第1309話「虚無の中の敵」
掲示板の力を借りながら、〈エウルブギュギュアの棺槨〉の調査を進める。どうやらこの空間は事前にギミックを解除しないと五感が封じられてしまうという厄介な性質を持っているらしい。
五感を解放する条件は、第四階層の宇宙空間を遊泳する巨大な幽霊魚に喰われて第五階層に到達すること。俺自身ではなく、他のプレイヤーが喰われてもちゃんと解放条件は満たされる。
今の所、俺はこの泉への入場券、第六感、嗅覚が戻っている。触覚だと思っていたものは、第六感による薄い知覚なのだろう。第五階層地上街にあるゲートは八つ。まだ五つが解放されていない。
「っと。なんか来たな」
相変わらずなにも見えない真っ暗闇だが、前方から何かがやってくる気がする。自分の体も見えないが、槍とナイフは扱えるはずだ。俺は直感に従い、槍を突き込む。
「せいっ! ――やっぱりなんかに当たったみたいだな」
手応えはない。触覚がないからだろうか。しかし、嗅覚が血のような匂いを感じ取る。目の前に何かが現れて、俺の槍がそれを突き刺したのだろう。できれば敵性存在であってほしい。
「うーん、視覚が戻らないっていうのは厄介だな」
現状確認できるのは八咫鏡のみ。純粋な視界ではなく、機械眼によって表示される仮想ディスプレイだけだ。おかげでログアウトなんかのシステム的な行動と、インベントリへの接続、掲示板へのアクセスなんかは問題なくできる。
「ああ、なるほど。そうすればいいのか」
五感のほぼ全てが封じられている状態で、どう動くべきか。掲示板の民たちが第四階層で幽霊魚に喰われようと頑張ってくれているが、それを待っている時間も惜しい。
少し考えて、ひとつ思いつく。
八咫鏡によって表示されるシステムウィンドウは確認できるのだ。
「つまり、システムログを見ながら動けばいいってわけだ」
俺自身の感覚は当てにならないが、システムログはいつでも正しい。試しに匂いのする方へ槍をさらに突き込んでみると、システムログが流れた。
[レッジ→カオスゴブリン:通常攻撃42ダメージ]
[レッジ→カオスゴブリン:通常攻撃48ダメージ]
[レッジ→カオスゴブリン:通常攻撃120ダメージ(クリティカル)]
[レッジがカオスゴブリンを倒した]
つらつらと流れるシステムログには、俺が何を攻撃し、どれだけのダメージを与えたのかという情報が詰まっている。どうやら、目の前にいたのはカオスゴブリンという敵だったらしい。
「ゴブリンにしては弱いな。大体五連撃で倒せるか。……もしかして」
槍を解体ナイフに持ち替え、匂いを頼りに足元に倒れているはずのカオスゴブリンを探す。〈解体〉スキルを使用してみると、いつものように対象を解体するための赤いラインが表示された。
やっぱり、この赤いラインはシステムによる支援だから、この状態でも表示されるらしい。
細かなグリッド越しに、カオスゴブリンの輪郭が浮かび上がる。見たところ、形は他のゴブリンとそう変わらないのだろう。色や細かいところまでは分からないが、大まかなサイズ感が掴めただけでも御の字だ。
ついでに解体も済ませ、アイテムを入手する。相変わらずアイテムも全く見えないし触った感覚もないが、匂いだけはする。獣臭い匂いだ。そして、鑑定もちゃんとできた。
五感が感じられないだけで、使えないわけではないのか?
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◇カオスゴブリンの霊魂
混沌の中から生まれたばかりの未熟な魂魄の欠片。世界への憎悪だけがそこにあり、それ以外の何もない。
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手に入ったのはカオスゴブリンの魂魄のみ。骨や皮はドロップしなかった。それに、俺の〈鑑定〉スキルレベルでは大した情報も得られない。とりあえず分かったのは、カオスゴブリンはさほど強い相手ではないということくらいか。
「しかし、そよ風すら聞こえない全くの無音っていうのは久しぶりだな」
静かな場所だ。感じるのは曖昧な直感と、微かな匂いだけ。それ以外の五感は全て封じられている。こんな状況に陥ったのは何年振りだろうか。
昔も神経が千切れたか麻痺したかで、生きてるのか死んでるのか分からんような状態だったことがある。まあ、今もその時の余波というか副作用みたいなもので、砂糖水しか飲めない生活をしているわけだが。
俺は何度かそういう経験があるから感覚の完全遮断にも慣れているが、普通のプレイヤーがこの状態でこのフィールドに入ったらどうなるんだろう。普通に考えれば、ヘッドセットの安全装置あたりが働いて強制ログアウトになるか。
「とりあえず進めないこともないな。軽く見て回るか」
槍を振り回しながら適当に進む。槍の穂先がたまにカオスゴブリンに当たるくらいで、基本的には何もない広大な空間らしい。地図でも作れたらと思ったが、いくら歩いても壁にぶつからない。
しかたがないから、当てもなく歩き続ける。そうしていると、不意にTELがかかってきた。相手はレティだ。
「もしもし?」
『もしもし、じゃないですよ。何やってるんですか』
一仕事終えて落ち着いたのか、少し疲れた声だ。彼女は俺が黒い泉の中に入ったことを知っている様子だった。
「とりあえず軽く歩き回ってるんだが、五感がほとんど封じられてるからなぁ。カオスゴブリンがいることくらいしか分からん」
『なんでその状態で歩き回ってるのか分からないんですけど……。とりあえず今は泉の前にいます。カミルを連れて後方の陣営に戻ろうと思ったんですけど、彼女動かなくて』
どうやら、わざわざ中央城塞まで様子を見に来てくれたらしい。カミルを安全な場所まで送ろうともしてくれたようだが、本人が頑として動かないという。
『ここにいろと命令された、と』
「ええ……。一応優先度的には自身の安全確保の方が上だから、帰ろうと思えば帰れると思うんだが」
メイドロイドは主の命令に忠実だが、いくつかの条件においてはそれを拒否することもできる。いわゆるロボット三原則的な絶対原理で、自己の安全確保は最上位の優先度が課されているはずだ。
それでもカミルが後方に戻らないというのは、彼女の高すぎる戦闘能力と生存能力故だろうか。
『はぁ。レッジさんは鈍ちんですねぇ』
「な、なぜ!?」
『それが分からないからですよ!』
首を捻っていると、レティに怒られた。かなり察しはいい方だと自負しているんだが、どうして……。
『とりあえず、今はまだレティたちは入らない方がいいんですよね?』
「そうだな。頑張ればトーカが行けるかもしれないが、強制ログアウトのペナルティを喰らいたくないならやめといた方がいい」
『レッジさんがいる所はどんな地獄なんですか……』
「自分でもよく分からん」
スピーカー越しにレティの呆れる様子が伝わる。TELの音声だけは通じるというのは、不幸中の幸いか。人の声が聞けるだけでも、精神的にはすごく楽だ。
「まあ何とかやってみるよ。レティたちもギミックを解いた後にしっかり準備をしてから――」
その時だった。
『レッジさん?』
思わず口をつぐんでしまうほどの怖気が背中を撫でた。
レティの不安がる声も遠のく。五感のほぼ全てを失いながらも、第六感が強烈な危険を訴えてくる。俺は、それに身を委ねた。
「うぉわっ!?」
風も音も衝撃も感じない。だが、反射的に飛び退いた。
[???→レッジ:混沌の大波2760ダメージ]
余波を喰らっただけだ。わずかに肌を掠めただけ。
にも関わらず、LPが大幅に消し飛んだ。ギリギリのところで耐えたのは運が良かっただけだ。LPアンプルを砕き、回復する。だが、第六感はまだ脅威が去っていないことを伝えている。
『レッジさん!? 何かあったんですか!?』
「戦闘だ。よく分からんが。ちょっと話す余裕はないかもしれん」
『ええっ!?』
レティとの通話も切らざるを得ない。五感が足りない分、全身全霊で直感を研ぎ澄まさなければならない。
肌を炙るような緊張感。
「右ッ!」
理由などない。ただ、その辺りが危ない気がした。それだけで十分。それ以上を求めても間に合わない。
考える前に動く。
[???→レッジ:混沌の斬撃860ダメージ]
[???→レッジ:混沌の斬撃865ダメージ]
[???→レッジ:混沌の斬撃843ダメージ]
[???→レッジ:混沌の斬撃888ダメージ]
[???→レッジ:混沌の斬撃829ダメージ]
それでもギリギリ逃れられない。立て続けの五連撃が一気にLPを削る。
アンプルの使用可能時間はまだ来ていない。
「これは、ちょっと厳しくないか?」
何も見えない、何も感じられない、何も聞こえない。どんな姿をしているのかも分からない。不可視どころか、認識そのものができない敵が目の前に立ちはだかっている。
こいつをどうにかしなければならないというのは、無茶を言ってくれる。
「でもやるしかないよなぁ」
槍を構える。サブアームも全て展開し、全力だ。そうしないと、相手にもしてくれない。
己の直感だけを信じて、走り出す。
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Tips
◇カオスゴブリン
混沌の中から生まれたばかりの純粋な憎悪の塊。生きる者全てを恨み、殺意を向ける。まだ己の存在理由すらないままに。
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