第1380話「白き翼を広げて」
黒い蹄が霞を蹴った。それは目にも止まらぬ瞬足で人々の足の隙間を駆け抜けて、滑らかに背を揺らす。水晶の枝角が風を切る。その姿は、いつもの微睡に頭を揺らす光景からは想像がつかないほどに鮮やかだ。
「ちょっ、白月!」
後から追いかけるのはレティたち。地下街の窮地を脱し、騒ぎを聞きつけて地上へと登った彼女たちを出迎えたのは、レッジの連れている白神獣の仔、白月だった。彼は階段を登って現れたレティたちを見るや否や、身を翻して走り出した。突然のことに理解の追いつかないまま、レティたちは咄嗟にその丸い尻を追いかけた。
「白月! 待ってください。レッジさんは――」
レティの声に応じるように、白月が黒く湿った鼻先を斜め上に突き出す。人が指で何かを指し示すような動きに、レティはその先へと目をむけ、そして見つけた。
背後にオラクルを伴い、宙に立つ少女。銀髪碧眼の美しい貌は管理者のもの。その名前を叫びかけて、レティは違和感に気付く。いつもの彼女のような知的な輝きがない。どこか深淵を覗き込んでいるかのような底知れない恐怖感すら覚える。あれは一体なんなのか。
それを考える間もなく白月は調査開拓団員の足元を駆け抜け、そして宙を蹴った。
「ちょ、ちょっと!」
白月は霞を蹴り、宙へと駆け上がる。彼の唯一無二の能力だ。レティはそれを追いかけようとするが、瞬く間に彼女の跳躍力でも至れない高みへと引き離された。地上に残されたレティは、遅れて追いついたラクトたちとともに、白い小鹿の行末を見守ることしかできない。
ウェイドの形を借りた何かは高らかに叫び、レッジを青い魔法陣の上に載せている。献花台。そんな言葉が漏れ聞こえてくる。まるで彼が生贄のようだと不安が胸をよぎり、そして現実となる。
「レッジさん!」
「レッジ!」
彼の胸が十字に割れた。溢れ出す光。その奥から巨大なツノの先端が覗く。
レティたちには見覚えがあった。
「あれは……この前の……」
呑鯨竜の体内、無限に続く迷宮の壁を壊した先にいた者。星の海を泳ぐ巨大な白龍。その姿の一端であるとレティたちははっきりと理解できた。何よりも纏う空気の神々しさがその証左だったのだ。
世界の外側へと漏れ出たレティたちを、元の場所へと導いてくれた白龍。その正体が、総司令現地代理イザナミであると知った。だが、同時に疑問も浮かぶ。
上空の偽ウェイド――オトヒメは死者の蘇生を宣言している。白龍は生きているはずだ。なぜ。
その疑問が解ける前に、小鹿が迫った。
『キュィ――ッ!』
甲高い、可愛らしい声。レティたちも初めて聞く白月の鳴き声だ。彼は猛烈な勢いで宙を駆け上がり、一瞬でオトヒメたちと同じ高度へと至った。即座にオラクルが雷鳴を轟かせ、稲妻を放つ。それは容易く、小鹿の体を貫いた。
しかし。
『なっ、幻惑!?』
投げ出された白い体が輪郭を失い、溶けるように消える。オラクルが霞を集めた幻であることを理解したのは、遅い。
『やめっ』
オトヒメが目を見開く。オラクルが手を伸ばす。わずかに、爪一枚ぶん届かない。
小さな蹄が、白いツノを蹴った。
『あああああああああああああああああああっ!!?』
オトヒメの悲鳴。
最後の最後。儀式が成し遂げられるその直前に、他ならぬ白神獣、彼女の仔によって阻まれる。思いもよらない事態に思考が停止する。ウェイドの管理者機体を依代とした彼女は、その代償として演算能力も大幅に制限されてしまっていた。
更に。
『――私の体は返してもらいましょう、オトヒメ――なっ、がっ!? ――そこは、私の席ですよ――何を言って!?』
彼女は身悶える。口が暴れるように言葉を紡ぐ。左手が髪を掻きむしり、右手がそれを抑える。糸の絡まった操り人形のように奇妙な動きに、地上のT-1たちさえ訝る。
目の前でツノが沈んでいく。レッジの胸から現れようとしていた巨龍の体が離れていく。
『ま、待って! 行くな、行かないで! ――諦めなさい。あなたの計画は終わりです――しかし、まだ――』
オトヒメは錯乱する。錯乱して叫ぶ。オラクルが錫杖を構えるが、主に向けて良いものかと逡巡する。その隙にツノは沈みきり、男の胸元に開かれた十字の傷がゆっくりと閉じる。
その様子を、オトヒメは見届けることしかできない。
『待て、待って……待ち続けたのに……! やっと、やっと……!』
慟哭が響く。悠久の時を越え、満を辞して動き出した計画が、結実する間際に目の前で破綻した。こんなことがあろうか。献花の儀は失敗した。
オトヒメは膝から崩れ落ちる。術式制御の余裕もなく、ゆっくりと落ちていった。
『ちょっ!? あなた、何を、早く体勢を立て直しなさい! この
もがきながら落ちる管理者。オラクルが手を伸ばすが届かない。
その時だった。
「ん、あー……。なんか妙なことになってるな」
『っ!』
男の声がする。まるで昼寝でもしていたかのような気の抜けた声だ。オトヒメの片目がその方向へ向く。
「とりあえず、助けた方がいいか? いや、そっちの方が頑丈なのか」
『無理な操作が祟ってほとんど壊れかけなんですよ! 何でもいいから助けてください!』
「しかたない。――白月、『幻惑の霧』だ」
主の声に応じて、小鹿が霧の足場を生み出す。彼はそれをとん、と蹴ってウェイドに手を伸ばす。
「なんとか戻って来れたみたいだな」
『全く、ドサクサに紛れて妙なプログラムを仕込みましたね』
男の手を取りながら、ウェイドは唇を尖らせる。オトヒメに乗っ取られ、〈ウェイド〉の予備機体に弾き出されてしまった彼女は、そこであるものを見つけた。それは油断ならない男が混乱に乗じて管理者機体に仕込んだバックドアの存在と、その鍵を開くコード。
「こんなこともあろうかと、ってな」
ウェイドの背中に手を回し、抱き寄せる。
彼は小さな管理者を抱きしめたまま、背中を地面に向ける。
『いいんですか。このままだと落下死しますよ』
「うん? ああ、なんとかなるみたいだからな」
要領を得ない説明。いつものことだが、ウェイドは首を傾げる。
その時、彼は背中を曲げて、スキンを破った。内側から現れたのは〈換装〉スキルによって増設されたサブアーム――ではない。
『ぬああっ!? ちょっ、あなた、それは!? ――うわああっ!? 我様びっくり! それどうなってんの!? ――ええい、あなたは黙ってなさい、レッジは説明を!』
ウェイドの目の前で、男の背中から純白の翼が広がった。皮膜に風をはらみ、鱗を輝かせながら、それは軽やかに動いて体勢を変える。
レッジはウェイドの声に応えないまま、口元を緩めて地上街の上空を飛翔する。眼下にはT-1たちの唖然とする顔が並んでいる。その中には赤髪のライカンスロープの姿も当然。
「よく分からんが、なんか出た」
『なんか出たじゃないでしょう!?』
男は悠然と空を翔ける。力強く翼を広げ、風に乗り。
胸に抱いた少女が大きな声で叫んでいるが、それも地上までは届かない。
彼は翼の持ち主が――彼女が満足するまで空を飛び、そしてゆっくりと旋回しながら地上へと降り立った。
━━━━━
Tips
◇〈生存〉
〈白き深淵の神殿〉にて発見された新たなスキル。詳細は不明だが、スキルシステムに接合される。生命力を高める。
“生きる者。今を歩み、未来へと至る者。その証。生者とは永遠を歩く旅人。”
Now Loading...
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます