケーキにフォークを伸ばしたその時だった。突然、部屋の電気が消える。停電かと驚いた直後、ドアが荒々しく蹴破られて人が入ってきた。
「お嬢様!」
「竹村、有村、状況を」
「え、うわ、えっ、なに!?」
入ってきたのは外で控えていた黒服の男二人組。たぶん、レティの護衛。メイドさんの真剣な声。レティはすぐさま立ち上がり、壁に背を預けていた。一瞬の出来事にも関わらず、全員が異常に慣れている。
「原因不明の停電です。事前の確認で電気系統に異常は見つかっていません」
「半径100メートルに統制を。予備人員も装備を整えて警戒に。電源復旧を優先しろ」
報告と通達が行われ、店内で食事を楽しんでいた一般の客たちが一斉に動き出す。も、もしかして全員私服警備員だったってこと?
「れ、レティこれは……」
「安心してください、愛衣さん。たまにこういうことがあるんですよ」
不安になる私を見て、レティは少し悲しそうに笑う。こんなことに慣れているとは、どういう意味だろうか。それを問う勇気はなかった。
思わぬ恐怖に足が震え、ソファに座り込んでしまう。そんな私を黒服の一人が支えてくれるけれど、彼は私さえも警戒しているように見えた。
その時――。
「っ! 電気が――」
部屋の明かりが戻る。そして、メイドさんが耳に着けていたイヤホンに何かの連絡があがったようだった。
「――不審者を五名確保。全員、武装していたようです」
「武装……」
聞こえてきた言葉にゾッとする。平和なこの国の街中で、そんな単語を耳にするとは思わなかった。真剣なメイドさんの表情からして、嘘や冗談ではないこともわかる。そして――。
「そうですか。対処はよろしくお願いします」
レティもまた、驚きなくそれを受け止めていた。
「それが、お嬢様」
「どうかしましたか?」
メイドさんの報告には続きがあるようだった。困惑した様子のメイドさんに、レティも首を傾げる。
「確保した者によると、襲撃は電気系統の細工からだったようで、突発的な停電で偶然それが免れたと言っています」
「停電が向こうの思惑ではなかったと?」
「そういうことになります」
私の理解が及ばないまま会話が進む。
その時、VIPルームの壁に取り付けられた大きなディスプレイが突然起動した。
『よう。セキュリティが随分ザルになってるじゃないか』
「っ!」
スピーカーから聞こえてきたのは、男の人の声。
その声に全員が驚き振り返る。メイドさん――杏奈さんと黒服の二人だけが、苦々しい顔をしている。
『とりあえず、キッチンの床下とその部屋の壁の中を調べといた方がいい』
なんでもないように、まるでコーヒーを注文するような気軽さだった。黒服の一人が勢いよく飛び出し、もう一人がレティが背中をつけていた壁を拳で叩き割る。壁板の向こうからは、ダクトテープでぐるぐる巻きにされた何かが転がり出てくる。
「レッジさん!」
あからさまな危険物が出てきたにも関わらず、レティは心底嬉しそうな声で真っ白な光を放つディスプレイに呼びかけた。
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Tips
◇特製パンケーキ
クリームをたっぷりと使ったふわふわのパンケーキ。甘くて柔らかくてほんのりと温かい。お好みのソースをかけて。
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